第49話・越えた先の知らない世界
自分が、外の世界にいる。
結界を出て、外の世界の地面に立っている。
…………な、に、これ。……な、んで……。
一瞬で頭の中が真っ白になり、ルーリアは呆然と立ち尽くした。見かねたキイカに声をかけられ、やっと呼吸を思い出す。
「……っな、何でっ! どうして? 結界の外に、出て……っ!?」
中に戻ろうとしても、今度は透明な壁に阻まれ入れない。どうしたらいいのか分からず、ルーリアはひどく狼狽えた。本当にどうすればいいのか何も思い浮かばない。
ど、どうしよう、どうしよう、どうしよう!?
「もしかして……これのせいじゃないですか?」
目を見開いて愕然とするルーリアに、キイカはキョトンとした顔で腕を差し出す。キイカが指差すのは、手首に着けた許可証だ。
「これを着けていれば通れるんだから、ルーリアさんも私と一緒なら通れるんじゃないですか?」
「えぇッ!? まさか、そんな方法で!?」
許可証を持つ人と一緒なら通れる、なんて。
そんな単純な魔術具の設定の見落としとしか言えないようなことでエルシアの結界から抜け出たなんて、とても信じられない。いや、信じたくなかった。
しかし、こうして外の世界にいるのが現実だ。
試しにキイカに手を繋いでもらったが、中に入ることは出来なかった。出ることは出来ても、入ることは無理なようだ。
……ど、どうしよう……。
「ここにいても仕方ないですし、ルーリアさんも一緒に行きます? 彼の村は病人が多いみたいだから、人手があると助かるんですけど」
途方に暮れるルーリアに、そう言ってキイカが手を差し出す。
……わたしが、外の世界に……。
しばらく沈黙が続き、何も考えられないまま、ルーリアはキイカの手を取った。
……そう、ですよね。このままここにいても仕方がないですよね。
「分かりました。わたしも一緒に村に行きます。……その、よろしくお願いします」
本当は怖くて心細くて堪らない。
全く予想もしていなかった形で、いきなり外の世界だ。何の心の準備もなく放り出されたルーリアは、言いようのない不安を全身で感じていた。
ひとまず何も考えないようにして、さらに南へと歩いて行く。余計なことを考えてしまえば、途端に足が竦んでしまいそうだ。
林道と森を抜け、ダイアランへ続くという街道を目指す。この辺りはもう魔物もほとんど出ないそうだ。街道には石畳が敷かれ、馬車が並んで通れるくらいの広さになっているらしい。そこに出るまでは自然感たっぷりの土道が続く。
途中、二人は休憩のため、小川のほとりに立ち寄った。キイカはこの辺りの水場を全部覚えているという。
ちゃんとした川を見るのは初めてなのに、今のルーリアには浮かれるだけの元気はなかった。
川の水面を呆然と眺め、今後のことを考える。
村に行って、病の人たちに蜂蜜を届けたとして……その後はどうしよう。
どうにかガインと連絡を取れるようにしなければいけない。その方法を考えていると、突然、背後からふわっと手が伸びてきた。
「!?」
腕ごと脇を閉じるようにギュッと抱きしめられ、身動きが取れなくなる。驚いて振りほどこうとしても、大人の腕でしっかりと包まれていてビクともしない。
「だ、誰ですかっ!? 放してください!!」
ルーリアの声に気付いたキイカが慌てて駆けつけた。
「ルーリアさん!? いったいどう──」
「キイカさん、こっちに来ちゃダメです!」
もしかしたら危険な人かも知れない!
そう思って必死にもがいていると、囁くようにルーリアの耳元へ綺麗な声がかけられた。
「んふ。姫様、そのように慌てないでくださいませ。わたくし、傷ついてしまいますわ」
!? 女の人!?
その声に聞き覚えはない。
「あ、貴女は誰ですか!?」
尋ねるルーリアに返ってきたのは、耳をかすめる悩ましげなため息だった。声も出せず、ゾワッと鳥肌が立つ。
「ひどいですわ、姫様。昨日はずっとご一緒でしたのに。わたくしに溢れるほどの魔力を注いでくださったこと、もうお忘れなのですか?」
この薄情者、とでも言うように、甘えた声がルーリアにかけられる。もちろん、そんな身に覚えなどない。
「……ル、ルーリアさん!?」
女性の言葉を真に受けたキイカがドン引いた顔になっている。これはまずい。
「なな、何を言っているのですか!? わたしは貴女のことなんて知りませんよ! 人違いではないですか!?」
「んふ。照れておられるのですね。お可愛いらしい。ご自分の寝所で、あれほど熱心にわたくしをいろんな角度から、じっくりと眺めていらっしゃったではありませんか」
とんでもない誤解を招きそうなことを、微笑みを浮かべたような声で女性は告げる。
「…………ル……ルーリア……さん!?」
キイカはすでに、そういう目でルーリアを見ていた。
違いますっ!! と、全力で叫びたい衝動をルーリアはどうにか呑み込んだ。こういう人は、まともに相手をしたらダメな気がする。今はとにかく離れなければ。
「と、とりあえず放してください! このままでは顔も見えません」
「それは失礼いたしました、姫様」
そう言いながらも身体は放さず、ルーリアの向きだけをクルッと変え、その女性は正面からまっすぐに見つめてきた。
えっ!? エル……フ!?
