白い結婚、黒い悪妻 〜贅沢は素敵だ
薄ら寒い石造りの広間で、祭礼服を着た男の簡単な宣誓に父親が同意して、何やら書面にサインを入れる。
それが私の結婚式だった。
家畜の売買みたいだな。
大きな四角い印章で結婚誓約書に承認印が押される重々しい音を、裁判の判決か競りの確定の鎚の音のようだと思いながら、私は新郎不在の結婚式を終えた。
私は今生きている世界とは異なる世界の記憶を持つ転生者だ。この世界は、前の世界の私が若い頃、夢中になって読んだ長編ファンタジー小説の世界らしい。子供の頃は気が付かなかったが、世界情勢や諸々の知識が増えるに連れて、地名や人名が一致することが多いのに気がついた。
すぐにそうと分からなかったのは、背景美術や服飾設定の世界観が、想像していたのと違ったのが大きい。アニメ化したら解釈違いだったという感じだ。
原作の初代の挿絵は、陰影がきいた重厚な画風で、ゲルマンな中世という感じだった。連載途中で交代した2代目の挿絵の絵師は、繊細な印象重視の画風で、いかにも架空のファンタジー世界っぽい路線だった。
今生きているのは、どちらかというとローマ帝国という雰囲気で、地中海沿岸風の温暖な自然に白い建築が映える、明るいがいささか装飾性に乏しい世界だ。まぁ、テクノロジーレベルと社会の歴史的成熟度を考えたらそうなるよね、という感じではある。
実際にそこで生まれて育って生活してみると、原作の基本設定とあまり矛盾しない、しっくりくる落とし所だった。
原作小説は、本格ファンタジーを謳っていた。
一番ハマっていた頃、私はファンクラブの同好の士と、その異世界設定を考察する楽しみに熱中した。
登場人物を網羅した人名辞典、世界地図付きワールドガイド、歴史年表に、登場メニューの再現レシピ。
詰めてみると意外と設定に隙が多い話だとわかってからも、シャーロキアンもかくやという熱意と強引な推論で、矛盾だらけの僅かな描写から、膨大な背景設定を埋めて楽しんだ。屁理屈にちょっとしたリアリティを出すためだけに、実生活でなんの役にも立たない知識を漁り、美術館や博物館に通い、専門書を買った。古書店で「そういうご専門?」と聞かれたときは、笑って誤魔化したものだ。
実際に美術やデザインの道に進もうかと志しもしたが、自分にクリエイティブな才能はないと早々に自覚して諦めた。小器用なたちではあったが、模倣と再構築ならAIの方が優秀だ。下手に審美眼や鑑定眼は磨いてしまったために、そこの見切りはできた。
自分がその小説の世界に転生したのだと気づいたときには、愕然とした。主人公に会えるかもしれないと思ったら、ワクワクして、その夜は眠れなかった。
会うそれっぽい人が全部そうなのではないかとソワソワして、父に報告をしにきただけの若い人を当惑させた覚えがある。
幸いなことに、私が生まれた家は主人公が成り上がる予定の国の指折りの名家だった。恵まれた環境で寛容な親に育てられ、学びたいといえば年齢や性別に不相応な教育も得られた。
昔、熱中した世界設定との相似とそれ以上のリアルさが面白くて、私は優秀な家庭教師をいっぱい雇ってもらって、国内はもちろん周辺諸国の諸々の知識の収集に没頭した。
変わった娘だという評判でも立っていたのだろう。驚くほど早婚な社会にあっても、私は10代半ばまで婚約者もなく、気ままに過ごすことができた。
17歳になった年に、大きな戦争があり、父が戦功で新しい名前を貰って、私は自分が主人公の妻になる予定の人物であることに気がついた。
主人公の妻と言っても登場シーンはほとんどなく、名前ぐらいしか情報のなかったキャラクターだったので、家名が変わるまで、まったく気が付かなかった。主人公が成り上がる過程で、身分を手に入れる理由付けで政略結婚をした相手で、挿絵はもちろん外見描写も皆無だ。自分の容姿が原作と一致しているのかどうかすらわからない。
作中では、戦争の合間の息抜きのシーンで、主人公と戦友の雑談の中に"悪妻"だという噂が出てくる程度の扱いだった。
気がつけば私は、父が総指揮官を務めた軍で英雄的軍功を上げた主人公に、報奨として嫁ぐことになっていた。出自が不明な主人公に次の戦で指揮を執らせるだけの箔をつけるための政治的配慮らしい。
