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閑話2・小さな誓い―中


「──ッ……」

「大丈夫か、アーシェン!」


 腕に抱きかかえたアーシェンを、ユヒムは焦る顔で覗き込む。魔力が残り少ないのに無理に炎を出したアーシェンは苦しそうに胸を押さえた。


 ……こんな状態で炎を出すなんて!


 この炎は、きっと最後の魔力を振り絞ったものなのだろう。アーシェンの顔色は真っ青だった。こんな魔力の使い方をすれば、邪竜の呪いが早く身体に広がってしまう。


 邪竜のものに限らず、呪いを受けた者が極端に魔力を減らすと呪いの進行が早くなると言われている。魔力を持たない自分には関係ない話だが、アーシェンのためにユヒムは調べていた。


 ……オレにもっと力があれば!


 無情にもアーシェンの出した炎が消えかかると、蜂たちは二人を追い詰めるように包囲し始める。


 ──もう、逃げ切れない。


 炎の欠片が、消えた。

 それを合図に蜂たちから一斉に攻撃が仕掛けられる。


 ──せめて、アーシェンだけは!!


 毒針が次々と迫る中、ユヒムはアーシェンに覆い被さり、蜂たちに背中を向けた。



流れる風に身を委ねよクイン・ファー・レイス!』


 凛とした、だけどどこか幼さの残る女の子の声が響いた。そしてそのすぐ後に、ドサッと何かが落ちたような音が聞こえてくる。


「ッな!!」


 ユヒムが振り返ると、そこに倒れていたのはルーリアだった。


「姫様ッ!?」


 ユヒムたちの周りには、ルーリアが出した風魔法の囲いがある。そしてそれに触れた蜂たちは、次々と遠くに押し流されて行った。


 けれど、その一方で。


「──……ッ、……ぅ……っく……」


 蜂たちは倒れているルーリアに群がると、何度も深く毒針を刺し、その度に痛みに耐える声が弱々しく漏れ聞こえてきた。


「──姫様ッ!!」


 ユヒムはルーリアに腕を伸ばし、その身体を掴むと全力で風の囲いの中に引っ張り込んだ。


「……ッハァ、……ハァッ……」


 心臓が口から飛び出てきそうだ。

 あと少しタイミングがずれていたら、ユヒムも蜂の毒針に刺されていただろう。それくらいギリギリな一瞬の出来事で、考えるより先に勝手に身体が動いた。


『……モ、広域睡眠(モース・モウズィニー)……解毒(ヴェーザ・ソート)……』


 呪文を唱え終えると、ルーリアはぱたりと気を失った。それと同時に風の囲いが消え、代わりにボトボトッと音を立てて、蜂たちが一斉に地面に落ちる。

 触角がピクピクと動いているから、今の魔法で眠らされたのだと気付いた。


 ……なんてことだ!


 ルーリアの服にはあちこち穴が開き、元の布の色が分からなくなるくらい血がにじんでいた。

 小さな身体には毒針で刺された痕が無数にあり、土と泥と血にまみれている。


 早く助けを、……いや、違う!


 助けを呼びに行っている間に蜂が起きたらどうする!? この場合は一刻も早く連れ帰るべきだ。


 ルーリアの呼吸は荒く、傷口から流れる血も止まらない。体温もだんだん上がってきている。


 とにかく急がないと!!


「アーシェン、立てるか?」

「……何、とか……。大丈夫、歩いてみせる」


 ユヒムはルーリアを背負い、急いでアーシェンと山小屋に戻った。



 ◇◇◇◇



「ルーリアッ!!」


 娘のボロボロに傷ついた姿を見たガインは顔色を変え、すぐ二階にいるエルシアの元へと運んだ。

 そして部屋から出てくるとユヒムたちに魔虫の蜂蜜を渡し、すぐに体力と魔力を回復するように言ってきた。


「ガイン様、回復より先に事情を聞いた方が……」


 ルーリアのひどいケガを見て顔色を変えたのはガインだけではなかった。ギーゼとシャズールも、ルーリアだけが血まみれだったのを見て別の意味で顔色を変えている。


 大切な取引先の、しかも姫様と呼ぶほどの相手がひどい傷を負い、自分たちの子供はほぼ無傷だ。

 商人の親からすれば、悲鳴ものなのは間違いないだろう。しかし、ガインの反応は違った。


「馬鹿なことを言うな! ルーリアがあの状態で、この子たちが無傷なはずがあるか。ユヒムはルーリアを運んでくるだけでも相当きつかったはずだ。アーシェンだって顔色が悪い。魔力をかなり消耗したのだろう。お前らは俺に気を遣うより、自分の子供のことをもっと心配してやれ!」


