閑話2・小さな誓い―後
数日後、ユヒムとアーシェンはまた山小屋に来ていた。もちろん父親たちも一緒だ。
玄関前にあるウッドデッキに座り、二人だけであの日のことを話していた。
自分たちの生き方を一瞬で変えた、あの日のことを。
ユヒムとアーシェンはあの時、ルーリアがいなければ間違いなく死んでいた。
何も出来ないまま、何も成さないまま。
10年に満たない短い時を生きたという、誰のためにもならない記録だけを残して。
それまではずっと、呪いが自分たちを殺すのだと思っていた。邪竜の呪いだけが、自分たちの生命を奪うのだと。そう思い、疑わなかった。だけど、そうではなかった。
呪いなんかなくても、死ぬ時は死ぬ。
それに気付いた二人は声を上げて笑った。
「私たち、とんだ勘違いしてたみたい」
「ああ。人がいつ死ぬかなんて、誰にも分からなかったんだ。他の誰とも何も変わらなかった」
ユヒムは吹っ切れたように笑い、アーシェンは眩しそうに空を見上げた。
「ねぇ、ユヒム。私、決めた」
「何を?」
「私、ルーリアちゃんのために生きる」
「自分や家族のためではなく?」
くすっとアーシェンは笑う。
「ルーリアちゃんのために生きることが、全てのためになるって気付いたの」
その言葉が、ユヒムには天啓に聞こえた。
………………全て──……。
「もちろん、その中にユヒムも入ってるよ」
「……オレも?」
「ええ」
「それは光栄だね」
アーシェンの笑顔に微笑んで返し、ユヒムは真剣に今後のことを考えた。死を待つだけの今までとは違う、生命を有効に使うためのこれからを。
この頃からユヒムとアーシェンはルーリアに対し、兄弟姉妹のように接するようになっていった。
自分たちが知っていることを少しずつルーリアに教えていく。ルーリアに外の世界のことを知らせたくないガインと折り合いをつけながら、あくまで蜂蜜屋の取引相手として、出来る範囲で。
◇◇◇◇
それから月日は流れ、父親たちは行商から引退し、後を継いだユヒムとアーシェンは、それぞれ一人で蜂蜜屋を訪れるようになっていた。
他の行商に出る時は護衛や供を何人も付けるが、ここに来る時だけは決まって一人だ。
この頃には勇者パーティに同行するため、エルシアは山小屋にいない日の方が多くなっていた。
口にこそ出さないが、時々遠くを見つめては、ルーリアはとても寂しそうな顔をする。
そんな時、ユヒムとアーシェンは出来るだけ蜂蜜屋に顔を出すようにしていた。
ある日、ユヒムはアーシェンから家に来るよう呼び出しを受ける。と言ってもすぐ隣だから、単身で訪ねるだけだが。
「やぁ、イルギス。アーシェンはいるかい?」
「おっ、ユヒム兄ちゃん。姉ちゃんなら、さっき庭にいたぜ」
ユヒムとイルギスは本当の兄弟のように気心の知れた仲だった。ユヒムを上から下まで眺め、イルギスはため息をつく。
相変わらず、そこらの貴族令息にも負けないくらい見目が良い。服装のセンスも身のこなしも群を抜いている。そして何より顔が良い。ダイアランでユヒムと張り合えるのは、貴族令嬢に大人気の第三王子くらいだろう。
だからこそ連日ユヒムを紹介して欲しいと学校の同級生や周りにいる女性陣から言われ続け、イルギスはうんざりしている。さっさと姉と婚約発表でもして周りを大人しくさせてくれればいいのに、と心の中で愚痴る日々だ。
「……いくら隣だからって、女に会いに来たってのに手ぶらかよ。花くらい持ってこいよなー」
と、八つ当たりに近い憎まれ口を叩く。
「……イルギス。お前、どこでそういうの覚えてくるんだよ」
「んー。ガッコー?」
イルギスは「アッハッハ。冗談だよ、冗談」と笑いながら、ユヒムをアーシェンのいる中庭まで案内する。そこはアーシェンの趣味が詰まった庭園とも呼べる箱庭だった。温室もある。
白い大理石で作られた水路と噴水があり、そよ風が吹くと手入れのよく行き届いた季節の花々から爽やかな香りが運ばれてきた。
「姉ちゃん。ユヒム兄ちゃんが来たよー」
