第62話・揺れる馬車の旅
さっそく街道にある馬屋で馬を二頭、四人乗りの馬車を一台借りる。御者はユヒムの屋敷の者が呼ばれ、先に手続きを済ませていた。
馬車の本体には、中が見えないよう窓に目隠しの布があり、音断の魔術具が据え付けてある。
扉を閉めれば完全な密室だ。
本来であれば、馬を乗り継いでも6日はかかる距離なのだが、今回は速度強化の魔術具も使い、半分の3日で到着する予定らしい。
途中、最低二回は宿屋に泊まることになるそうだ。
準備が済むと、馬車はすぐにダイアランへ向け出発した。
初めての馬車の旅だ。
やっと外の世界にいることを実感し始めたルーリアはドキドキしっ放しだった。
しかし、残念ながら移動中の外の景色は見られない。それでも馬車に乗る前に馬を間近で見ることが出来て、ルーリアは嬉しかった。
鹿より大きな動物に触るのは初めてかも知れない。馬は思っていたより毛がなめらかで、ルーリアは声を出さないように静かにはしゃいでいた。
……つい、さっきまでは。
いざ馬車に乗ってみると、想像していたよりも揺れた。縦にガタガタ、横にグラングランと。
「……ぅぐっ」
木で出来た車輪は、街道の石畳に当たると跳ねる。人があまり住んでいない地域で借りた馬車だから仕方がないとユヒムは言っていたけど、ルーリアはすぐに馬車酔いを起こし、今はフェルドラルの膝枕で完全に死んだ顔となっていた。
ルーリアがそんな状態なのに、なぜかフェルドラルは満足げな顔をしている。
「んふ」
「……フェルドラルは、なんでそんなに嬉しそうなんですか?」
膝上から恨めしそうにジトッと見上げると、フェルドラルは幸せそうに頬を緩める。
「なぜと申されましても、揺れる度に姫様から抱きついてきてくださるのですよ? これが喜ばずにいられましょうか。馬車とは、なんと素晴らしい乗り物なのでしょう」
「……アーシェンさん、席を代わってください」
聞くんじゃなかった、そんな理由。
「ルーリアちゃん、フェルドラルさんは男性が苦手なんですって。ユヒムの隣は無理よ」
「……!」
まさかのアーシェンの裏切り!?
……って、いくらフェルドラルでも苦手なことは無理強い出来ませんよね。……はぁ。
「ユヒムさ──」
「いやいや、オレは無理だよ。まだ死にたくないし」
──死!?
助けを求めようとしたら即行で断られた。
「姫様、大人しくなさってくださいませ。どうしてもその男の膝の方が、わたくしよりも良いとおっしゃられるのでしたら、その男は生きながらにして、この世の終わりを見ることになりますが?」
何をする気なのか、フェルドラルは表情を変えずに物騒なことを口にする。
ユヒムは口の形だけで「ね?」と言った。
馬車酔いがひどく、もう言い返す気力もない。
フェルドラルの膝上にぽふっと頭を落とし、ルーリアは仕方なく諦めた。
「……もういいです。好きにしてください」
「んふ。かしこまりました」
そう言うと、フェルドラルはルーリアの胸元に、すっと手を入れた。
「な……ッ!?」
「お静かに」
フェルドラルの指先から淡い光が広がり、全身を包み込んでいく。その光は温かく柔らかい。
すると、身体がほんの少しだけ宙に浮いたような感覚となり、揺れが直接伝わってこなくなった。
揺れがなくなっただけで、すごく楽になった気がする。具合も少しずつ良くなっていった。
すっかり顔色も良くなり、フェルドラルを見ると『褒めて』と書いてあるような顔をしている。
なんかちょっと釈然としないけど、とりあえずお礼は言っておこうと思った。
「……その、ありがとうございます。だいぶ楽になりました」
「んふ。姫様の弱っているお姿も、なかなかにそそられますわね。わたくしにはそういった嗜好はございませんが、好む者の気持ちが理解できたような気がいたしますわ」
「……!?」
やっぱりダメだ、この弓、と思った。
早く元の持ち主に返さないと、自分が危険だ。
その後も馬車は走り続け、辺りが暗くなった頃、その日の宿に到着した。
ユヒムは一人部屋、ルーリアたちは三人部屋だ。
ルーリアは馬車の中にいる時から眠りに就いていたため、次の日の朝までは記憶がぷつりと途切れることとなった。
◇◇◇◇
朝になり、窓の外から陽の光が差し込み、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。
ぼんやりと目を開けたルーリアは、見慣れない部屋に寝かされている自分に気付く。
…………どこ、ですか? ここ……。
身体を起こそうとすると人の腕が目に映り、ルーリアは驚いて飛び起きた。
「えっ! な、何っ!?」
見ると、隣でフェルドラルが自分に抱きつくようにして眠っている。
「えぇっ? 弓なのに眠るんですか?」
のそのそとフェルドラルの腕から抜け出し、アーシェンを探す。
壁も床も木で出来ていて、寝室と水場、テーブルなどのある場所がそれぞれ仕切られている、割と広い部屋だった。
部屋の中にアーシェンはいないようだ。
朝食を食べに出ているのだろうか。
『澄みし水に身を浸さん』
全身を水魔法で洗い、身支度を整える。
テーブルに着き、カゴから蜂蜜の瓶とスプーンを取り出した。隠し森を出てから主食となっている魔虫の蜂蜜を口にして、ガインが作ってくれたスプーンを眺める。
……自分が外の世界にいるなんて、まだ信じられない。
肉球の彫刻を指で撫でながら、ルーリアはぼーっと考え事をした。
ひとまず、今年の採蜜が終わっていて良かったと思う。
けれど、流行り病でこれから人が出入りして忙しくなるのに、店にガイン一人だけで大丈夫なのだろうか。エルシアにはいつ頃、家に帰ってきてもらえるのだろう。
あんなに憧れていた外の世界に出て、まだたったの二日しか経っていないのに、思い浮かぶのは家のことばかりだった。
……お母様も外にいる時は、いつもこんな思いをしているのでしょうか。
長く家を離れているエルシアのことを考えていると、後ろからにゅっと腕が伸びてきた。
「わぁっ!?」
「姫様、わたくしにもくださいませ」
何事かと思えば、寝起きのフェルドラルが音もなく後ろから抱きついてきていた。
なんて心臓に悪い弓なのか。いや、それより。
「えっ、フェルドラルって食べられるんですか?」
「えっ、姫様はわたくしを召し上がりたいのですか?」
思わず、真顔で見つめ合う。
…………今、なんて?