なるほど合理的だ。
納得できたので、私は大人しく従った。うちの家名があれば、主人公は気兼ねなく、政敵と渡り合えるし、外交交渉の場にも出ていける。
小娘一人が報奨ではあまりにケチ臭いので、少なくない報奨金も出た。
戦地から帰ることなく次の戦に向かった主人公に一度も会わないまま、新郎不在の結婚式を終えた私は、妻としてその報奨金を受け取った。持て余した私が父に管理を任せるだろうと見越しての額なのだろう。腹は立つが、実績も経験もない以上、そうしたほうが外聞も収まりも良いので、私は父に相談して資産の管理に協力してもらった。
不在の夫の代わりにする必要がある仕事を父に、英雄の妻としてすべきことを母に習いながら、私は主人公の凱旋を待った。戦勝は既定路線なので、心配はしなかった。
案の定、1年も経たずに、味方の勝利の報が入った。
彼は今回の戦争で獲得したオルウェイの地を与えられ、そこの太守としての身分も与えられた。
ああ、これ第一部のエンディングだなぁと思いながら、私は戦地からの報告書を読んだ。
オルウェイの太守は、彼の成り上がり英雄譚の最初のステップだ。
原作は、群雄割拠の乱世における英雄達の戦争と冒険の話だった。主人公は太守でありながら、領地を治める余裕もなく各地を転戦し、行く先々で勝利を収め、諸国を併合し、ときには少人数の仲間との旅や単独行で冒険を重ねていく。
正直言って彼は名のみの太守だったが、なぜか名君と讃えられ、豊かなオルウェイからの資金や援軍は無尽蔵に使えていた。ファンクラブの仲間うちでは"困ったときのオルウェイ"と呼ばれていたものだ。
戦地から帰ることなく次の戦に向かった主人公に一度も会わないまま、私は太守の妻としてオルウェイの地に向かった。
着いた先で私が見たのは、戦乱でボロボロになった廃墟と焼け野原と飢えた難民と野盗と反抗的な敗者だった。
そういえば、戦後処理なんて気にしない見栄えの派手な作戦が見どころの大活劇だったわね。
"西海の真珠"、"豊かなるオルウェイ"と書かれた地が、この有様とは、許しがたいものがあった。これでは主人公の都合のよい財布になれないどころか、彼の活躍の足を引っ張りかねない。
「奥様、いかがなさいますか」
父に頼んで代官を派遣してもらい自分は都に帰ることもできる。だが、そうした場合、この地がどうなるかはわからない。
「この際、好きにさせていただきましょう」
私は一度も会ったことがない夫の威光と資産を遠慮なく使い尽くすことにした。
§§§
「よお、英雄殿。一杯やらないか」
酒壺を持って野営の天幕に入ってきた戦友のルーカスの声に、エリオスは書面から目を上げた。
「こんなに遅くまで仕事かよ」
「オルウェイからの報告書だ」
「ほっておけよ。終わった戦場だろう。強敵から勝ち取ってやったんだから後始末ぐらいは、本国の臆病な無能どもでなんとかしろって言ってやればいい」
中央から補給される兵士が弱兵ばかりだと日頃から愚痴っている戦友にとっては、元老院を始めとする本国の政治屋は皆、臆病で無能呼ばわりしていい相手らしい。
エリオスは報告書を置いて、酒杯を用意した。軍功でもらった報奨の中では、これが一番よく使っているなと冷やかされて、エリオスは軽く肩をすくめた。
「一応、名目上は太守だからな。できることはやってやらねばならん」
「そうやって何でも抱え込むと戦じゃなくて過労で死ぬぞ」
ルーカスは澱の多い酒を無造作に酒杯に注いだ。
「それで、なにか言ってきたのか?」
「気性が向いていなくて戦場で役に立たない弱兵や、遠征の行軍についていけそうにない負傷兵がいたら、オルウェイに送って欲しいらしい」
「たしかにいないほうがマシな足手まといはいるが、そいつらも一応戦力だ。代わりの兵士の補給なしに後送はできん」
弱兵を鍛えてそれなりに使うことも将官の仕事だろうと、彼は自分の酒をあおった。
「代わりの兵は送るとも言ってきている。……お前向きかもしれんぞ。気性が荒くて戦闘向きだが、規律はなくて、反抗的な奴ららしい」
