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Scene1-1 あざとい後輩

璃玖(りく)センパイ、ここの式の展開、どこが違うのか分からないです」

「ん、どれどれ。……ここのエックスに二乗つけてないのと、あと、ここの項が次の行で符号変わっちゃってる」

「見つけるの早っ! じゃあ、こっちの問題は?」

「えっとだな」


 一学期の期末テストを一週間後に控えたある日。県立六鹿(むじか)高校本館の視聴覚室に十数人ほどの生徒たちが集まっていた。彼らはアウトドア部のメンバーとその友人たちであり、今まさにテスト対策の勉強会の真っ最中である。


 部の勉強会とは言っても基本的には各々のやっていることはバラバラだ。黙々と問題を解き続ける者もいれば、仲の良いグループで集まり勉強を教え合っている者もいる。が、基本的には同じ学年で固まっていることがほとんどだった。


 ところがその中で一人、同級生グループから離れて二つ年上の先輩男子に絡んでいる女子生徒がいた。

 その少女は女子にしては比較的高身長で、しかもかなりの美形である。外国の血が混じっているのか髪色も根元から明るく、モデルをやっていると言われても余裕で通用しそうなルックスだった。


「センパイすごいです! 教え方、上手ですね♡」

「お、おう」


 そんな彼女がニコニコ顔で褒め称えるものだから、先輩男子こと樫野(かしの)璃玖(りく)はたじたじであった。

 彼は照れ隠しをするように、やや癖のある黒髪を指先で(いじ)る。そうして顔を半分隠しつつ、泣き黒子(ぼくろ)のある左目で相手の様子を伺うのだが、そこには相変わらずとびっきりの笑顔の美少女が彼の顔を見つめ続けている状況が広がっている。むず痒いことこの上ない。


 璃玖を見つめる少女の名前は橋戸(はしど)ソラ。セミロングのサラサラな栗色の髪、ブラウンがかった灰色の瞳。スレンダーな体型で、胸の膨らみもささやかであり、どことなくボーイッシュな印象を与える少女だった。

 そんな彼女は璃玖の右手を柔らかな両の掌で包み込むように触れ、透き通るような美声でこう言った。


「ありがとうございます、センパイ。また分からないところがあったら、教えてくださいね♡」


 ソラがぺこりと頭を下げる。柔らかな髪が揺れると、途端にふわりといい香りが広がってきた。その香りに璃玖の鼻腔はくすぐられ、同時に彼の脳は焼き切れそうになる。

 可愛らしくくるりと回ってから同級生達のところへ戻っていくソラ。


「(くっ、あざとい……!)」


 意識しているのか、はたまた無意識なのか、ボディタッチも自然に行うソラの態度はあざとい以外の何物でもない。健全なる高校三年童貞男子である璃玖の心が乱されるのも当然なのだ。

 璃玖は理性を保つために大きく深呼吸をし、心を落ち着かせようと試みた。この調子では心臓がいくつあっても足りない。璃玖自身だって定期テストを控えているのだ。しかも、校内推薦の基準を満たせるかどうかが今回で決まる。まさに将来がかかっているわけなのだ。


「集中、集中……!」


 璃玖は自分の頬を軽くはたいて気合いを入れ直す。早く苦手とする古文の文法の問題に取り掛からねば。あんなものに心を乱されるわけにはいかないのだ。

 ところが、ようやく一問解けたところでまたしても集中を途切れさせる原因物質たる美少女はやって来る。ぴょこぴょこと頭の上の跳ねっ毛を揺らしながら、目を輝かせてやって来る。