「あら、二人とも起きてたの?」
と、そこへアーシェンが入ってきて、ルーリアはビクッと肩を竦めた。
「あら、何か大切なお話し中? お邪魔だったかしら?」
アーシェンが再び扉に手をかけ出て行こうとするのを、ルーリアは急いで呼び止めた。
「待って! アーシェンさん、行かないで!」
「そんなに慌てて、どうしたの?」
「あ、いえ、あの……何でもないです」
「んふ、残念ですわ。貴女が来なければ、わたくしは姫様に食べ──」
「お願い、黙って」
ルーリアはフェルドラルの口を手で塞いだ。
「……大丈夫?」
変なものを見るような目をアーシェンに向けられ、「もう嫌」と、くじけそうになる。
「今のは、その、フェルドラルが蜂蜜を食べたい、みたいなことを言ったので驚いていたんです」
「え? 蜂蜜を? フェルドラルさんって、確か……」
「弓です。魔術具ですよ」
「そうよね。私もガイン様からそう聞いていたんだけど。……食事が出来るなんて不思議ね」
「ですよね」
分かってもらえてホッとする。
フェルドラルが変だという話をしているのに、なぜか本人は得意そうな顔をしていた。
「わたくしは人と同じようなことが、ひと通り出来るように創られています。食べる必要はございませんが、興味を持てば実行可能ですわ」
「へぇー、便利?なのね」
フェルドラルの話を聞き流しながら、アーシェンは荷物をまとめ始める。
何となくだが、すでにフェルドラルの扱いに慣れているようだった。
「ルーリアちゃんも準備が出来たら教えてね。ユヒムに声をかけてからの出発になるから」
「はい。分かりました」
ルーリアはフェルドラルに蜂蜜の瓶を差し出した。
「良かったら食べてみますか? 美味しいですよ」
自慢の蜂蜜だ。回復薬としての評判は知っているが、それ以外の話を聞いたことがないから、単純に味の評価を聞いてみたくなった。
「いただきますわ」
ルーリアからスプーンを受け取り、蜂蜜をひとすくいして口に入れる。フェルドラルは味を確かめるように視線を外し、食べ終わると蜂蜜の入った瓶をまじまじと見つめた。
「……これは美味しいですね。まるで上質な魔力の塊を口にしたような。わたくしは甘い物を好まないのですが、これは美味しいと思いますわ」
「本当ですか? 良かったぁ」
自分が作った物を直接人から褒められたことは、ほとんどない。ルーリアは嬉しくなり、こぼれるような笑顔となった。
その笑顔を見たフェルドラルは蜂蜜の瓶をテーブルに置き、真剣な目でルーリアの手を取る。
「姫様。姫様は男にその笑顔を向けられてはなりません。破壊力が凄まじいです」
「え、破壊!? そんなに変な顔ですか?」
慌てて顔に手をやると、アーシェンから笑い声が聞こえてくる。
「ルーリアちゃん、たぶんそれ褒め言葉よ」
「えっ?」
顔の評価が破壊で褒め言葉とは??
そんな会話をしながら旅の支度を整えたルーリアたちは、ユヒムと合流して宿を後にした。
昨日と同じように街道を馬車で進み、途中で馬を換え、夜にはまた宿で一泊をする。
こうして初めての馬車の旅はガインと別れてから三日後には国境を越え、何事もなくダイアランの首都であるダイアグラムへ到着することとなった。
家を出てからは、まだほんのわずかな日数しか経っていない。だが、ルーリアは初めてだらけの毎日で、頭の中を整理するだけでいっぱいとなった。
見るもの、聞くもの、全てが自分の知らないことで溢れている。同時に、アーシェンが教えてくれた様々なことを実感もした。
それは、外の世界では当たり前のこと。
誰もが当たり前に知っていること。
あの時の勉強の大切さが、初めて身に染みて感じられた。
自分には関係ないと思って聞き流していた話も、こうして現実として目の前に並べられると嫌でも分かる。
自分はなんて無知だったのだろう、と。
ルーリアが今まで暮らしていたのは周りに村も町もない、自分とその家族だけがいる、とても小さくて狭い世界だった。
アーシェンの言っていたことが本当なら、これから目にするものは、人も、建物も、景色も、何もかもが違ってくるのだろう。
ルーリアは馬車の中から外を見ることもなく、しかも夜の眠っている間にダイアグラムの街に入った。そのため、いきなり知らない世界で目を覚ますことになる。
世界一人口の密集した大都市、ダイアグラム。
そこがどんな場所なのか、ルーリアは想像もしていなかった。