「はっ! お前のイカれた突撃について行ける根性がある奴らなら、規律なんぞはぶん殴って教え込むから問題はねーよ」
「第一陣はじきにこちらに到着予定だそうだ。そいつらの様子を見て決める」
オルウェイが送ってきた兵は、ろくな武装もない薄汚い奴らだった。
「みな逃亡兵崩れや焼け出されて食い詰めた野盗ばかりだ」
リーダー役を任されていたのは、先の戦でエリオスをさんざん苦しめた敵軍の将だった。
「まさか貴殿の軍で戦うことになるとはな」
敗戦が濃厚になったところで味方に裏切られて捕虜になり、オルウェイで処分待ちだったはずの男だ。
ずっと地下牢に捕らえられていて、忘れたふりで餓死でもさせる気かと思っていたら、ある日突然、牢から出されたらしい。
「地下で忘れられて死ぬのと、刑場で大衆の娯楽になって死ぬのと、戦場で死ぬのとどれがいい?と聞かれてな。ここに来た」
残りの者は、捕まった野盗などで、凶状持ちの人でなしもいるが、食い詰めて武器を取った連中には、戦働きで成り上がってやると息巻いている者も多いという。
「黒髪の若い女がやってきて言ったのさ。ここでは人殺しは死刑だが、戦場では人殺しは英雄だ。どうせ生き延びるためにあがくなら、勝って成り上がっていく奴の尻尾にしがみついて人生変えてこいとな」
無礼なと言って怒るルーカスを軽く手で制して、エリオスは元敵軍の将が差し出した書簡を受け取った。
「名簿と船の積荷の目録だ。悪いが武具も食料もろくにない」
「何だ。気が利かないな」
鼻を鳴らすルーカスを、オルウェイから来た男はジロリと睨んで「野盗の寄せ集めにこれだけのものを預けられただけでも、大したもんだと思うがな」と呟いた。
「必要なものはこちらで用意しよう。隊はひとまずそのままシャージャバル公が取り纏めてくれ。直属の独立部隊として扱う。名称に希望は?」
「では、イッカク隊としてくれ。出掛けにそう呼ばれたからな。俺のことはゴドランと」
§§§
原作よりも5年は早い邂逅だが、シャージャバル公ゴドランとなら主人公も馬が合うだろう。
ゴドランは、若い美形が多めの原作中では珍しいおっさんキャラで、頼りになるいい脇役だった。第一部で登場するのにその後、主人公とはすれ違い続け、なぜすぐに部下にしなかったのかと読者はやきもきしたものだ。
私は、船でオルウェイに戻ってきた負傷兵達の名簿に目を通しながら、薄く切った硬いパンをゆっくり囓った。
復興中でナイナイ尽くしのオルウェイにとって、あれだけの食料を出すのは痛い支出だったが無事に届いたようで何よりだ。
手に余る犯罪者や戦争捕虜の代わりに向こうから送ってもらえた人材が復興作業に加わってくれれば、来年はもう少し楽になる。
できれば、職人気質の専門技術職の人を回してもらえないか頼んでみよう。
家庭教師時代からお世話になっている先生方にもご協力は頂いているが、やりたいことを実現するには圧倒的に人材が足りない。向いていない戦で無駄死にするぐらいなら職人はこちらで働いてほしい。
「奥様、遍歴石工がお目にかかりたいと参りました。都市設計の件でお話を伺いたいと申しております」
「通して」
5年後には今回撃退した敵国の反攻がある。3年で都市としての最低限の防衛機構の体裁は整えたい。
このまま西征を続ける主人公の軍を支えるには、軍船も必要だ。港湾を整備して海上貿易の中継地として造船技術を磨き、船乗りを確保していかないと、海軍と呼べるだけの戦力は保持できない。第五部の辺境編の海戦で、突如、現れるオルウェイ海軍の船団というご都合展開を実現するには、今から準備をしなければどうにもならない。
海上貿易で金を落とす良い船を呼べるだけの魅力のある港にするには、特産品が必要ね。
嗜好品の酒、煙草、茶葉。それに香辛料は魅力的だが、領内で生産するなら、原木の栽培と加工ができる者を見つけるところからになるし、土壌や気候が合うかの検証に時間もかかる。
内陸にある各原産地と陸路での交易をするには、まだ交通が弱い。
街道整備は必須だけど、全部に手を付けるには資金が足りないわ。
