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01 気づかないままに、始まってしまった事


 「昭和の時代からこの場所で店を開いてたんだよ」…… そんな歴史を象徴するかのような古い引き戸をギギギと引っぱり、春日商店の一日は終わった。



 ここは長野市の北部に点在する団地団地が一つにまとまった巨大な団地群にかき消されそうな、隙間に細々と伸びる旧地区。まだ日本人がちょんまげ頭だった頃に日本海の海の幸をせっせと運んだ『北国街道』、その名残でもある細い街道に並ぶ古びた集落で、この春日商店は令話の時代になるまで商いを続けて来たのである。


 昔は若槻村と呼ばれたこの地において、集落に住む者たちに生活雑貨や生鮮食品を提供し、酒や菓子類や雑誌まで提供して来た春日商店は、この地の様変わりをじっと見つめて来た歴史の証人とも言え、コンビニ全盛時代、郊外型店舗全盛時代の現代においては売り上げが激減したものの、集落の住民が今も足を運ぶ愛された店である事は間違い無かった。


 今現在の店主は春日ヨシ 七十八歳

 十年前に夫が亡くなった後、独りで店を開き続けて来たのだが、銀行員である息子は夫婦で関東圏に家を構えて定住した事から、春日商店最後の店主とも言えた。


 その春日ヨシが店のガラス戸を閉めてネジ式の鍵をかける。

 夕暮れも過ぎた薄暗れ時、黄ばんだ蛍光灯の青白い灯りが、今時のコンビニの半分も無いほど狭い店内を照らすと、空になったまま埃をかぶる棚が目立つのだが、ヨシはそれを恥じだとは思っていない。

 今は店の前の自動販売機で地域の子供たちがジュースを買って行くのと、老人たちがこの店に集まって茶飲み話に花を咲かせるのがヨシの楽しみ。

 ジュースの補充は業者に任せ、多少の和菓子を日々仕入れていれば良かったのである。


 少々の洗剤と文房具と台所用品が飾り程度に棚に並ぶ通りを潜り抜け、店の電源を落としてサンダルを脱ぎ、コンクリートの土間から母屋の床へと上がる。

 曲がった腰を労わるようにゆっくりと廊下を歩き台所へ。昭和の風情漂う台所で独りだけの夕飯の準備を始めたのだ。


 鍋に火をかけたのは朝の残りの味噌汁。

 年金とスズメの涙ほどの店の売り上げでは贅沢は出来ず、大事に使っていたキャベツの葉を二枚入れただけの味噌汁であり、夜はそこに卵を一つ落としてかき玉味噌汁へ。

 それと昨晩作った切り干し大根とジャガイモ・ニンジンの甘辛煮をおかずに、やはり朝炊いて昼も食べたご飯の残りを一膳。


 育ち盛りではなく老いた者の食事とすればこの程度で充分なのであろうが、独りの食事として考えると寂寥感が溢れて来るのは致し方無い。

 夫は既に他界し、子供とその家族も都会で暮らしているので食卓は常に独りなのだが、下世話な内容はともかくテレビが騒いでくれれば、多少の気分も晴れると言うもの。

 節約出来るならばそれに越した事はない。年末年始とお盆に孫がやって来るのであれば、肉でも寿司でもフライドチキンでも食べさせてやりたいと願えば、自然と財布の紐も締まる。

 つまりヨシは、毎度毎度キャンセルになったとして、ほとんど帰郷もしない息子家族が、いつ来るかと楽しみに待ちながら、質素な日々を耐えていたのである。


 四畳半の居間の電気を付けて、小さなテーブルに夕飯を置き、そう言えば忘れていたと冷蔵庫からお隣さんから貰ったキュウリの浅漬けを取り出し、一汁一菜おかず一品のゆうげが始まった。



 時間は十七時過ぎ

 国営放送のニュースは、どうせ明日店に寄り集まるご近所さんが話題にするだろうからチャンネルを合わせずに、民放のバラエティ番組を見始める。

 昔は子供向けの番組が目白押しだったが何がきっかけでこうなったのか、どのチャンネルに変えても芸人が司会者でひな壇に芸人が並び、安い再現VTRに一喜一憂するだけ。


 だが、ヨシにしてみればそれで良かった。

 番組内容などには興味も無く「かんべんしてくださいよう! 」とか「いやいやいや! 」など、芸人が大騒ぎしていてくれれば、ヨシはそれだけで自分が笑顔になった気分になれたのである。


 夕飯に箸をつけながら、とりあえずテレビ画面を見て笑う。そのまま仏壇に飾られた夫の位牌に目を配り、そして壁の梁に飾ってある夫の遺影に目を配る。

 順番からして夫が先に逝くのは若い頃から承知はしていたが、結果として訪れる最後の孤独がこれほどまでに寒々とした乾燥する世界だったとは……。

 テレビの影響で笑顔になったヨシの瞳の奥は、彼女の笑顔と反比例しているのか、哀しく輝いている。


 だが、特別ではなく何処にでもいる孤独な老人としての日々を送る春日ヨシは、先日から独りではなかった。彼女自身もそれに気付いてはいないのだが、この春日商店の屋根の下には、ヨシ以外の意志が確かに存在していた。


 ーー電気が消されて暗くなった店舗の闇から、彼女がいる方向をじっと見つめる瞳があったのだーー


 顔の輪郭すら分からない暗がりから覗くその瞳は年齢を重ねたようなくすんだ瞳ではなく、持ち主は若者のようにも感じられるのだが、一つだけ手に取るように分かっている事がある。

 ヨシを見詰めるその瞳は怒りに満ち満ちており、白眼が血走るほどに力がこもっている。つまりは、暗闇に浮かび上がった二つの瞳の持ち主は、ヨシに対して絶対的な害意を内包していたのである。




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