 父親たちを叱りつけた後、ガインは腰を落としてユヒムとアーシェンに目線を合わせた。


「ユヒム、よくルーリアをここまで背負って運んでくれた。本当にありがとう。アーシェンも慣れない魔力の使い方をしたんだろう? 魔力の使い過ぎは危険だ。説明は後でいい。まずは先に回復するんだ」


 自分たちを責めることもなく、我が子のように心配するガインにユヒムとアーシェンは目を丸くした。そして言われるままに魔虫の蜂蜜を口にする。


「えっ!!」

「これって……!?」


 親に言われて毎日蜂蜜を摂ってはいたが、体力や魔力が減った状態で口にしたのは初めてだった。

 その回復の早さに、ユヒムもアーシェンも素直に驚く。あれほど重かった身体が今では嘘みたいに軽い。


 そうしている内にエルシアに連れられ、ルーリアが二階の部屋から下りてきた。

 驚くことに、先ほどまでのひどい姿が夢だったかのように、ルーリアには傷一つ残っていない。


「……す、すごい」

「これが、魔虫の蜂蜜の回復力」


 魔虫の蜂蜜が万能回復薬と呼ばれる所以(ゆえん)を、ユヒムたちが身を持って知った瞬間でもあった。


「姫様! もう大丈夫なんですか!?」


 ユヒムは声を上げて駆け寄る。

 しかし、ルーリアはビクリと身体を震わせ、エルシアの後ろにサッと隠れてしまった。

 そして陰からユヒムたちの方をチラチラと覗いては、恥ずかしそうな顔をしている。


「…………」


 どう見ても人見知りだった。

 自分たちより年上だと聞いていた気がするが、とてもそうは見えない。


 …………何だろう。


 人をいじめる趣味はないけれど、ユヒムはちょっとルーリアを引っ張り出してみたくなった。

 つい、からかいたくなるというか、ちょっかいを出したくなる。


 そんなルーリアの可愛らしい仕草を見たからなのか、それとも回復した姿に安心したからなのか。ギーゼとシャズールからは、やっと息をついたような声がこぼれていた。


「あの、姫様。さっきはありがとうございました」

「あのままだったら、私たち──」


 ユヒムとアーシェンが助けてもらった礼を伝えようとすると、ルーリアは「それよりも!」と、顔を赤くしながら話題を変えた。


「……そ、その、ユヒムさんに『姫様』って呼ばれるの、ものすごく恥ずかしいから止めて欲しいです」


 ユヒムとアーシェンは顔を見合わせ、目を瞬いた。


「…………え?」

「私はいいの?」

「アーシェンさんも、です」


 どうやらルーリアにはケガをしたことよりも、そっちの方が大事なことのようだ。


 今までルーリアは、ギーゼたちにも呼び方を変えるように散々言ってきた。なのに全く聞き入れてもらえない。その上、最近ではユヒムたちまで同じように呼び始めた。だからルーリアは焦っていた。このままではまずい、と。蜂のことなんか、どうでもいい。

 ルーリアは戸惑うユヒムたちに名前の呼び方を変えるよう強く求めた。


「えっ、と……じゃあ、何て呼べば?」

「普通に呼んでください」


 ……普通。


 ユヒムは空気を読み、ギーゼに視線を送った。

 思った通り、首を横に振っている。

 商人にとって呼び方のケジメは大事だ。


「じゃ、じゃあ、ルーリア様は?」

「…………嫌です」


 ……うん。すごく嫌そうな顔をされた。


「ルーリアちゃん、はどう?」


 と、アーシェンが提案する。


 父親のシャズールは顔色を悪くしていたが、当の本人のルーリアが気に入ったようだった。とても嬉しそうな顔で、うんうん頷いている。


「アーシェンさん、それがいいです」

「じゃあ、オレもそれでいいかな?」


 そんなに嬉しそうな顔をするなら、それがいいのだろう。と、思ったのだが。


「……嫌です」


 …………う、うん?


 またしても嫌そうな顔をされた。なぜ?


「え? 私はよくて、ユヒムはダメなの?」

「……だって、ユヒムさんは弟って感じだから」


 ──弟?


 姫様にはアーシェンよりオレの方が年下に見えているのか? アーシェンや姫様より、オレの方が背が高いのに?