首都からの街道は、父親に元老院でのロビー活動を頑張ってもらって、国の資本で整備してもらうことにするとしても、そのためにはオルウェイ自身にそれをさせるだけの価値が必要だ。
希少嗜好品の栽培には時間がかかるならば、原材料が比較的たやすく手に入って、加工によって付加価値がはね上がる商品を用意したほうがいいだろう。
陶器、ガラス製品、織物あたりか。
この世界の生活用品はいたって素朴だ。保存用の壺や食器類は素焼きだったり、単純な絵付けだったりで、デザイン性は低い。織物や布製品も凝った刺繍や柄織りがない訳では無いが、市販流通品ではない。染色技術もベーシックなレベルだ。
主人公が勝ち続けて各地を併合し、この国が大帝国となっていく過程で、今後、富裕層が拡大する。安定した平和と小金を手に入れた人々は、親世代よりも豊かな生活、隣人よりも見栄えの良い生活を望むだろう。
そして私は、日常生活用品にアーティスティックなデザイン性を取り込んだ偉大な先例を、この世界の誰よりもよく知っている。
おお、"西海の真珠"、"豊かなるオルウェイ"よ。
お前を誰よりも輝かせて、その名を世界中の人が羨望を持って口にするようにしてやろう。
私は実家のコネや資産までフルに活用して、4年でオルウェイを復興させた。
§§§
「何を騒いでいる」
「ああ、オルウェイからの補給船が来たのさ」
「いつものことだろう」
騒ぐほどのことではないと言う顔をしたルーカスに、ゴドランはニヤニヤしながら、大きな一枚布を広げてみせた。
「見ろよ。新しい軍旗だ」
先の激戦では、卑劣な罠にハマり、あわや壊滅かという危機に陥った。多くの隊の軍旗が燃やされるなか、本隊の旗を死守して命を落とした旗手に、エリオスが最大の敬意を表した。
結局、エリオスの奇策による大逆転劇で勝利はしたものの、軍旗はボロボロになり、使用できる状態ではなくなっていた。
「全軍の軍旗を新調したいと発注したのだが、思ったよりいいものが届いたな」
「そりゃぁ、"美のオルウェイ"と言われるところだからな。そこの太守の軍旗に最上品以外は出さないだろうよ」
オルウェイ出身者達をまとめているゴドランは、嬉しそうに自分の隊の旗を眺めた。
「いい緋色だ。中央の紋章もカッコいい。これもお前が決めたのか?」
「バカを言うな。俺には美的素養はない。各隊の名前と隊長の一覧は送ったが、色柄についてはあちらに任せた」
「こいつはシャージャバルの古い伝承に出てくる一本角の幻獣だ。うちの突撃隊に相応しい。よく知っていたものだな」
「本隊のはどんな旗なんだ?」
「青い鷹だ」
"青い鷹”はエリオスの異名だ。
美しく印象的な深い青の旗には、鷹の意匠の堂々たる紋が描かれていた。
「指揮官の礼装用のマント類も同様の色柄で一式送ってきた。今度の凱旋式は、皆でこれを着るか」
「凱旋式?」
「ああ。一度、本国に帰還する」
§§§
首都で行われた盛大な凱旋式のパレードで、英雄が率いる華麗な装いの軍に、人々は熱狂したが、英雄の妻は不在だった。
「一体、何様のつもりだ! 戦場から帰った夫を出迎えるのは妻の務めではないか!」
「今はオルウェイを空けられないとのことだ。致し方あるまい」
「エリオス! お前は甘すぎるぞ。オルウェイの太守はお前ではないか。なぜお飾りの妻ごときが、知ったような口を利いて、夫であり、太守であるお前を蔑ろにするんだ」
憤慨するルーカスにエリオスは苦笑した。
「夫と言ってもまともに会ったこともない間柄だからな。オルウェイのことも任せきりにしている。よく思われていなくて当たり前だ」
「聞いたぞ! あの女は、太守の妻であることをいいことに、お前がこれまでに賜った莫大な報奨金を、ことごとく勝手に浪費して使い尽くしているそうではないか」
壮大な城を建て、諸国の珍品や贅沢品を買い漁り、いかがわしい界隈にも足を運び、奴隷商人とも取引して、気に入った者がいれば、男でも女でも身分や出身も問わずに、自分のサロンに引っ張り込んでいるらしい。
まことしやかな悪評は、この戦友以外からも聞かされた。
