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05 暗闇を撃て



 夕闇がオレンジ色と紫色に輝く太陽の残り香を西の山々の彼方へ押しやり、やがて善光寺平と呼ばれる長野盆地を穏やかな夜が包み込む。

 肌を切り刻むような凍て付く山おろしの風の季節は終わり、新緑の芽吹く匂いを乗せた春風が、程よい冷たさで山々の斜面を伝って街へと流れ込む春の夜を、都住姫子は全力で自転車を漕いでいる。


 市街地で一日働いた人々が、長野市北部に広がる巨大団地群にある我が家にたどり着き、家族と団欒しながら夕飯を食べたり、安息の時間を過ごしている時間帯に、姫子は何故か汗びっしょりになりながら自転車を漕いでいた。


 本来であるならば、姫子はこの時間帯に刈田神社の社務所で訪問者と面会しているはずなのだが、予定はキャンセルになってしまった。


 “氏子衆の多野中さんが、吉田団地に住む親族の事で相談したい事があるそうだ。親族の息子さんが見える事で悩んでいるらしい”


 その多野中氏から来た依頼自体も、姫子の背筋を真っ直ぐに伸ばすだけの理由が内包されていたのだが、本日夕方……キャンセルの連絡を入れて来た理由のその内容に、姫子は全身総毛立つほどに驚いてしまったのだ。


 “先程親族の家から連絡が来た。そこの息子が首を吊って自殺したそうだ。もう相談の必要も無くなったし、通夜の手伝いで忙しくなるから”


 電話の応対をした父から聞いたところ、多野中氏の声は沈痛な声色だったそうだ。


 もし、このトラブル関して、姫子が補足情報や周囲から聞いた噂話などが知識として蓄えられていなかったら、姫子は多野中氏のお宅に顔を出して親族の住所を聞き出し、そして親族宅を訪れるか、周囲周辺に“その気配”があるか無いかを探るであろう。

 だが、姫子が父や母の制止を振り切り自転車で飛び出したのには別の理由がある。「中学生」そして「自殺」と言うキーワードが、既に姫子の脳裏に情報として入って来ていたのだ。



『新学期早々、北長野中学の男子生徒が何人も自殺している』

『理由は分からないが、どうやら自殺した男子生徒たちは同じクラスらしい』



 噂はあくまでも噂であり、その信憑性については確かめてみないと分からない。

 また、初期に広まった噂は情報の肉付けが無い雑多な話ばかりであり、時間が経つと良くも悪くも情報の肉付けが行われて変質して行く。

 いずれにしても、自分の目で真実を確認しない限りは、噂は何をどう脚色しようと噂である。


 通っている女子校でも噂は持ちきりで、あくまでも噂だからと距離を置いていた姫子だが、今日、それらの噂と自分が関係する出来事が線で繋がれたのだ。


 長野市街地と足元に輝く北部団地群の家々の灯りに向かい、山の斜面に沿って作られたリンゴ畑の間を縫い、なだらかな傾斜に作られた棚田を縫って農道市道を下って団地内へと入った姫子。

 目指すは巨大な団地群を南北に切り裂く県道荒瀬原線。郊外型店舗がズラリと並ぶ、国道18号線に繋がるバイパス道路だ。



 多野中氏の元を訪れて親族宅を教えて貰い、その家に何が棲みつき、その息子に何をしたのか確認して、その場で祓ってしまえば良い。それがストレートな解決方法だーー

 瞬間的にはそう思った。父からショッキングな話を聞かされて心臓の鼓動が急激に早まっている間はそれが最善だと“出撃”の覚悟を早々に決めた。


 だが、それが単なる対処療法に過ぎず、根治療法では無い事に気付いたのだ。

 悪性腫瘍を見つけて切除したとする。手術は成功なのかも知れないが、転移している可能性がある。もしかしたら今回の自殺は氷山の一角であり、単純明快に解決してしまうと、氷山自体が見えなくなるのではないか……姫子はそれを危惧して、一路目的の場所に自転車を飛ばしていたのだ。


 躊躇とは言わないまでも、心にブレーキをかけた理由が姫子にはある。

 その場で一度足を止めて、深呼吸しながら事の真相に少しでも思案の翼を羽ばたかせていれば、後になって後悔する事は無かったのにと、今思い出しても切なくて胸が苦しくなる過去がある。


 だからもう、あんな失敗は二度とゴメンだと振り返る姫子。中身が伴っていないのに一人前を気取るよりも、分からない事は分からないから教えてくれと乞うほうが、どれだけ真実により近付けるか、身を持って知ったのだ。



 緩やかな下り坂の恩恵も終わり、団地が広がる平地に辿り着いた姫子は、一心不乱に自転車のペダルを漕ぎ続ける。

 目指すは長野市の北部団地群において、唯一個人で経営する喫茶店。その名も『コーヒータイム』。

 名刺を渡されただけの人で、その名刺に書かれた会社も今は存在せず、大した面識も深い交流も連絡もSNSのトークすらも無いが、姫子の中で今一番心の支えになっている人に会いに行くのである。


 いや、厳密に言えば、その人が客として店にいるかどうかも怪しい。

 ーー昨年末に起きた大事件から今の今まで意図的に距離を置こうとしているのか、姫子の前にも姿を見せようとしないのだ。


 しかし姫子は『コーヒータイム』に急ぐ

 彼の残り香を色濃く残すのは、もうその店をおいて他には無いからだ。


「……はあっ、はあっ、はあっ……」


 店の駐車場に辿り着いた姫子

 案の定彼の車は駐車場に停まってはおらず、店内に居る望みは全く無い。

 でもここで待っていればふらりと現れるかも知れない、自分の来た時間が早かっただけで、普段の彼は夕飯時を過ぎた時間に現れるのかも知れないと、姫子は駐車場の隅っこに自転車を置き、駐車場に入って来る車はあるかと、目の前のバイパスに輝く無数のヘッドライトを、食い入るように見詰め続けた。