 ユヒムはカチンときた。

 でも自分の方が大人だと思わせたかったから、顔は笑顔のままでいた。大人には余裕が必要だ。


「いやいや。オレの方がアーシェンより一つ年上なんだけど?」

「アーシェンさんはお姉さんみたいだからいいんです」


 ……何てこった。


 どうやら雰囲気でアーシェンに負けているらしい。地味にショックだ。


「アーシェンより下なのは納得いかないな。オレもルーリアちゃんて呼ぶ」

「えぇ~。わたしの方が先輩ですよ?」


 その理屈で行くのなら、アーシェンはいったい何だと言うのか。

 ユヒムはこの時から、ルーリアのことを『ルーリアちゃん』と呼ぶようになった。



 そんな子供たちのやり取りを微笑ましく見ていた親たちは、ユヒムとアーシェンに「大切な話がある」と、テーブルに着くように言った。


 普段は二階の部屋にいて、滅多に顔を合わせることのないエルシアが前に出る。たまにしか見ないけど、とても上品で綺麗な人だとユヒムもアーシェンも思っていた。


「もう二人には、私たちの本当の姿を見せても大丈夫かと思います」


 ……本当の、姿?


 ユヒムとアーシェンが首を傾げる中、エルシアは自分とルーリアが着けている腕輪をそっと外した。


「!!」


 ──エルフ!?


 なんと、二人の目の前に現れたのは、物語の中でしか存在を知らない『エルフ』だった。

 森の妖精と(うた)われ、遠い神殿にいると聞いたことのあるエルフ。その親子が目の前にいる。


 ユヒムとアーシェンは目を見開いて、その姿に見とれた。エルシアとルーリアが寄り添う姿は、王城に飾られているどの絵画よりもずっと神々しくて美しい。


 エルフでもルーリアは幼く可愛らしい女の子だったが、エルシアの姿はまさしく別格と言えた。

 輝くような白金(プラチナ)色の長い髪に、澄んだ深い蒼色(グリーンサファイア)の瞳。

 子供であっても頬を染め、心がとろけるのを感じてしまうような非の打ち所のない容姿だった。


 …………女神だ。


 ユヒムは心の底からそう思った。


「……えっ。エルフと、人族の……夫婦?」


 アーシェンがガインに目を向け、思わず口にした。口には出さなかったが、ユヒムも同じことを考えている。人族とエルフでは、さすがに生きる時間に差があり過ぎる、と。


「俺は獣人だ」


 ガインはアーシェンの呟きに短く返し、ユヒムたち二人を奥の音断部屋へと連れて行った。



 ユヒムたちが商談部屋に入ったのは、これが初めてだ。思わず緊張して、膝の上でギュッと両手を握る。そこで最初に語られたのは、すでに知っている邪竜の呪いについての話だった。


 そして、ギーゼたち父親の呪いの話。

 ルーリアの呪いに似た体質の話。

 ケテル家とビナー家に無償で与える、魔虫の蜂蜜の話。この森に入るために着ける魔術具と、それが必要な理由。


 子供に向けたものではなく、きちんとした大人向けの話にユヒムたちの顔も真剣なものとなった。

 ユヒムもアーシェンも魔虫の蜂蜜の価値は知っている。だからそれを無償でと言われても、すぐには納得が出来なかった。そんなことをすれば、それはもう商売とは呼べなくなってしまう。


 けれどガインの意志は固く、「お前たちの家族のためには必要なことだ。そうでもしなければ、ギーゼとシャズールに合わせる顔がない」と苦しそうな顔で言われてしまえば、ユヒムたちも折れるしかなかった。


 最後に、ガインはユヒムたちに本来の姿を見せた。人族の姿に獣の耳と尻尾が生えた、ダイアグラムの街でもたまに見かける獣人の姿だ。

 ガインは『白虎』という聞いたことのない種の獣人だった。猫によく似ている。


 しかし、それで終わりではなかった。

「怖がるなよ」と呟くと、ガインの身体は真っ白な光に包まれ、その姿を完全な獣へと変化させたのだ。


「────ッ!?」


 白く輝く柔らかい毛に、黒で描かれる高貴な模様。力強く野性的な光を宿す、幻惑の金色(クライオフェン)の眼。


 ……これが、白虎!!


 とても美しい白い虎が、そこにはいた。

 これにはユヒムもアーシェンも息を呑み、声すら出せない。獣人が完全な獣の姿となるなんて、聞いたことがなかったからだ。


『ルーリアを助けてくれた二人を信用したから、この姿を見せた。俺が獣人であることは外では口にしないように。この姿のことは自分の家族にも、ルーリアにも言うな』


 獰猛な肉食獣にしか見えない大きな白虎に凄まれれば、ユヒムとアーシェンは黙ってコクコクと頷くことしか出来なかった。



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