薬草園と称して、危険な毒草を秘密裏に栽培しているだの、呪術と魔術を行う魔女で、その指先と爪は呪いで青黒く染まっているだの、生贄にするために大勢の人を攫って監禁しているらしいだの、正気を疑うような話もあった。
「噂は噂でしかない」
「だが火種のないところからは狼煙は上がらないというぞ」
「ルーカス、お前が俺のことを思って忠告してくれているのはわかっているし、ありがたいとも思うが、この件についてはこれで終わりだ」
「チッ。お前ほどの英雄ならば、どんな相手でも望み次第だろうに、何でよりによってそんな悪女を押し付けられる羽目になったんだか……」
辛辣な捨て台詞を残して去っていく戦友を、エリオスは辛そうな目で見送った。
南方の異教国が国境を越えて軍を進め、オルウェイに迫っているとの報が届いたのは、その午後のことだった。
「うちの隊が先行する」
ゴドランが、自分の隊は身分の関係で、今夜の祝賀会に元々参加する予定はなかったからと言った。
たしかに他国出身者や元流れ者が多いイッカク隊は、首都では一段低い扱いをされていた。ゴドランが人格者であることと、オルウェイからの兵だからと、エリオスがそれなりに重用していたからこそ、エリオスの軍団内では他の隊とほぼ同等に扱われていたが、隊長格の中にもイッカク隊を白い目で見る者はいた。
イッカク隊には、今度の敵国の出身者が少なからずいる。ゴドラン自体が元々、彼の国の将でシャージャバル公という名門の貴族だった。オルウェイに先行したイッカク隊が現地で裏切れば、オルウェイは簡単に落ちるだろう。西海の海上交易の一大拠点で、富を生む豊かな地を無傷で手に入れた功績を手土産にすれば、ゴドランは母国で元の地位に返り咲ける可能性もある。
「ゲスな勘ぐりをするな。疑うなら貴様らが戦勝祝いの宴を放り出してオルウェイに向かえばいいだけだ」
本国出身者が多い他の隊の兵は長期遠征からやっと戻ってきてようやく今夜、家族の元に帰れるというタイミングだった。不確かな第一報の段階で、強制招集はその後の士気にかかわる。
「ゴドラン、頼む」
結局、エリオスの一言で決まった。イッカク隊はその夜のうちに都を発った。
「来ていただけて助かりました」
オルウェイの太守夫人は、ゴドランと一緒に城壁の上の物見通路を歩きながら、穏やかにそう言った。
ゴドランが最後に見たときには無惨な焼け野原だったオルウェイは、堅牢な城塞都市に生まれ変わっていた。星状の張り出しのある多段構造の城壁から、弓兵に狙われたら、攻城は困難だろう。
まるで要塞だ、とゴドランは内心で唸った。自分が駆けつけなくてもオルウェイは籠城戦を易々と続けられただろう。おそらくは年単位で。
南方からの軍は基本的に陸軍だ。オルウェイの港を封じるだけの海上戦力はない。海からの補給が断たれないかぎり、オルウェイは落ちない。
「ここを攻めるだなんて、何を考えているのか正気を疑う」
「今回の出兵は、第二王子の独断です。王が病に臥せり、第一王子に人望がない中、王位継承の競争で決め手が欲しくて功を焦ったのでしょう」
第三王子派との交渉は進んでいるので、じきに兵は引くはずだと冷静に語る太守夫人に、ゴドランはこれは格が違うと舌を巻いた。正式な国交もない異国の王室事情にも精通し、的確な手を打てる政治手腕は、個人的武力や戦術に長けた自分達とは、また別の素養だ。
「これは、我々はいらぬお節介だったようですな」
「何をおっしゃいます。ゴドラン殿程の英雄に来ていただいたおかげで、無益な戦闘が少なくて済みます。オルウェイでは、人は何にも勝る財産ですから、無駄な死を避けられたのは喜ばしいことです」
「昔、私は貴女に戦って死ねと言われたように思うのだが……」
「あなたにとってはそれが誉なのでしょう?武人の志を貶すつもりはありません。ただ、できるならばゴドラン殿には、長く生きていただいて、エリオス様とともに、不本意ではない戦いを存分にしていただけると良いなとは思っています」
物語の英雄に憧れる子供のような目で自分を見上げる若い娘に、ゴドランはそういえば彼女は、太守の代理として全権を負うには、まだひどく若くて、頼るべき親族も夫もいない状態でこのような地に一人、何年も放置されているのが異常なのだと気づいた。