「センパイ、次はこっちなんですけど良いですか?」

「ん、まあ良いけど」


 ソラは璃玖とは長机を挟んだ向かい側まで移動すると、そこにあった椅子の向きを逆にして璃玖とは正対する位置に座った。今度は絶対値の式の捉え方がわからないらしい。


「要は絶対値記号の中身が正か負かで処理の仕方が──」


 璃玖は気が付いた。気が付いてしまった。ソラの顔が……近い。

 説明に対して興味をもって聞きてくれるのは良いことなのだが、ソラが集中すればするほどに、彼女の姿勢はどんどん前のめりになり、今や二人の顔は二十センチ程も離れてはいなかった。


「う。ちょっと近すぎないか」

「何がです?」


 文字通りの“目の前”で首を(かし)げるソラ。やろうと思えば唇まで奪えそうな距離である。璃玖からすれば、明らかにパーソナルスペースへの領空侵犯に他ならない。


「あれ、センパイなんか赤くなってません?」

「な、なんでもないよ」


 すぐさま目線を()らす璃玖だったが、照れを全く誤魔化(ごまか)しきれていない。あからさまに狼狽(うろた)え、ついにはゆっくりと()()るようにしてソラから距離を取った。


「む。なんで逃げるんですか」

「に、逃げてねーし。ちょっと腰のストレッチをしただけだし」

「……ほほう?」


 ソラは璃玖の心理状況にようやく気が付くと、急に意地の悪い顔をした。眉を持ち上げ、口角を緩めて、にやりとした小悪魔の笑みになる。彼女は璃玖の顔を覗き込むように首の角度を変え、腰を浮かせて彼に接近する。先ほど璃玖が稼いだ物理的距離は、瞬く間に侵略されてしまった。


「ふぅん? ほんとになんでもないんですねー?」


 ふふ、と微笑むソラの吐息が璃玖の頬をそっと撫でる。誘惑。挑発。まさに小悪魔の所業に、璃玖は目頭を押さえて溜息を()いた。


「くっそ。狙ってやってんだろ、お前」

「ふふ、なんのことでしょう?」

「さっきからわざとくっついてきてさ、卑怯だぞ」


 璃玖は眉間に皺をよせ、目線を逸らしながら文句を垂れる。

 すると卑怯という言い方が少々キツすぎたのか、ソラは俯いてしまった。気まずい空気が生まれてしまいそうな気配を璃玖は鋭敏に感じ取る。が、その刹那(せつな)。ソラは上目(づか)いで璃玖を見つめると、(ささや)くように告げた。


「……センパイが、カッコよすぎるのがいけないんですよ♡」

「!!」


 瞬間、璃玖の脳内に電流が走る。可愛いの権化(ごんげ)。可愛いの暴力。その一言、たった一言の破壊力の凄まじさに、璃玖は思わず額を手で押さえて天井を(あお)ぎ見るのだった。


「(だめだ、意識しちゃ……)」


 どうしてこうも、ソラは的確に自分のストライクゾーンに華麗なゴールを決めて来るのだろうか。璃玖はそう考えながらも、なんとか冷静でいようと自分に言い聞かせる。彼にとって、ソラは大切な後輩。それ以上でも以下でもない。異性として意識しては、ダメなのだ。何故ならば──。


「ふっふっふ。センパイって、最近割とぼくのことを女の子として見てくれてますよね?」

「ど、どうだか」


 強がって見せる璃玖だったが、ソラはそんな彼の心理などとうに看破している。というか、璃玖がソラを意識してしまっていることは誰の目から見ても明らかなのだが。


「でもね、センパイ。あまり意識しちゃダメですよ?」


 ソラは首を傾げて人差し指を口元に当て、わざとらしく片目をつぶると、璃玖に言った。


「──ぼく、男の子なんですから♡」


 その瞬間、璃玖は胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚に陥る。

 体の性別とは別に心に宿した本来の性別が存在する、これこそが()()の、いや、()の真実。このことが璃玖の煩悩(ぼんのう)()き回し続ける根本原因の一つであり、最大の悩みの種なのだった。

 璃玖はくらくらする頭を押さえながら、苦々しく(つぶや)いた。


「……“元”、だろ」

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