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第75話・外の世界の一日は


「それにしても、まさかシャルティエが蜂蜜を作っているとは思いませんでした」

「作ってるって言っても、満足のいくものが出来なかったから、今でもルーリアが作った蜂蜜を使ってるんだけどね」


 ミツバチの話を聞かせてくれていたシャルティエはそう言って、ちょっとだけ悔しそうな顔を覗かせる。


「ねぇ、ルーリアはどんな風に蜂蜜を作っているの?」

「……どんな? えっと、普通ですよ。季節ごとに花畑を作って管理しているだけです」


 特に変わったことはしていない。

 シャルティエから見れば、魔物の蜂で養蜂をしていること自体が変わってはいるのだろうけど、やっていることはミツバチの養蜂と一緒だ。……たぶん。


 蜂に天敵はいるの? 病気なんかは? と、シャルティエは納得していない顔で尋ねてくる。


「本当にそれだけ?」

「……う~ん。ミツバチより丈夫ですし、特別に何かをした覚えはないんですけど……」

「じゃあ、その花畑の花が特別な物なの?」

「いいえ。家の周りで集めただけの花ですよ。たぶんミリクイードなら、どこにでもある物だと思います」


 ロモアだって珍しいと言っても、あの森で見かける数が少なかっただけだと思うし……。


「……ルーリアの家はミリクイードにあるんだ」


 ちょっとしたことでもルーリアのことを知る度に、シャルティエは顔を綻ばせて嬉しそうに微笑む。


「……あ」

「何? 何かあった?」

「蜂にお礼を言っています」

「……お礼?」

「蜜をもらった時は、ありがとうって」

「…………そ、そう」


 それじゃない感たっぷりのシャルティエ。


「まぁ、相手は魔虫だし、私たちには分からない何かがあるんだろうね、きっと」


 商人らしく早々に頭を切り替えたシャルティエは、ルーリアが手に持っている紙に視線を向けた。

 そういえば、まだ読み途中だったと思い出す。

 確か二枚目に、ルーリアにして欲しいことが書いてあったはずだ。ピラッと紙をめくると、そこには大きくひと言だけ書かれていた。『いつも通りで』と。


「シャルティエ、これは?」

「書いてある通りだけど?」

「……えっ? あの、これだとやることが何もないと言われているような気がするんですけど。起きている間なら、わたしもちゃんと人並みに動けますよ?」


 自分にも仕事を与えて欲しいと話すルーリアに、シャルティエは「チッチッチッ」と人差し指を振る。


「ルーリアは分かってないね。やることはいつも通りでも、増えたミツバチの分も花畑の管理や採蜜の作業が増えるんだから。『いつも通り』で当たり前なの」

「……あ、そうでした」


 ミツバチが増える。それなら花畑はもう少し広くした方がいいかも知れない。


「ミツバチは魔虫と違って小さくてとても繊細な生き物だから、扱い方が変わってくると思うんだけど。ルーリアは採蜜の時、魔虫の蜂をどうしてるの?」

「それはもちろん、魔ほ……!」

「…………まほ?」


 すっかり忘れてた。

 魔虫の蜂と同じように魔法なんて使ったら、ミツバチが死んでしまう。


 ……どど、どうしよう!?