「エリオス殿には早急にこちらに来ていただくように伝令を出そう」
「いえ、こちらの問題はもうすぐ解決します。エリオス様には中央に滞在いただいて、執政官殿や元老院の皆様との交渉を優先いただいたほうが、あの方の今後のためには良いでしょう」
「……会いたいとは思わないのか」
「どうでしょう? 私は形だけの妻ですから……肖像画を眺めるぐらいの距離がちょうどよいのかもしれません」
自嘲気味に笑う彼女が、ゴドランにはひどく痛ましく見えた。
結局、南方からの侵攻は戦闘らしい戦闘も起こらずに収束した。猛将の名を轟かすゴドランの旗がひるがえるのを見ただけで、遠征でろくな将兵が残っていないという噂のオルウェイを狙う気だった敵方が、かなり戦意を喪失したのが大きかった。
最後の停戦交渉の会談のためにやってきた英雄エリオスを、オルウェイは歓呼で迎えた。
「俺は就任以来、一度も来たことのない太守だぞ。これほど歓待されるとは……」
「エリオス、お前はもう少し自分がどれほどの英雄なのか自覚した方がいい。彼らにとってはお前が名のみだとしても、ここの太守であることが誇りなのさ」
「エリオス殿、オルウェイは我が軍からの元負傷兵をずっと受け入れてきた。実際に我らと共に戦った者達や、その話を聞いた者が他のどの都市よりも多いのがここなのだ」
「そうか……」
歓迎のパレードや式典は賑々しく執り行われた。それは都でのものと比べても、規模こそ小さかったが遜色ない豪華さで、エリオス達を驚かせた。
各隊の軍旗と同じ意匠の、色とりどりの細長い垂れ幕がずらりと並んだ様は圧巻で、太守の座に着いたエリオスは、まるで伝承の英雄王のようだった。
式典の最中にエリオスは、自分の妻らしき人物の姿を見つけた。しかし、彼が不在の間ずっとこのオルウェイを預っていたはずの彼女は、式の表立った役には何一つ立たず、ただ一段下がった座に静かに控えていた。
一通りの式が終わったあと、エリオスは太守のための比較的小さな客間で、自分の妻と顔を合わせた。
「この度はお忙しいところを、わざわざお運び頂き誠に恐縮です」
「何を言う。太守が自分の領に戻っただけだ」
「失礼いたしました。ご無礼のほど平にご容赦くださいませ」
エリオスは目の前で、うやうやしく臣下の礼を執る貴婦人を、もどかしい思いで見た。
他人行儀なぎこちない会話を2,3言交わすと、もうあとは痛いような沈黙が下りるばかりだった。
話そうと思っていたことが何一つ口から出せなくなったエリオスは、つい目についたことを呟いてしまった。
「手……」
「何でございましょう?」
「なぜそんな手袋をしている」
「ああ、これでございますか」
女は美しい刺繍とレース飾りが施された白い長手袋をしていた。
彼女は視線を上げないまま、自分の細い手指を目の前で広げた。
「貴婦人にあるまじき手をしているので、恥ずかしいから隠しているのでございます」
「……見せてみろ」
「平にご容赦を」
「見せろ」
彼女は黙って手袋を取った。
彼女の手は荒れており、指にはペンだこがあり、指先は青黒く染まっていた。
「……染料の配合で、毎日、試作を重ねていたら、このような醜い手になってしまいました」
「染料……?」
「貴方のための"青"が、なかなか思うように色が出なかったのです」
「軍旗か……?」
「はい。常に貴方と共に戦場にある旗です。だから、どれほど日にさらされても雨に打たれても、色褪せない美しい青が必要でした」
彼女は初めて顔を上げて、まっすぐエリオスを見て微笑んだ。
「世界に冠たるオルウェイの染料技術は門外不出です。その中でも貴方の"鷹の青"は私だけが製法を知っている特別な色です。貴方の軍旗と貴方の物だけに使う色なんです」
言葉を失ったエリオスに、まるで託宣を授ける巫女のように彼女は静かに告げた。
「覚えていてください。この先貴方はまた長い遠征に出るでしょう。北の果ての海で、夜明けに潮の流れが変わるとき、朝靄の中から鐘の音が聴こえたら、それは味方の船です。貴方のための船には"青"の旗があります」
「なにを……?」