大きな声でアーシェンを呼ぶと、イルギスは「ごゆっくりー」と白い歯をニッと見せて去って行く。
「ユヒム、忙しいのに呼び出してごめんね」
「いや、別に構わないよ」
そう言うアーシェン自身も父親の行商の後を継ぎ、最近は忙しくしているとユヒムはよく知っていた。
屋敷にいる時のアーシェンは年相応の淑やかな令嬢のような装いだ。外ではきっちりとした旅装をするが、家では緩やかな服を好んで着るため表情が和らいで見えた。
「それより用事って?」
さっそく用件を尋ねると、アーシェンは庭の奥にある水辺近くのガゼボにユヒムを案内する。
ここには音断の魔法が掛けられていた。
すぐに使用人たちが動き、茶の用意を済ませ、ユヒムたちを残して中庭から人の気配が消える。
自分の屋敷に負けないくらい良い人材をそろえているようだ、とユヒムはその様子を眺める。
アーシェンは香りの良い紅茶をひと口飲み、すぐに本題へと入った。
「実はね、エルシア様の話なんだけど。ガイン様との荷物のやり取りにお困りみたいなの」
「ああ、手紙はいいけど物を届けるのが難しいって話だろ。オレもそれは聞いているよ」
双方に物を転移させる魔術具は、あるにはある。だけどとても大きく、持ち運べるような物ではない。
街中であれば『転送屋』なんてものも存在するが、どこまで信用できるか分からない。人には見せられない物や、貴重な物を送ろうとするエルシアには向いていなかった。
「それをね、私たちでお手伝い出来ないかなって思って。私たちなら、あちこち自由に行けるでしょ?」
「……そうだなぁ。初めて行く所なら、一人より二人の方が行きやすいのは分かる」
「でしょ」
荷物を受け取り、すぐに転移するだけなら安全だ。悪くない方法だと思う。……けど。
「でも、アーシェンはそれでいいのかい?」
「……? どういう意味?」
「オレと一緒に動いてたら変な噂も立つだろ? 商人の連中はそういう話に遠慮なんてしないから」
ユヒムはアーシェンが低俗な噂の的にされることを心配した。こういった話は男より女の方が被害が大きい。店の評判を落とされることもある。
「私たちは今までも子供のクセに生意気だって、散々嫌がらせを受けてきたじゃない。今さら噂話の一つや二つ、どこに怖がる必要があるって言うの? それに、ビナーズとケテルナが協力関係にあるのは周知の事実よ?」
アーシェンの強気な返しを受け、ユヒムはこめかみに手を当てた。言いたいことの意味が伝わっていないようだ。
「……どちらかというと仕事の話じゃなくて、アーシェン、キミ自身の潔白の話なんだけど」
「私?……何も悪いことなんてしてないわよ?」
呆れた顔のユヒムに、アーシェンはキョトンとして返す。その紫水晶の瞳には、自分の行動は間違っていないという強い信念の光が表れていた。
……違う。そうじゃない。
ユヒムは心の中でため息をついた。
あぁ。アーシェンはなぜ、こんな時だけ察しが悪いのだろう。
「……はぁ、もういいよ。遠回しは止めだ。率直に言うよ。あのね、アーシェン。オレと一緒にいたら、キミの将来の相手がオレだと周りから誤解されるってことなんだよ。キミはそれでもいいのかい?」
「ああ、そっちの話ね。ごめんなさい。ユヒムが困るんだったら、無理にとは言わないわ」
少し緊張して真面目な顔を向けたのに、アーシェンはあっさりと返しただけだった。
……く。
「オレは何も困らないよ。アーシェンが困らないならそれでいいさ。いいよ、一緒に行こう」
自分だけ意識しているなんて馬鹿馬鹿しい。
ユヒムは投げやりに返した。
仕事とは関係ないと思って心配したのに、アーシェンにはあくまで仕事の話のようだ。
「……本当に、困らない?」
アーシェンが確認するように聞いてくる。
「ああ。全く困らないよ」
「……そう。なら、良かった」
そう呟いたアーシェンの口元には、ユヒムには見せないように微笑みが浮かんでいた。
