10 刈田の祓い巫女
砥石川にかかる細い橋。乗用車のすれ違いも困難なこの橋のたもとに今、都住姫子が立っている。
県道荒瀬原線と言うバイパスが長野市北部を南北にぶった斬ったため、今ではひなびた北国街道添いに点在する古くからの集落の人々だけが使うその橋に、都住姫子は何事を思い詰めているのか、ピリピリとした神経質な表情で視界に見える一点を見つめている。
学校指定のスカートにワイシャツ、その上には動きやすいようにと淡いピンクのヨットパーカーを着込む彼女は、右手には白木棒の先に和紙をくくりつけた祓串をしっかりと握っている事から、これから自身の『御役目』を行おうと、この場に挑んでいたのである。
ーー時刻は既に夜
夕方の段階で帰宅中の菊池晶馬が消息を断って数時間、一般家庭では夕飯の準備が終わり家族が食卓を囲む時間帯。
姫子はひたすら自分の脳裏でこれまでの経緯やそれに自らの推理を整理しながら、『春日商店』を凝視している。
ーー連続自殺事件が始まった起点は、間違い無くこの橋の下であり、イジメ被害者少年の悲痛な叫びと仔猫の断末魔の叫びが呪詛として残っている。それ以前の残り香が無い事から、これは間違い無い。
ーー少年と仔猫の呪詛が何かしらの力添えをもって増幅され、意思を持つ呪詛……【怨】に昇華してイジメの加害者側の子供たちに復讐を始めた。
原因と結果は分かった。自殺という極めてデリケート且つ情報の入手し辛い事件で、ここまでの道筋は立てられた。
そしてその【怨】を祓うにあたり、呪詛がなぜ力を持ったのか、どのような行動原理をもって何をゴールとしているのかが分からず、姫子が偶然にそれを目撃するまでは、まるで様子がつかめず五里霧中の状態であった。
だが、今は違う。姫子は店のカーテンを閉めて屋内から穏やかな灯りが漏れる春日商店を前に、一つだけ確かな確信を持ってここにいる。
(春日商店のおばあちゃんが狙われている。私も小さい頃から知ってるあの優しいおばあちゃんが狙われている。あの黒い影は、イジメの加害者たちでなく、あのおばあちゃんも恨んでいる。もしイジメ加害者たちが全滅したなら、次は……)
祓串をあらためてギュッと握る
滑りの良い白木の棒が姫子の手汗に馴染み、あらためて“その時”がやがて来るのだと言う自覚が、姫子の芯を駆け巡った。
「……ここにたどり着いたんだね」
あとは黒い影……【怨】が現れるのを待つだけだった姫子の背後から、突如聞き覚えのある声が投げかけられた。
ーー聞き覚えのある声ーー
姫子が常に想い、常に慕い、笑顔で会話を重ねられる時が来る事を、常日頃心から願ってやまない人。……その人の声が姫子の背後から肩口を越えて届いたのだ。
「藤巻さん……」
とうとうその名前を口にした。今の今までずっと胸の内に留めていた名前を発し、自分の鼓膜で心地よく確認した。
本来なら振り向きざまに飛び付きたい、そんなに深い関係ではないが、タックルのように全力でその懐に飛び込んで「おいおい、苦しいじゃないか」と苦笑いさせたい。
だが昨年の出来事が姫子を呪縛のように縛り、自分自身が振り向けないでいる。
ーー昨年の秋の事件、その顛末が姫子を許さないのだーー
古来より『桐子』と言う名の最強最悪の呪物が存在し、何者かが昨年の秋にそれを起動させ、長野駅前は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
死者二名、重軽傷者四名のその中に、姫子が慕ってやまない「藤巻博昭」の名前があり、彼は内臓にまで達するような刺し傷と出血性ショックで、意識を取り戻すのに二カ月もかかるほどの重体が続いたのだ。
その間に桐子は発見された。現場検証を行っていた警察が入居者募集中のテナントビルのポストに、小さな桐の箱が入っていたのを発見し、それを回収して刈田神社に相談を持ちかけたまでは良かった。
姫子は持ち込まれたそれを、その場で祓ってしまったのであるーーこれが後々意識を取り戻した藤巻が激怒した理由。姫子が藤巻の顔を真正面で見れない理由であった。
この世にはびこる悪鬼羅刹や悪霊怨霊、呪詛や呪いなど、世の人々を苦しめる全てを祓うのが姫子の務めであり、そう言う使命をもって生まれて来た。だから祓った事自体に間違いはないのだが、それを藤巻は怒ったのである。
【祓った桐子に、ただの木の箱に戻った桐子に、一体何の意味と価値があるのか? 君はこの桐子を前に、命がけで背後関係を探ったのか? 誰が、何故、何を目的に……もっと言えば、何個の桐子を懐にしながらこのテロを起こしたのか、分かった上で祓ったのか? 】
藤巻の怒りは効いた
姫子はぐうの音も出ないほどに落ち込み、短絡的だった自分を責めると同時に、藤巻との距離を感じるに至ったのである。
探偵業を営む藤巻さん、藤巻博昭。霊感や能力など一切持っていないにも関わず、心霊事件をズバリ解決してしまうキレッキレの頭脳を持つ人。彼は桐子の被害者をこれ以上増やさないためにも、あの桐子からどこまで真実を追えるか考えていたのだーー