「戯言と思って忘れていただいても構いません。でも、よろしければ、どうかどなたにも話さず、心の片隅にお留め置きください。書面で伝えることができない話なのです」
彼女は黒い瞳に憂いをたたえてエリオスを見つめた。
「北への遠征の先で、貴方は伝承の島へ赴き、その地の真の王となるでしょう。ただ、その前に一度、貴方は手酷い裏切りを経験します。御身の近くにある者にお気をつけください。貴方への敬愛が深すぎる者は、貴方が自分の心の中の理想から外れたとき、貴方を糾弾するようになるのです」
彼女が視線を伏せ、ようやくエリオスは呼吸をすることを思い出した。
「お前はすべての未来を視る魔女なのか?」
「いいえ。私にはそんな力はありません。ただ少しだけ他人よりも知っていることが多いだけです。でも北の果てを越えて、軍を捨てて一人旅立たれた後の貴方を追うすべは私にはありません。伝承の島で王となる貴方の物語に私は必要ないからです」
どうかいつかそのような旅立ちの日が来たら、私という名のみの妻がいたことも、オルウェイのこともお忘れください。
彼女は目を伏せたまま、エリオスにそう告げた。
「貴方が青い鷹の旗と共にある限りは、オルウェイは貴方を全力でお助けします」
§§§
我が憧れの英雄は、ろくに話らしい話もできないまま、また執政官から北征の命を受けて、出陣していった。
私はパトロンとして才能のある画家や彫刻家を支援し、彼の肖像画や彫刻を作らせた。
死ぬ前に一目会えただけで幸せだった。おかげであとはうちのサロンの芸術家や工芸家の作品にダメ出しをしつつ、お気に入りの作品を眺めて生きていける。
実際に会うまでは、致命的な解釈違いがあったらどうしようかと不安だったが、本物の英雄のカリスマ性は、前世でのイメージなど吹き飛ばすインパクトがあった。
いい。アレなら推せる。
オルウェイの全力で貢げる。
実は、小説の方は、作者が途中でBL方面に転んで作風が微妙に偏向したせいで、連載途中で脱落してしまったのだ。だから主人公が美少年と手に手を取り合って云々な建国編以降はよく知らない。
あの、女に免疫がなくて生真面目そうな彼が、三十路を越えて美少年にハマるのかと思うと遠い目になりそうだったが、それはもう遠い地で起こることで、私が完全に関与できなくなった後の彼の人生だ。男だろうが女だろうが相応しいパートナーを得て、機嫌よく好きに生きてもらえるならば、それはそれでいい。
ただもしも叶うならば、昔、こんな女がいたな、と死ぬ前に一度でも、微かに思い出してくれることがあれば、それで本望だった。
§§§
彼女の"予言"どおり、北征は長期に渡った。
辺境の西海の果てで、敵に追い詰められたときには、約束通り夜明けにオルウェイ海軍の大艦隊が現れ、鮮やかに敵を殲滅してくれた。
九死に一生を得たエリオス軍がしばしの休息のために訪れた地で、エリオスは伝承の島の噂を耳にした。
「ああ、やはりそれもまた俺の運命なのか」
「どうした? エリオス」
彼は古い戦友のルーカスに、自分が伝承の島に単身渡って、その地の王になるだろうと予言されたことがあると話してしまった。
「なにをバカなことを! お前が俺達を捨てて行くだと?!」
「昔、そういう予言を聞いたことがあったというだけさ」
「信じているのか?!」
「いや……ただ予言通りの島の噂を聞いたから不安になっただけだ」
その場では、それは酒の席の戯言として流された。
だがルーカスの胸のうちに刺さった疑心の棘は、彼を致命的な裏切りに走らせた。
「ルーカス……」
「エリオス、なぜかとは聞かないんだな」
「お前が裏切るだなんて信じたくなかった」
「でも信じた……そうだなエリオス。お前は俺が裏切ると思っていた。そして俺を殺して、俺達全員を見捨てて、国を捨てて、予言に従って一人で王になりに行くんだ!」
ルーカスは吠えた。
「先に裏切ったのはお前だ!」
ゴドランの剣が一閃し、ルーカスの刃はエリオスには届かなかった。
「予言とはなんのことだ」
ゴドランに問われて、エリオスはポツポツと昔、妻である女性に教えられた話をした。
「不思議な女性だった」
「そうだな。俺達は彼女に救われた……救われ続けてきた」