こうしてユヒムとアーシェンはエルシアの荷物の受け渡しをするため、勇者パーティと動きを合わせるように二人で行商と旅をするようになっていった。
この頃からユヒムは、ある悩みを抱えるようになる。自分が弱い、ということだ。
今のままではいざという時、アーシェンどころか自分の身すらまともに守れそうにない。
そこで思いついたのが、蜂蜜屋を訪れた時にガインに稽古をつけてもらい、剣を習うことだった。
武の才能がある訳でも、身体的に強化された種族という訳でもない。魔力もないただの人族の身では、地道な努力を積み重ねるしかなかった。
実は小さい頃、ユヒムは騎士に憧れたことがある。大切な人や自分の信じるものを守るため、常に強くあろうとする騎士に憧れ、そうなりたいとよく思ったものだった。
だから例え真似事だとしても、剣を持つということは商人のユヒムには特別なことのように思え、それを神殿の元騎士団長であるガインから教えてもらえることは、とても嬉しいことだった。
そんな、ある日。
稽古後のユヒムの所へ、アーシェンがやって来た。
場所は山小屋の東の方角にある、いつもの小高い丘の上だ。見晴らしが良く、遠くの山までよく見える風の通りが心地好い場所である。
ガインはすでにいない。
ユヒムは草の上に仰向けに寝転がり、空の雲が流れていくのをぼんやりと眺めていた。
「随分と頑張っているのね」
ユヒムは視線だけを声のした方へ向ける。
「アーシェンがここに来るなんて珍しいね。何か用事でも?」
「……別に。何となくよ」
アーシェンはユヒムの隣に来ると、膝を抱えて座った。地面に直接座るなんて、屋敷の中では考えられない。
「何を考えてたの?」
ユヒムは深く考え事をする時、海の水宝色の瞳にわずかな変化がある。口で説明するのは難しいが、かすかな色の違いがあるのだ。
その変化に気付く者は、ほとんどいないだろう。仮に気付いたとしても、人によっては冷たく感じるかも知れないその瞳が、アーシェンは好きだった。
「……昔のことなんだけど、初めてここの森の奥に行った時のことを、アーシェンは覚えているかい?」
「忘れるはずないじゃない。ルーリアちゃんが命懸けで私たちを守ってくれたんだから」
アーシェンは当然といった顔をユヒムに向ける。
「あの時オレは、自分の力の無さに本当に悔しい思いをしたんだ。だから今度はそんなことにならないように、自分に出来ることは精一杯しようと思ってね」
そう言って、空に向かって手を伸ばす。
「……ガイン様の影響?」
「いや、オレ自身がそうありたいと思っただけだよ。……例え短くても、後悔しないように生き抜きたいんだ」
ユヒムは身体を起こし、アーシェンの横顔を見つめた。紅い髪が風に揺れ、その表情を隠す。
「……私だって、同じこと、思ってる。こんな身体だから、なんて思いたくない。精一杯生きて、そして格好良く死のうって。そう決めてるの」
アーシェンは強い瞳で前だけを見つめ、気高い決意の涙をひと粒だけ落とした。
……ああ。これを守りたいから、オレは強くなりたいと願うんだ。
自分が騎士に憧れていた理由をユヒムは思い出す。
「アーシェン、オレは自分の大切なものを守れるように、もっと強くなると誓うよ」
自分は騎士ではないし、ここは正式な宣誓の場でもない。だけど、この誓いは本物だ。
「……私も。守りたいもののためには遠慮なんてしない。自分に出来る範囲で、なんて甘いことは言わない。私は命懸けで助けてもらったことを絶対に忘れない。……誓うわ。かけられた恩には絶対に報いるって。人として、正しく生き抜くって」
ユヒムたちはあの日、誓い合った。
遥か遠くまで見渡せる、広い空のその下で。
誓いの向く先は違うけど、きっとその先にあるものは同じだと信じている。アーシェンの守りたいもののために、自分も強くあろう。
自分たち以外、誰も知らない。
とても小さな誓い。
それを互いの胸に秘め、今日もこの広い空の下、ユヒムはアーシェンと短いようで長い旅を続けている。