02 噂……翻弄するもの
「今度は、浅川団地で子供が自殺したらしいよ」
「二人目だっけ、三人目? 」
「どうやらみんな北長野中学の生徒らしいわよ」
噂と言うものはロクでもない
誰もが好奇心のままに口を開き、誰もが好奇心のままにそれを信じる。
内容がセンセーショナルで下世話であるなら、なおさら人々の好奇心は掻き立てられ、耳はどんどん大きくなり、口もどんどん大きくなって様々な脚色が加えられる。
事実でもなければまんざら百パーセントの嘘でも無く、嘘と言うものはコミュニケーションから娯楽へと昇華するのである。
ここ、長野市の北部に広がる巨大な団地群においても、周囲を囲む山々から吹き降ろされる早春のひんやりとした風よりも早く、人から人に伝わって行った噂がある。
新学期早々の四月、それはとある団地から火が着いた。『北長中の男子生徒が次々に自殺している』ーーそれが噂の核心となる部分であり、口伝いやSNSを通じて拡散して行ったその内容は、どんどんと面白おかしく変質して行った。
「男子生徒たちに対してセクシャルハラスメントを重ねた男性教諭がいて、周囲に相談出来なかった男子生徒が自殺した」
「ここ近年の北長中は風紀の乱れが著しく、ストリートギャングのような子供たちが派閥抗争を繰り返してるらしい」
「どうやら北長中ではイジメが猛威をふるっているようで、加害者側には市会議員の息子がいるらしい」
脚色された噂はどれもがもっともらしく、それでいて素直に信じる事の出来ない嘘臭い話ではあるのだが、肝心な事について伝わっていない。自殺した男子生徒が何名いるのかについて、誰もが明瞭に論じていないのである。
朝のゴミステーションに集まるご近所さん同士でも
公民館主催のカルチャースクールでも
地区の組長・区長会議後の懇親会においても
スーパーで偶然鉢合わせした見知りの奥様方の井戸端会議でも
そして公園で幼い我が子を遊ばせる奥様方の間でも……
噂は娯楽としての側面を見せながら、まことしやかに囁き合われていた。
そしてここ、長野市の北部団地群の中心地
南北を貫く県道と、東西を繋ぐバイパスのちょうど交差するその中心地近くにある喫茶店でも、その話題で持ちきりになっていた。
県道やバイパスに隣接する郊外型のありふれた大型店舗に混ざり、地元愛を全面的に押し出すかのような、ちょっと垢抜けない手作り感すら覚える個人経営の喫茶店、それが『コーヒータイム』である。
むき出しの材木を使った梁や、木目調の壁などで落ち着いた雰囲気を醸し出すこの喫茶店は、数年前の開店当初こそまるで人気が無く毎日がお通夜の状態であったのだが、初代店主とアルバイト従業員、そして昨年から初代と入れ替わった二代目女性店主の努力を経て、着実に繁盛店へと様変わりした。
今では昼間は奥様方の雑談の場として、夜は市街地まで足を運ぶ元気の無い地元民に酒を提供する居酒屋として、常に店内は客の喜怒哀楽に包まれていたのである。
そんなコーヒータイムのある日の夕方の事。
噂を主題にした雑談に興じていた奥様方や、時間調整でコーヒーを楽しんでいた営業マンが去った時間を利用し、女性店主が夜メニューの仕込みを始めようと腕まくりになって厨房で大活躍している頃、カランコロンと軽快なドアベルの音に合わせて店舗の扉が開いた。
「お疲れ様です! 」
女性店主に労いの言葉をかけながら入店して来たのはコーヒータイムのアルバイト、この北部団地群の高台にある星城女子大学の三年生である江森美央。高校時代からこの店でアルバイトを続ける、言わばコーヒータイムの看板娘と言った存在である。
「美央ちゃんお疲れ様。夜メニューの仕込みが早めに上がったから、まだお客さん来ない内に食べちゃおうか? 」
「お、良いアイデアですね。そして店仕舞いの後は残ったスウィーツで女子会ですね」
「あらら、去年の春物スカートが入らないからって、先週どんよりしてたのは、どこの誰さんだっけ? 」
「ぐはあっ! それは言っちゃいけません、それは無かった事にする黒歴史です」
本来なら、三人揃えばかしましいと表現するところが、二人だけで充分かしましいのは、江森美央の明るい性格もさる事ながら、美央とこの女性店主の相性が抜群に良い事も起因している
名前は池田祥子、昨年までは長野市内にあった探偵事務所に事務員として勤めていたが、コーヒータイムの初代店主が病に倒れて閉店の危機に瀕した際、地元民の常連客で調理師免許を有する池田は、この店の灯火を消してはならぬと、進んで雇われ店長の座に就いたのである。