冬間近だというのに、その女性はびっくりするくらい薄着だった。胸と腰回りくらいしか隠れていない。
腰まである真っ白な髪には、毛先にだけ指に巻いたようなクセがある。森の深部を思わせる永遠の深緑の瞳に、エルフのような尖った耳。大人の女性らしい靭やかな身体。
女神のような美しい人だった。
最初はエルフかと思ったが、エルシアとは違う気配を感じる。これが話に聞く精霊なのだろうか? それにしては生々しい。湧き出るような色香や女性らしい魅力を感じはするが、そこでますます心当たりがなくなる。
…………ほ、本当に、誰!?
「んふ」
女性は『もうお分かりでしょう?』みたいな顔をしているが、うん、全く分からない。
「……すみません。どちら様でしょうか?」
素直に尋ねると、『ガ──ン!』という顔が返ってきた。美人が台無しだ。
「ひ、ひどいですわ。今日も姫様は自らわたくしを手に取ってくださいましたのに。ずっと、肌と肌を寄せ合っておりましたのにぃ~……」
よよよ……と、謎の人はわざとらしく泣くふりをする。ちょっと迷惑だ。
「その変な言い方は止めてください。……昨日、今日?」
この永遠の深緑の色には見覚えがあった。そして、背負っていたはずのものがない。
「……まさかとは思いますけど、フェルドラル、なんですか?」
「んふ」
真っ白い髪の女性は満足そうな笑みを浮かべると、改めてギュッとルーリアを抱きしめた。
豊満な胸に顔をうずめられ、思わず耳まで赤くなる。エルシアにだって、こんなことをされたことはない。
「……ああ……長かった……。やっと。やっと、わたくしの望む主と出逢うことが叶いました」
「……の、望む主?」
ぷはっ、と胸から抜け出し尋ねる。
「ええ、姫様。わたくしが主に望むことは、ただ一つ。それは、美少女であることです!!」
──沈黙。
力いっぱいに叫んだフェルドラルに呆気に取られ、ルーリアとキイカはポカンと口を開けた。
………………え、…………え?
「わたくしが神に美少女を愛でたいと願い出てから、長い長い年月が過ぎました。……やっと。やっと、望む主に巡り逢うことが叶ったのです!」
フェルドラルはグッと拳を握り、耐え忍んだ日々に別れを告げた。
それを見ているルーリアは凍りついた。
もう、フェルドラルが危ない人にしか見えない。
「来れども来れども所有者となるのは大人ばかりで、わたくしの心も折れかけておりました。そんな時、姫様に出逢ったのです! これを奇跡の出逢いと呼ばずに何が奇跡だと言うのでしょう!?」
ルーリアに手を差し向け、フェルドラルは熱弁を奮う。が、ルーリアはエルシアから押しつけられただけだと考えていたから、視線が自然と冷やかになっていく。
「少女の『時』は儚くも美しいものです。その一瞬一瞬を、わたくしは余すことなく、この目に焼きつけたいのです!」
フェルドラルは熱い視線をルーリアの冷めた視線に絡めてくる。
魔術具の武器がこんなに厄介なものだったとは。ルーリアはついに考えることを諦めた。
「あのぅ、ルーリアさんは一瞬じゃなくて、ずうっと少女ですよ?」
余計なことに、キイカが果敢にもフェルドラルに話しかける。
すると、クワッ! と。フェルドラルは獲物を狙うように鋭い視線をルーリアに向けた。
「…………今、何て言いました、小娘?」
ひいぃッ! こ、怖いぃッ!!
キイカに質問をしているのに、フェルドラルの視線はルーリアに固定されたままだ。
「ルーリアさんは少女のままだって言ったんです。長い間、ずっと少女なんですよ」
お願い、キイカさん!
もうそれ以上、何も言わないで!!
青ざめたルーリアは心の中で叫んだ。
「ほぅ。それは、本当でございますか、姫様?」
「ひぃ……っ!」
ゆらりと首を傾けたフェルドラルに、ガシッと両肩を掴まれた。怖すぎる。
「ず、ずっと、ではないですよ。ちゃんと成長しています。ただ、他の人よりそれがちょっと遅いだけで……」
そう言いかけたところで、フェルドラルはその場にひれ伏した。
「まさに奇跡! 我が主にこれほど相応しい方は他におりません!」
い、いやあぁぁぁ!! 止めてぇぇ!!
ルーリアは顔色を失い、立ち竦んだ。
フェルドラルが狂信的すぎる。というか、すでに廃信者っぽい。そんなルーリアの肩にキイカが真面目な顔で手を乗せた。
「大丈夫。二人がどんな関係でも私は気にしないから。愛の形は一つじゃないもの。それより先を急ぎましょ」
えッ!? まさか、これを見ないふり!?
急がなきゃいけないのは分かるけど、放っておいていいの、これ?
なぜか妙に意味が深そうなキイカの言葉にルーリアは愕然とした。キイカが言った、愛の形がどうだとか。よく意味は分からないけど、何かを激しく誤解されている気がする。
その後、ルーリアを見るキイカの目が優しいものに変わったのだが、それが困難な恋に立ち向かう同志を見る目であることに、ルーリアが気付くことはなかった。