あの事件から半年が経ち、平穏な日々は再び始まったのだが、桐子を設置した犯人は見つかっていない。そして無事退院した藤巻博昭も姿を隠すかのように、姫子の前に立つ事は無かった。
ーーその藤巻博昭が今、私の後ろに立っている! ーー
この人に認められたい一心で今まで頑張って来た
この人に笑顔を向けて貰いたくて必死に目の前の事件を解決しようと頑張って来た
本当なら嬉しくて嬉しくて振り向きたいのだが、今はまだその時ではないと判断したのか、姫子は背中を向けたまま春日商店を凝視している。再会の挨拶など後回しに、自分がこれから行おうとしている事に集中すべきと判断したのだ。
すると、藤巻も春日商店に焦点を絞っていたのか、慌てさせないようにとの配慮に満ちた、穏やかで落ち着いた言葉が姫子に届く。
「イジメの被害者は唐沢高広君、そして後を追うように自殺したのが母親の幸枝さん。ここまで調べるのに時間がかかってしまったが、最後まで聞くかい? 」
「はい。……聞かせてください」
ーー唐沢幸枝、旧姓山田幸枝さんは、新潟県妙高市にある老舗旅館の一人娘で、惚れた男性と東京に駆け落ちして子供をもうけた。それが高広君なのだが、その男性のDVに耐え切れずに離婚。しかし幸枝さんは駆け落ちして勘当同然の身であり、実家に帰る事は許されず、一歩手前の長野で母子だけの生活を始めて今に至る。
「彼女の勤め先であるスナックにも聞き込みに行ってみた。息子の話題になると目を輝かせる人で、高広君ただ一人が、彼女の生きる証であり希望だったそうだ」
“そうか、最後に残ったジグソウパズルの一片とは母、そしてこの黒い影の核心。全てを奪われた母の怒りと悲しみの怨念が、息子と小さな命の叫びを取り込み【怨】を成したんだ”
全てが繋がった姫子、子を想う母の怨念に想いを馳せると胸が痛むのだが、それでも自分の為さねばならぬ使命に気を引き締めようと下腹に力を込める。
「この川の土手で暴行事件が起きた時、少年たちは警察や救急車を呼んで欲しいと、春日商店に飛び込んだそうです」
「今時子供たちだって携帯を持っているのに、わざわざ店に通報を依頼したと言うのも臭う。多勢だったのを有耶無耶にするために、春日商店の婆さんを証言者として巻き込もうとする意図があったのかもな」
「そして【怨】となったお母さんは、お前が通報さえしなければと怒りに満ちて、春日のおばあちゃんを狙っている……」
姫子の左肩に軽い振動が走る
藤巻の手の平がそこにポンと乗せられた結果であり、衣服を通じてその手の平の暖かさすら伝わって来そうに感じる。
「悲しい話であり、悲しい結末になってしまうが……姫子ちゃん、出来るかい? 」
「はい、もちろんです。目的を果たしても【怨】が鎮まる事はありません。世の全ての怨念を喰らいながらひたすら凶悪化するだけ。私が出来るのは今すぐ祓って……親子が再び輪廻の輪に乗って幸せな来世を送るよう祈るだけ」
姫子の声が震えている
下唇をギュッと噛んでいないと、ついつい顔がクシャクシャになって涙がこぼれ落ちてしまうほどに、この悲しい運命を辿った悲劇の親子に対し感情移入していたのだ。
だが、自分がやるべき事は分かっている。
ここで立ち止まって同情しているだけならば、好奇心で首を突っ込んだ、ただの野次馬と変わらない。
ーー心を鬼にしなければと自分を鼓舞する姫子の脳裏と視覚に、突如チリチリとした不快な違和感が春日商店から飛び込んで来る。
「……! 藤巻さん、今感じました。お母さんが現れたみたいです」
「俺も一緒に行くかい? 」
「いえ、一人で大丈夫です。これは私の御役目です」
「そうか、分かった。じゃあ後は姫子ちゃんに任せて、俺は帰るぜ」
姫子の肩から手が離れる
姫子は「あっ」と小さく声を漏らしながら電気的に振り返ってしまった。
既に藤巻は歩き始めており、トレンチコートがなびく後ろ姿が見えるだけ。
「藤巻さん! また会えますよね! コーヒータイムに行きますよね! 」
思わず叫んでしまったが藤巻からの返事は無い。
その代わりトレンチコートのポケットに入れていた右手を挨拶代わりにひらひらと上げて、そのまま彼は去って行った。
そして、去り際の彼を一瞥しながら、姫子は再び春日商店へと視線を戻し、肩で風を斬りながら歩き出す。
愛する我が子を否定した全てを呪い、その全てを殺し尽くそうとする【怨】を祓うために、姫子は戦場に赴いたのである。
「ノウマクサンマンダ、バサラダン! センダンマカロシャダ……! 怒れる憤怒尊よ、砕破せよ! 」
田舎の澄んだ空気の中、チラチラと星空またたく春の夜空に、姫子の不動明王真言が響き渡る。
ーー全てが終わったのだ
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