まだアラサーで個人店舗の経営に四苦八苦してはいるものの、頭脳明晰・容姿端麗に料理上手と言うパーフェクトな資質を備えた池田は「黒髪ロングに黒縁眼鏡の美人店主」と巷で評判となり、新たなファン層を獲得しつつ、昨年の閉店のピンチからようやく店舗経営を軌道に乗せたのである。
「美央ちゃん、まかないはビーフシチュー飯で良いでしょ? 」
「やっべ、贅沢過ぎるじゃないですか」
「今日新しいの仕込んでたら、冷蔵庫に昨日の残りがたくさんあったの忘れててね。私ダメねえ、忘れっぽくて」
「いえいえ、そのお陰で祥子さんの絶品ビーフシチューが食べれるんだから、私的には有りだと思います」
「これ、そこは“そんな事ないですよ、祥子さんは頑張ってます”って励ますところでしょ」
互いに屈託の無い笑顔と軽やかな笑いで厨房内のひんやりとした空気を暖めつつ、やがてまかない料理は出来上がり二人は一足早い夕飯にありついた。
炊きたてのごはんをカレー皿によそり、カレーのようにビーフシチューをがっつりとかけたそれは、単なる料理屋のまかないにしてはあまりにも豪勢で、祥子と美央の笑顔を更に輝かせながら、美味い美味いとかき込んで行く。どうやらビーフシチュー飯は、忙しない夜の活力へと変わって行くようだ。
ドラマの話題、お笑い芸人の話題、アイドルやイケメン俳優など、乙女二人の会話は途切れる事を知らずにどんどんと話題を変えながら盛り上がるのだが、たまたま美央が大学のゼミ仲間から聞いた話として、とある噂が持ち上がった。
「祥子さん知ってます? 北長中の男子生徒たちが次々と自殺してる事件。私そんなの知りませんでしたよ」
基本的に自殺はニュースや新聞では報道されない。
それが偽装された自殺であったり、明らかな不審死として警察が取り扱わなければ、大体は闇に葬られてその実態が事細かに一般人に周知される事はない。
だからこそ昨今の国や地方自治体のPRでは「ストップ自殺」などのキャンペーンが盛んに行われるのだが、逆に考えれば国や地方自治体が深刻に受け止めてキャンペーンを張るぐらいに自殺者は多いと言うロジックが成立する。
つまりは『身近な存在でありながらもどこか遠くの世界の話』……それが自殺にまつわる話であり、自殺者の近親者であっても原因が判明出来ない事すらある。
だからこそ、他人の自殺に関する話題は一つのジャンルとして成立するのだが、誰一人として正解な内容の情報を提供出来ないのも確かではある。
「原因は何ですかね? イジメなのかな、集団心理による連鎖自殺かな」
「あら、美央ちゃんの探偵心に火が着いたのかな? 」
「いえいえ、何か長野って田舎なのに、都会のような寒々とした話題だなあって」
「大人が通学中の小学生たちに朝の挨拶しただけで、防犯ブザー鳴らされる時代だからねえ」
何か物騒な世の中になりましたねと、難しい顔をする美央を見詰めながら、ある事を思い出した祥子は何か閃いたのか、急に綺麗な黒い瞳にイタズラ心を浮かべながら、極力抑揚を抑えて美央に語り始めた。
「今月の新学期に入り、北長野中学校の男子生徒が自殺しているのは確かよ。この三週間で立て続けに三人」
「……祥子さん? 」
「自殺の方法はまちまちで、一人目が自宅倉庫で首吊り、二人目が自宅マンションからの飛び降り、三人目が私鉄に飛び込んだ。関連性は不明ながら、同じクラスの同級生だそうよ」
ここで美央は気付いた。
いくら才色兼備の池田祥子でも、彼女独自で入手する情報には限界があり、個別の自殺事件などその詳細が掴める訳が無い。
ならば池田祥子は、誰かから聞いた話をこの場で披露しているだけで、祥子の「向こう側」には、独自に情報収集の出来る人物がいると言う結果に繋がる。
もちろんそれは美央の知る人物、そうなればその情報自体のクオリティも高く、真偽の確度も非常に高い……
「藤巻さん! 藤巻さんから聞いたんですね? 藤巻さんが店に来たんですか? 」
「美央ちゃん残念だったね。昨日ゼミの飲み会でお店を休んでなかったら、あのへそ曲がり探偵に会えたのにね」
そう話を振りながら意地悪な笑顔でウインクする祥子。
美央はおどけて悔しがりながらも、瞳には寂寥感が溢れ出したのか、祥子のからかいを無意識に受け流している。
「退院してから、ほとんどお店に来てくれませんね……」
「まだ心の整理がついてないのかもね。ホント不器用なおバカさん」
なぜ「藤巻」がそんな情報を集めているのかなど、もちろん美央には知る由も無いのだが、感傷的になった彼女はそれ以前に、なぜ藤巻がその情報を集めているのかに迫る事は無かった。
何かを想う美央のセンチメンタリズムがまともに伝播したのか、祥子の瞳も寂寥感で溢れかえり、豪華なまかない飯を前にした早めの夕飯はいつの間にか、二人揃ってため息を繰り返す時間へと変わっていたのであった。