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閑話1・母の手記―後


 それから、しばらく経ったある日。

 エルシアは神殿内で妙な音を聞いた。

 本殿から外れた木々の奥で膝を抱え、ぼんやりとしていた時だ。


 ガリガリ……ガリガリ……


 ……何の、音でしょう?


 硬い物を引っ掻いているような音がする。

 音のする方へ行ってみると、そこには白い毛に黒いしま模様の動物がいた。


 神殿内にも草木が生い茂っている場所はあるから、ウサギやリスといった小動物なら、わずかに棲みついている。だが白黒のそれは、エルシアが初めて目にする動物だった。

 先ほどの音は、この動物が神殿の外壁を引っ掻いて出した音のようだ。


「……ダメですよ。神殿を引っ掻いては」


 そう言って抱き上げ、膝の上に乗せる。

 白黒の毛はとても柔らかく温かい。


 その動物は金色の瞳でエルシアをじっと見つめ、敵ではないと安心したのか、そのまま丸くなって寝てしまった。

 人に慣れているというよりは生まれて日が浅いのか、何も分かっていないような反応だ。


 ……眠ってしまいました。なんていう名前の動物なのでしょう?


 そっと撫でると、その動物はゴロゴロ……と、変わった鳴き声を出した。


 ふわふわですね。


 柔らかい毛を撫でていると、その動物はしましまのしっぽをパタパタと動かす。何となく気持ち良さそうに見えた。


 ふふっ、可愛い。


 気付けば、エルシアは自然と微笑んでいた。

 笑うことなんて、もう二度とないと思っていたのに。


 自分の口元が緩んだことに、エルシア自身が驚く。そして、それに気付いた頬を、ひと筋の涙が伝った。


「…………っ……」


 エルシアは自分の膝に顔をうずめ、声を押し殺して泣いた。



『ウゥ~……』


 しばらくして、エルシアの足と身体の間に挟まれ、身動きが取れなくなっていた白黒の動物から抗議の声が上がる。


「……あ、ごめんなさい。もう少しだけここにいてください」


 泣きながらエルシアが抱きしめると、その動物は一瞬キョトンとした顔をした。

 それから涙の痕を拭うように、エルシアの顔をペロペロと舐め始める。


「……慰めてくれているのですか?」


 不思議と言葉が分かるのか、その動物は逃げたり暴れたりせず、そのまま膝の上で大人しくしていた。


「…………温かい……」


 柔らかな毛並みと温もりを確かめるように、エルシアは白黒の動物を何度も撫でた。



 ◇◇◇◇



 それからのエルシアは忙しい合間を縫い、白黒の動物の所へ通うようになっていった。


 資料室で調べたところ、この動物は『猫』というらしい。猫は気まぐれな性格で、家に棲みついて家族になったり、ふいっと急にいなくなったりする、とあった。かなり自由な生き方をする動物のようだ。


 自分とは正反対。そんな自由な猫に、エルシアは次第に心を開いていった。


「猫は、ずっと一人でここにいるのですか? 寂しくはないですか?」


 独り言になると分かっていながら聞いてみる。

 猫は膝の上で丸くなり、何も答えてはくれなかった。


「…………猫が、私の家族だったらいいのに」


 そう言って背中を撫でると、猫はゴロゴロとノドを鳴らし、返事の代わりにパタパタとしっぽを振った。


 ……やっぱり可愛い。


 猫の前でだけ、本当の自分でいられる。

 それが自分を失くして神殿で生きるエルシアの、ささやかな幸せとなっていた。



 しかし、そんな平穏な日々も長くは続かなかった。

 いつものように猫に会いに行くと、そこにあった木々が残らず伐採され、土だけの何もない状態にされていたのだ。


 ……そんな、ひどい! いったい誰がこんなことを。


 そんな状態の場所に動物の姿などあるはずもなく。その後、神殿中を探し回っても、エルシアが猫に会うことは二度となかった。


 後に、これがベリストテジアの指示によるものだったとエルシアは知る。

 神殿で唯一の心の拠り所を失くしたエルシアは、また心を閉ざすことになった。



 ◇◇◇◇



 それから月日が流れた、ある日。


 表情を失い、惰性だけで生きていたエルシアは神殿内である少年とすれ違う。

 黒い髪に白い色が混ざった金色の瞳の少年は、どことなくあの時の猫を思い出させる。


 なぜか、一瞬で目が奪われた。

 とっくに諦めたと思っていたのに、心のどこかでは、まだ猫を探していたのだろうか。


 ……人族の子供でしょうか?