 どれだけの時間が過ぎたかは定かではない。ほんの数分かも知れないし、一時間ほど経過したのかも知れない……時間の概念を失うほどに通り過ぎて行く車を見続けていた姫子。

 「そんな都合の良い展開がもしかしたら」と立ち続けていた彼女の甘い期待は粉砕され、今となってはまるで、一握の砂に最後の望みを見い出そうとするような、殉教者の悲壮感と高揚感をごちゃ混ぜにしたかのような複雑且つ哀しげな表情を見せ始めている。


 やはり私は「役立たず」で見捨てられてしまったのか。見境い無く【桐子】を祓ってしまった結果、背後の関係や目的すら掴む事が出来なくなった……その愚鈍さの象徴が私であり、あの人は私を忌避して姿を見せないのか。


 肩が小刻みに震え、自然と両の拳に力が入る。まるで手のひらを爪で突き破りそうな力でだ。

 それでも、それでも前に進むしかないーー同じ過ちを繰り返す事無く、自分の力を人々の安寧のために使うのだと覚悟した現れなのだが、いかんせんまだ十六歳の少女である事に変わりは無い。


 “藤巻さん、藤巻さん……藤巻さんっ! ”


 姫子が心の中でその名前を叫んだ時、意外にも彼女の肩をぽんぽんと誰かが叩く。いきなり誰かの存在を感じたものだから、姫子は口から心臓が飛び出そうな勢いで「ひあっ!」っと叫んだ。


「あやや、驚かしてゴメンなさい。姫子ちゃん久しぶりね」

「しょ、祥子さん……腰が抜けそうになりました」


 目を白黒させる姫子を見ながら、あららそれは大変とカラカラ笑うのはコーヒータイムの女主人、雇われ店長の池田祥子。祥子自身は気付かなかったのだが、アルバイトの美央が店の駐車場に独り立つ姫子を見つけて教えてくれたのだそうだ。


「こんな時間にどうしたの? まだ夜は冷えるから風邪ひくよ」

「ええ、まあ、ちょっと探し物がありまして」

「あらまあ、それで探し物は見つかったの? 」

「あううう……」


 姫子ちゃんの言う探し物って、本当は探し人でしょ? と、皆まで言わないものの悪戯っぽい笑みをたたえながら祥子はクスクスと笑う。

 何かもう、全てが見透かされているかのような感覚に陥った姫子は、まともに言い返す事すら出来ずに、顔を真っ赤にモジモジしながら、とうとう俯いてアスファルトの地面を見詰めてしまった。


 さすがにこれはからかい過ぎたかと、祥子はバツの悪そうな顔で頭をポリポリ掻きながら、姫子の肩に右手を置いた。


「たまにはお店に入りなさいな。駐車場で立ってる姿、たまに見るよ」

「すみ……ません」

「ふふ、怒ってる訳じゃないのよ。せっかく姫子ちゃんが来ると思って、色んなスウィーツ作ってるのに」

「ありがとうございます、今度ちゃんとお店に来ます」

「うん、気兼ねしちゃダメよ」



 ーー祥子が祥子として伝えたい事は言った、ここからは伝言係としての役目ね


 祥子は実の妹を見るような優しくも厳しい瞳で、エプロンのポケットから一枚の紙切れを取り出して姫子に渡す。


「こ、これは? 」

「良いから良いから、メモを読んでみなさいな」


 四辺に折られた紙を開き、街灯の明かりにそれを照らと、姫子の表情は面白いほどにみるみる変わる。目をひん剥いてマジマジとそれを見詰め始めたのだ。



 【北長野中学2年2組、四月四日から本日までで合計四名の男子生徒が自殺。イジメや集団心理など理由が明確ならばマスコミも騒ぎ始めるが、原因は全くの不明で長野県警も気持ち悪がっている。ヒントに繋がる情報として、前段階として春休みに男子生徒が一人自殺。この団地内で大人が一人自殺している】



「……目の前の現象だけ祓っても何も解決しない、その奥に広がる巨大な闇を撃て。……祥子さんこれは! 」

「そ、姫子ちゃんにが店に来たら渡してくれって。あのシャイで捻くれ者のオッサンからよ」



 (私は、私は見捨てられてなんかいなかった! )



 優しい言葉など一つも書かれていないのに、そのメモ紙をギュッと握りしめて自分の胸に添える姫子、安堵と寂寥感とやる気に溢れた彼女は、自分の感情をコントロール出来ず今にも泣き出しそうだ。


「ほらほら、ホットミルクと苺のミルフィーユご馳走するから、早く店に入ろ」


 祥子に促されて店に入って行く姫子。

 感激は感激として噛み締めながらも、自分に課された使命の重要性に背筋を伸ばす。


 もしかしたら、あの人は全て知っているのかも知れない。知っていて尚、私を試しているのかも知れない。

 だからどうした、私は試される事でプライドが傷つくようなヤワな人間ではないし、そもそも傷ついてる暇など無い。

 ひたすら努力して信用を勝ち取る局面にいるのだ、そしてその先に、人々の穏やで平和な生活があるんだ。



 店に入って来た姫子を見て、ちょっと大人びた表情をするようになったと感じたのは、池田祥子だけではなかった。アルバイトの美央もそう感じたのである。




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