『初めてすることは必ず試してからじゃないと駄目だ。ぶっつけ本番は危ない』


 どこからともなく、そんな声が聞こえた気がした。


「……シャルティエ。今、ミツバチは繊細だって言いましたよね?」

「えっ。うん、そうだけど?」


 いきなりミツバチで魔法を試すのは怖い。

 先に何か、身近なもので試してみたい。


 辺りを見回しながら考えていると、ふと、フェルドラルと目が合った。

 いや、目が合ったというよりは、ヨダレを垂らしそうな顔でルーリアとシャルティエを見ていたと言うべきだろう。かなり引く。


 けれどもルーリアはニコッと微笑み、フェルドラルの所へ向かった。


「フェルドラル、少しお話があります」

「何でしょうか、姫様」

「……実は、ちょっと困っていることがあるのですが」


 そう言ってルーリアが見上げると、フェルドラルは少し(かが)んで耳を寄せる。


「何をお悩みなのですか?」


 心配してくれるフェルドラルには悪いけど、これも蜂蜜のため。ルーリアは心を鬼にして良心を捨てた。


「……その、あまり、人に言える話ではなくて……」


 もじもじと恥ずかしそうに話すルーリアの姿に、フェルドラルが萌え固まる。


「どうしても、フェルドラルの力を借りたいんです。今度、時間がある時でいいので、二人だけの時に。……あの、ダメですか?」


 じっと見つめるルーリアの瞳に、魂を抜かれたような顔のフェルドラルが映る。その(ほう)けた顔で、フェルドラルはしっかりとルーリアの手を取っていた。


「っ何でもおっしゃってください!」


 こうしてルーリアは、無事に魔法試し放題のミツバチ役を手に入れたのだった。



 ◇◇◇◇



 ふぁさっと、柔らかい布の落ちる音が静かな空間に溶け込む。


 シャルティエが帰った後、三階の自分の部屋に戻ったルーリアは髪のリボンを外し、着ていた服を脱いで水魔法を全身にまとった。


 指先、腕、首筋から上へ。清らかな水が髪を撫で、身体から足先へと流れる。

 濡れた黒髪に風を通すと、ふわりと軽やかになびいた。洗浄と乾燥が終わり、さっぱりする。


 着ていた服をたたみ、フィゼーレが用意してくれた服の中から楽に着られそうな物を選んだ。

 頭から被って袖に手を通す。

 ワンピースタイプのパジャマだ。

 くるっと回ると、すそが髪と一緒に円を描き、ふんわりと広がった。


 そのままルーリアは広いベッドに、ばふっと倒れ込む。枕に顔を深くうずめ、今日あった出来事を朝から順に思い返した。


 今日はルーリアが今まで過ごしてきた中で、一番長い一日だった。


 別世界のようなこの部屋で目を覚まし、フィゼーレに初めて会った。ガインにしがみ付いて泣いて、たくさんの商人を知った。みんなで美味しいお菓子を食べ、シャルティエと友達になった。それから新しい仕事の話をして……。


「……っ、はぁぁぁぁぁ~~~……」


 新しい知識で溢れ返った頭の中は、乱暴に掻き回されたみたいだ。

 たくさんの情報で溺れてしまいそうな、本の物語の中にいるような。まだ夢を見ているみたいに、ふわふわした感じがする。


 もうすぐ日が暮れる時間だそうで、眠るように言われたルーリアは一人で部屋にいた。


 この屋敷の中にはたくさんの照明があり、常に明るいから、今が昼なのか夕方なのか分からない。森にいる時のように陽の光で影が出来ないから、今が何時くらいなのか分からないのだ。

 時間の分かる『時計』という機械が屋敷のあちこちにあるそうだけど、この部屋に無事に帰ってくる自信がないから探しに行くのは諦めている。

 外の景色は大きな窓辺に行かなければ目にすることは出来ないし、見えたとしても目に映るのは、この屋敷の敷地内の景色と空だけだった。


 ガインとフェルドラルはまだ話すことがあるそうで、ルーリアを部屋まで送り届けると、すぐに出て行ってしまった。

 ガインは今日帰ったら、しばらくはここに来られないそうだ。


 ……明日から何をすればいいんでしょう?


 ごろんと仰向けになり、ベッドの天蓋の布を見上げた。

 屋根のように掛けられている手触りの良い厚布は、外側がワイン色で内側が深青色だ。

 その深青の色を空に見立て、星空の模様が織り込まれているらしい。小さな白い点々が星なのだと、フィゼーレが教えてくれた。


 家に帰れるのは、いつ頃になるのだろう。

 蜂蜜のこともあるから春までには帰りたい。


 本格的にミツバチの養蜂を始めるのは、次の春からになる。そのミツバチから蜂蜜が採れるようになるのは、さらに次の年になるかも知れない。

 ユヒムたち商人の素早い対応のお蔭で、流行り病は落ち着きつつあるそうだ。魔虫の蜂蜜の在庫も、そんなには減ってはいないらしい。

 だから、ミツバチから蜂蜜が採れるようになるまでは、魔虫の蜂蜜を菓子作りに使っても構わないとガインは言ってくれた。


 蜂任せになるから、ミツバチの蜂蜜が採れるようになるには、それなりに時間がかかるだろう。

 出来るだけ早く、菓子作りの分をミツバチの蜂蜜に切り替えられたらいいなと思う。


 自分がミツバチや花畑の管理をしっかり頑張らないと、シャルティエの店の味が変わってしまうかも知れない。ミツバチで魔虫と同じような蜂蜜が作れるのか、今はまだ確かめようもないけれど。


 ルーリアは初めて、自分の作る蜂蜜が人の仕事に影響を与えるかも知れない、という怖さを感じていた。失敗は出来ない。責任は重大だ。


 菓子作り用の蜂蜜ですら、この重圧感だ。

 人の生命に関わる魔虫の蜂蜜を作ってきたガインは、どんな気持ちで作っていたのだろう。

 それだって、元はと言えばルーリアのためだ。


 その蜂蜜を呑気に菓子作りの材料にして、さっきまでガインの前で得意気な顔をしていた自分を思い出し、その考えの足りなさにルーリアは自分で打ちひしがれていた。


 ガインが言っていた、自分の趣味や道楽のためだけに蜂蜜を使っていたのは、ルーリア自身だったのだ。蜂蜜屋の看板娘が聞いて呆れる。


「…………はぁ……」


 自分で自分が嫌になる。

 外に出てから、こんなことばかりだ。

 何をやっても裏目に出てしまう気がして、ルーリアはすっかり自信を失くしていた。


 ふと、ユヒムとシャルティエのやり取りを思い出す。

 前にアーシェンに言われた『人を疑え』という言葉は、自分だけでなく、周りにいる人たちも危険なことに巻き込まないようにするためのものだったのだ。


 あんな一瞬のやり取りだけで、相手の言葉に含まれる意味をどこまで読むか考えるだなんて。

 今のルーリアには到底できそうになかった。

 もっと先を読むように考えなければ、この先もまた、きっと同じ失敗をしてしまうだろう。


「………あぁあぁぁー……」


 外の世界は難しい。

 一人きりの部屋で足をばたつかせ、ルーリアの長い長い一日は静かに終わっていったのだった。



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