 神殿は子供が一人で来るような場所ではない。

 きっと親の裁判にでも付いて来たのだろう。


 そう思っていたけれど、その少年とはその後も神殿内で度々すれ違うことがあった。

 そんなに長引いている裁判があるとは聞いていない。


 どうしても気になったエルシアは、近くにいた騎士団長に尋ねた。あの少年は何者なのか、と。

 すると、少年には身寄りがなく、自分が引き取ったのだと返ってきた。今は騎士見習いとして育てている最中らしい。

 少年の名前はガインだと騎士団長は言った。


 ……ガイン。


 厳しい騎士団長に鍛えられ、日が経つにつれ少年から青年へと成長し、やがて騎士となって跡を継いだガインは騎士団の団長となっていた。


 初めは人族かと思っていたが、成長の早さから考えるとそうではないようだ。

 エルシアはいつの間にか、自然とガインを目で追うようになっていた。


 この気持ちを何と呼べばいいのか。

 それは、エルシアにも分からなかった。


 出来ることなら、ガインと直接話をしてみたい。そうエルシアが思い始めるのに、時間はそうかからなかった。


 しかし、思いを募らせながらも、何も出来ないまま日は過ぎる。

 相手は騎士で、自分は神官だ。

 神殿内で顔を合わせることはあっても、話をする切っかけすらなかった。



 そんなある日、同僚の神官から「たまにはお酒にでも誘ってください」と声をかけられ、『これだ!』と、エルシアは(ひらめ)く。


 さっそく通路ですれ違う時に、ガインを酒に誘ってみる。表面は神官らしい顔のままだが、内心は緊張でドキドキだ。


「ガイン。良かったら今度、一緒にお酒を飲みませんか?」

「……は!?」



 ────ダメだった。


 思い切って声をかけてみたのに、思いっきり警戒されてしまった。


 ……何がいけなかったのでしょう?


 もしかするとガインは酒が苦手なのかも知れない。もっとちゃんと調べてから声をかければ良かった。


 エルシアはまた、悩む日々に戻った。



 そうしている内に、ついにこの日が来てしまった。

 ベリストテジアに呼び出され、避けてきた婚姻話について一方的に宣言されてしまったのだ。


「エルシア。次の会合ですが、正式に貴女とゴズドゥールの婚姻を発表しようと思います。貴女もそのつもりでいるように」

「!!」


 もう迷っている時間はなかった。

 他には頼るものも縋るものもない。

 エルシアは自分の屋敷に戻ると、すぐにガインを呼び出した。



 そして。


「ガインは好きな人はいるのですか?」

「…………は?」

「好きな人はいるのか、と聞いているのです」


 焦りばかりが空回る。

 言葉を繕う余裕も、手段を選んでいる暇もない。


 ──こうなったら少し強引ですが。


 エルシアは迷うことなく、自分の持つスキル『神の眼』を使った。

 ガインの心と記憶を、その全てを覗く。

 自分のためにこのスキルを使うのは、これが初めてだった。


 「……く……っ」


 ガインの心の中は、自分のことよりも人のために何かをしようという、そんな思いでいっぱいだった。自分に出来ることを精一杯考え、努力して、いつも一生懸命で。例え自分が傷ついても、決して諦めなくて。


 けれど残念ながら、その中にエルシアは入っていなかった。むしろ今回の呼び出しで、エルシアに殺されるかも知れないと思われている。


 泣きたいくらいショックだった。


 だけどそんな中、恐らく本人も忘れているような記憶の片隅に、小さな小さな断片となった自分の姿をエルシアは見つけた。


『猫は、ずっと一人でここにいるのですか? 寂しくはないですか?』

『…………猫が、私の家族だったらいいのに』


 記憶の中の自分が、そう話しかけてくる。

 幼いガインは、寂しいのはエルシアの方だと気付いていた。


 そして、『だから、ここにいる』と。

 小さくノドを鳴らしながら、そう自分に言ってくれていた。



「ガインは猫だったのですね。私、猫が大好きなのですよ」


 スキルを解き、ガインに向き直ったエルシアは、猫と別れてから初めて自然に微笑むことが出来た。



 ◇◇◇◇



 あれからエルシアは、ガインとルーリアという掛け替えのない家族を手に入れた。


 自分で望み、手にしたのだ。

 自分で選んだ、自分だけの道で。



 エルシアは母の手記をめくる。

 最初の方は綺麗な文字が並んでいるが、最後の方は読むのも難しいほどに乱れていた。


 一番最後のページをめくる。


 そこには祈るようにたったひと言だけ、文字が記されていた。



 ──『私の分も幸せに』



 …………お母様。


 私は欲張りです。

 今はまだ幸せとは言えません。ですが、必ず家族全員で幸せになってみせます。

 どうか、見守っていてください。



 エルシアは別れを惜しむように文字を撫で、母の手記をそっと引き出しにしまった。


 きっと幸せになると、心に誓って。



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