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08 迷宮に立ち尽くす



 ーー母は言う、苦しかったら苦しいって言って良いんだよと


 弁当のお米が黄色い、古米しか食えない貧乏人だとアイツらに馬鹿にされ、弁当箱をひっくり返されてぶちまけられた日。

 帰宅して出勤前の母さんに「ご馳走さま」って言うと、全てを見透かしたような悲しそうな顔で僕に言った言葉だ。



 ーー母は言う、学校が嫌なら無理して行かなくて良いんだよと


 金貸せよと言いながらヤツらが僕を取り囲み、サイフを無理矢理奪われて中身を物色され、大して入ってねえじゃねえかと怒り、よってたかって殴られたあの日。

 顔中傷だらけで帰宅した時に母は、泣きそうな顔で僕に絆創膏を貼ってくれながら言った言葉だ。



 ーー母は言う、無理しないでお母さんに全て話してと


 イジメで暴力を受けたと先生に話したところ、先生からそのままヤツらに話が回り、チクやがったなとリンチを受けたあの日。

 切れて汚れてボロボロになった制服に気付いた母が、帰宅後寝ずに裁縫してくれて、朝僕に手渡しした際の言葉だ。



 母には言えない、これ以上迷惑かけたくない。

 やっと母も僕もあの酒飲みのクソ親父の暴力から逃げ出す事が出来て、二人へ平穏な日々を勝ち取ったのに、これ以上心配させたくない、気苦労を背負わせたくない。

 母も慣れない水商売でクタクタに疲れてるし、学費を稼ぐと言って昼間もパートに出始めた。みんな僕を想っての事だ。


 “僕が、僕が我慢すれば全て上手く行く。もうちょっと我慢すれば高校進学で全員バラけるし、それまでの我慢なんだ! ”


 そうやって自分を鼓舞しながらやって来た春休み。毎日毎日あの悪魔のような連中と顔を合わせる必要が無くなった僕は、心から安堵しながら長期休みを満喫していた。



 ーー砥石川の橋の下で、黒猫の赤ん坊「ミイ」に合ったのも、そんな状況だったんだ。



 春休みの日課ではないが、ジュースや菓子を買いに、頻繁に春日商店に足を運ぶ機会が増えた。近所であると言う利便性以上に理由があったのは、コンビニに行けなかったと言う事。

 北に行っても南に行っても、東や西のコンビニに行ってもヤツらの内の誰かがいそうで、立ち読みすらしたくなかったのだ。


 そしてそこで僕はミイと出会った

 橋の下に置かれていたボロボロの段ボール箱から、誰かに助けを求める幼い命の叫び、それがミイだったんだ。


 この団地に引っ越して来て一年、初めて出来た友達、そして母親のいる僕よりも弱い立場、天涯孤独の黒猫ミイ。彼女とすぐ打ち解けた僕は彼女の面倒を見るために、朝昼晩と橋の下に通っていた。

 ペット禁止のアパートに住んでいたからしょうがなかったのだが、、、悔やまれる


 ……悔やまれる……


 “まさかヤツらが僕を見張り、追跡していたとは! ”



「こんなところで何やってんだよ、バカ柴田! 」

「捨て猫なんて可愛がってんのか! 」

「つくづく貧乏だな、ペットも飼えないとかありえねーし」

「ギャハハ! まさか猫のエサをお前が横取りしてんじゃねえだろうな! 」


 つくづく、品性の無い連中だと思った

 つくづく、自分だって大した事ないのに高飛車なヤツらだと思った


 ヤツらは砥石川の河川敷で僕を取り囲み、一通り僕を嘲り罵り、そしていつもの通り金をせびり始めた。


「ギフトカードが欲しくてさ、金貸してくんね? 」

「お前の母さん水商売で稼いでんだろ? 」

「いくら貧乏人でもゲーム代くらいあるだろ」


 ーーなんだろう。何故かこの時は、金を渡す気が無かったんだ。久々にヤツらと顔を合わせたから、その凶暴性や粘着質な性格やら、悪魔的な要素を忘れていたのかも知れない。だからついつい金は無いって言い張って拒否してしまった。……それが失敗だったんだ。


「テメエふざけんじゃねえぞ! 」

「最近顔合わせねえからって、ナメてんなコイツ! 」

「猫の餌代はあっても俺たちに渡す金は無えってか、最悪過ぎるなお前! 」


 袋叩きに遭った。ボコボコにされたと言って良いほど殴られ蹴られた僕だったが、不思議とその日だけは許してくださいもお金渡すからとも口から出ては来なかった。今となってはそれが更にヤツらを逆上させたんだと思う。



 【なかなか今日はしぶといじゃねえか。だけどこれでどうだ! 】



 イジメグループのリーダー格で、PTA会長を兼ねる農家の一人息子、深瀬。

 コイツがミイの住処である段ボールを取り上げ、中にまだミイが居ると言うのに、段ボールに蓋をしてそのまま砥石川に投げ込んだのだ。


 僕は叫んだ。今まで酔っ払って暴力を振るって来るあのクソ親父に対しても無抵抗で、ましてやこの悪魔のような連中に対しても無抵抗で刃向かった事など無かったのに、血液が沸騰したかのような感覚に襲われて気が遠くなり、僕は獣のような叫び声を上げながらその場にあった石を掴み、その石で深瀬の頭を思いっきり殴ったのだ。