エリオスは多くを語らず、ただ黙って肯いた。
「そういえば、なぜ現れた友軍が偽物だと見破ることができたんだ? 孤立していたお前にはあのタイミングで現れた"青い鷹"の旗は、救いでしかなかっただろう。よくできた偽物だったから遠目ではわからなかったはずだ。予言で聞かされていたのか? それとも最初からルーカスを疑ってこの罠を探らせていたのか?」
ゴドランの問いに、エリオスは微かに口の端を歪めた。
「裏切られることがあることは知っていたが、それが今で、相手がルーカスだとは聞かされていなかった」
「じゃぁ、どうして……」
「色さ」
「色?」
「青の色が違ったんだ。俺の旗の色は、世界中で唯一人にしか作れない色なんだ」
エリオスは、どこまでも続く辺境の青い空を見上げた。
§§§
長い北征が終わった。
戻ってきた軍にエリオスの姿はなかった。
西海の果てまでの統一を以て、執政官は帝国の成立を宣誓し、自ら初代皇帝となった。
オルウェイを中心とする南方一帯はアストリアス領とされ、私は初代アストリアス公に任命された。
オルウェイは、他では真似のできない華麗な美術工芸品の産地、豊かな貿易港として名を轟かせた。
長年続いた軍への補給のために次々と開拓したルートは、交易街道として整備され、オルウェイは陸路の交易でも世界とつながった。
私は莫大な富を投資し、金融業も営み、美術工芸の強力なパトロンとして、芸術家と職人を支援し続けた。
エリオスがもたらした平和を享受する世界は、私が提供する美術工芸品やデザイン性の高い家具、調度、カーテン、絨毯、タペストリーで美しく彩られた。
§§§
「奥様、お客様です」
今日は午後の来客の予定はなかったはずなのにと思いながら、応接室に向かおうとすると、客人はこちらでお待ちいただいていると言って、庭園に案内された。珍しいことだ。邸内に入れるのを躊躇するような相手だったのだろうか。
柑橘の浮かぶ方形の池がある中庭には、二人の薄汚い放浪者がいた。なるほど。これは、家宰が応接室に上げるのをためらったのも、もっともだ。
それでも私はまっすぐに二人の方に向かい、擦り切れた青い服の男に声をかけた。
「おかえりなさい」
男は少し怯むような素振りをして、年長の連れに小突かれた。
「……遅くなった」
伸び放題の髪とヒゲに覆われた日焼けした顔を歪めてボソボソとそう言った男を見て、私はなんだかおかしくなってしまった。
「あなた。お疲れ様でした。お食事になさいます? それともお風呂?」
伝承の島の真の王となりながらも、その玉座を捨てた"青い鷹"は、こうして我が家に帰還した。
オマケ
【伝承の島にて】
ゴ「お前が帰らんなら、俺が貰う」
エ「!……お、俺が唯一自分から望んだ報奨なんだぞ」
ゴ「10年放置して何言っていやがる」
エ「まだ10年は……いや、最初に会ってからはもうそれくらいは……?」
ゴ「度し難し。俺は帰る」
エ「待て!待ってくれ!!彼女は俺のだ」
ゴ「腰抜けのマヌケめ。さっさとその似合わん玉座から腰を上げろ」
原作無視してゴドランをエリオスに付けたヒロインの勝利だったりする。
お読みいただきありがとうございました。
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語字指摘もありがとうございました。
自分で見直したミスも含めて、ちまちま直させていただいております。
よろしくお願いいたします。
追伸
嬉しい感想をたくさんいただけたおかげで、感想返しでのネタバレやこぼれ話が多くなりました。(感想返しへの感想まで頂いているので、もし読むなら古い方から読む方が良いです)
流石に場外乱闘が過ぎるので、本編の感想欄で皆様の感想を読ませていただくうちに、思いついた話や、本編に入れなかった裏話をこちらに入れておこうと思います。
青い鷹は翼を休めたい
https://ncode.syosetu.com/n0377ie/
二人の出会いのシーンとか書きました。
感想、評価などでの見える反響は創作意欲の糧だというのは本当ですね。
皆様、ありがとうございます。