 ……ヤツらに羽交い締めにされて、ようやく僕は我に返った。目の前にいるのは頭からドクドクと血を流して地面に伏せる深瀬の姿が。

 そして砥石川の流れに呑まれて沈んだ段ボール箱。もうミイの鳴き声が僕の鼓膜を軽やかに刺激する事は無くなっていた。


 数人が春日商店に飛び込んで通報を依頼したのであろう。

 ほどなくして駆け付けた救急車に深瀬は運び込まれ、パトカーから出て来た警官に僕は取り囲まれた。



 ーー僕は一体、誰を恨めば良い? ーー


 ーー家族を崩壊させたアル中の暴力親父か? それとも人の皮を被った悪魔のようなコイツらか? ーー


 ーーそれとも、人を殴って血を流させた僕か? 何も知らずに通報した、春日商店のお婆さんなのか? ーー


 ーー誰か、誰か教えてくれ! 優しい母さんと静かに生きて来たのに、何故僕は罰せられなきゃならないんだーー



 季節は初春を終え、盛大に咲き誇った桜の花びらが散る晩春の時期。標高四百メートルの長野市界隈で言えば四月下旬。

 都住姫子は生徒会長の中之条稜子から入手した情報を元に、砥石川の河川敷に立っている。

 時刻は朝の六時、いつものお務めを終えて早々に朝食を切り上げ、通学時間までのタイムリミットを前に自転車で赴いていた。


 まだまだキンキンに冷えた雪解け水が流れ込む砥石川は、太陽の光が当たって煌びやかに反射しても暖かくは見えず、透き通って川底が見える事で余計に寒々しく見えて来る。

 姫子はそのほとりに呆然と立ち尽くしながら、川面に目をやり一人涙を流している。

 全てを完璧に読み取る事は出来ないが、残された思念のカケラを集めながら、自分の脳裏に蓄積して行く寂寥感に心奪われていたのだ。


 ーー少年の憤りと哀しみ、そして小さな命が失われた事への悲痛な叫びが聞こえて来るーー


 ここで一体何が起きたのか、漠然としてだが姫子は状況を掴んだ。

 子猫が殺された事、そしてイジメられていた少年が反撃したら大事(おおごと)になってしまい、警察を巻き込んでの騒動になった事への絶望感。「ああ、もうこれで終わりだ」と言う諦めの感情。

 それらを踏まえて今回の連続自殺事件の流れを組み立てているのだが、それでも尚、姫子は合点がいかないのか、サラサラと涙を流しながらも結論を模索して苦悩していた。



  まず、姫子がこの場で感じたのは「純粋な感情に溢れて何も変質していない事」。

 もしそれが、現世の人に仇為す怪異であるならば、この場で怒りや怨みの感情のボルテージが上がり、人とは思えないほどの力に変質していなければならない。

 だが、幼い猫は猫又に変質せず溺死の苦しみだけをその場に残し、イジメられた少年の理性の爆発も、あくまでも人間としての範囲に収まっている。

 つまり、少年たちを死に誘った“見えたもの”が、ここから産まれたのかと言えば、まるでそうは思えないほどに綺麗なのだ。


「私の考え方が間違っているのかな? でも藤巻さんのメモだと、この少年の自殺が起点になっているから……」


 制服からポケットティッシュを取り出し、涙を拭いながらビイ! と鼻をかむ。

 涙で充血した瞳と赤らむ鼻の頭がいかにも多感な年頃の少女らしく幼げに見えるのだが、それを打ち消すように表情は真剣そのもの。間違い無く今、都住姫子は祓い巫女としてその場に臨んでいたのである。


 何を思い立ったか、河川敷と橋の下を何度も何度もぐるぐると歩き出す。そしてその都度指をあちこちに差しながら何事かを呟き出した。


「ここに悪意、ここもここも、こっちは怒りと悪意。これが哀しみ、そして悲鳴……」


 そこに漂う残留思念を拾い出しているのか、それとも霊波を拾っているのか。いずれにしても姫子にしかやれない事をやっているのだろうが、やはり時間をかければかけるほどに首を傾げる。


「だああっ! 怪異の残り香が何も無い、どゆこと! 」


 癇癪を起こすのは若さゆえのご愛嬌だが、どうやら本当にここから怪異が発生した訳では無いのは、イジれた姫子の表情で良く分かる。

 だがその時、顔を真っ赤に頭から湯気を出しながら、進退窮まって一人騒いでいた姫子は、チラリと川向こうの春日商店に目をやる。奇異な光景が瞳に飛び込んで来たのである。


「あれ、あれは……何? 」


 太陽の光が差し込む春日商店の入り口、その前から、店の中を覗き込む黒い影が見えたのである。


「ま、まさか! まさかまさかまさか! 」


 考えるより先に身体が動く……

 いきなり河川敷を土手に駆け上がり、春日商店に通じる橋を全力で駆け始めた今の姫子を表現するならば、獲物を射程距離に入れたどう猛な猫科の獣。その黒い影が災いの根源なのだと、考える(いとま)も無く姫子の身体が“走れ”と命じたのだ。


「はあっ、はあっ……! あれ……いない」


 両手を膝の上太ももに置き、激しい呼吸で肩が揺れる姫子。春日商店の目の前にたどり着いたのだが悲しいかなそこには何も無い。見えたのは確かに間違い無いのだが、残り香すら感じ取れないのだ。


「まだ、まだこれでもジグソウパズルのピースは全て揃って無いのね。何が足りない? 何が……!」


 苦悶の表情を浮かべ、ガシガシと無意識に頭をかきむしる。

 まるでそれは、空想世界や小説の中で、目の前に現れた迷路を必死に突破しようとする名探偵の様でもあった。




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