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閑話1・母の手記―前

第33話で、エルシアとオズヴァルトが神殿に行った時の話です。


 神殿に着いたその日、応接室での会談を終えたエルシアたちは、それぞれの部屋に戻るため席を立った。


「エルシアさん、それではまた明日」

「はい。……あの、勇者様。部屋の中であっても警戒を緩めないよう、お気をつけください」

「オレは大丈夫ですよ。エルシアさんこそ、出来るだけ部屋から出ないように。夜も気をつけてください」


 部屋までエルシアを送り届けたオズヴァルトは、颯爽と(きびす)を返した。



 扉を閉め、エルシアは少し躊躇う視線を部屋の中へと向ける。


 ……また、この部屋に戻ってくる日が来るなんて。


 執務机も、書棚も、窓から見える景色も。

 部屋の中は神殿を飛び出した当時のまま、時が経つのを忘れてしまったかのように何一つ変わっていない。

 地上界で家族と過ごした時間が、つい先ほどまで見ていた幸せな夢だったのだと、そんな錯覚を起こしてしまいそうになる。

 この場所に、またこうして立っていることに、様々な思いが押し寄せる。


 ここはかつて、エルシアの母の部屋でもあった。



 壁に向かって進み、本棚と調度品の置いてある隙間の、ある一点をエルシアは見つめる。


 手を伸ばし、そっと壁に触れた。


 すると淡い光が走り、レンガ一つ分ほどの四角い線が描かれ、取っ手の付いた小さな引き出しが現れる。この引き出しが現れるのは、エルシアが触れた時だけだ。

 取っ手を引き、エルシアは中からある物を取り出した。


 エルシアの、母の手記。

 これを見つけたのは本当に偶然だった。



 ◇◇◇◇



 それはエルシアが神官となり、少し経った頃のこと。

 その頃のエルシアは一族の代表として完璧であろうと、常に自分に厳しくあった。


 誰からも認められるようにと人一倍努力を重ね、自分を捨てて必死に学ぶ。

 神官としての職務にも、ミンシェッド家に伝わる事柄の継承にも、真剣に励んでいた。


 エルフの、ミンシェッドの者としての血筋に、強い誇りを持って。


 そんな折、エルシアに神殿内で使う部屋が与えられることとなる。それがこの、かつては自分の母も使っていたという広い部屋であった。


 母については、自分を産んだ直後に亡くなった、としか聞かされていない。特に遺品などもなく、何をしていたとも聞いたことがなかった。

 エルシアを産んだ存在として、ただ名前だけが残されている、そんな母だ。

 その母が、かつて使っていたという部屋を与えられ、エルシアは感慨深くなった。


 本棚にはミンシェッドの歴史や魔術に関する書物がズラリと並べられ、以前は次期神官長となる者が使用するとされていた部屋だった、と人伝に聞く。


 ……ここでお母様も頑張っていたのでしょうか。


 記憶にはない母に想いを馳せ、その母に誇れる生き方をしようとエルシアは密かに心に誓っていた。



 ──しかし、その誓いは呆気なく粉々に打ち砕かれることとなる。


 エルシアは誇りも希望も何もかも失い、何も信じられなくなってしまったのだ。


 その原因が、この『母の手記』にあった。




 母の手記を見つけたのは、その日の職務を終え、部屋に戻ったエルシアが、いつものように机で勉強をしていた時のことだった。


 調べ物をしようと棚にある本を取ろうとして壁に手をついた、その時。突然、引き出しのような物が現れたのだ。


 ……どうしてこんな所にこんな物が?


 不思議に思いながら引き出しを開けると、中には一冊の手記が入っていた。


 手に取り、その中に目を通す。

 書きつづられていたのは綺麗な文字だ。

 エルシアには、それが母のものであるとすぐに分かった。この部屋にある書物の中には、わずかにだが母の手で記された文字がある。エルシアはその筆跡を覚えていたのだ。


 こんな場所にこっそりと隠されていたくらいだから、個人的な日記かも知れない。

 もしかしたら母のことが少しは分かるかも、と期待に胸を膨らませたエルシアだったが、その中身を読み進める内に、その顔からは表情が失われていった。


 手記の中には、何度も繰り返し出てきた言葉がある。


『助けて』『逃げられない』『死にたい』


 魂の叫びのようにつづられたその言葉は、そのままエルシアの心に突き立てられた。


 母がミンシェッド家に生まれてきたことを何よりも呪い、強く恨んで亡くなったことを知る。

 手記の中で母はミンシェッド家の後継者として、今のエルシアと同じ立場にあった。


 直系の血統でも保有する者が少ないスキル『神の眼』と、有り余る魔力を持っていた母。

 それを持っていたために、次期神官長として一族の代表に選ばれていたとある。

 姉のベリストテジアではなく、妹である母の方が一族の長として相応しいと血族の総意で決まったそうだ。


 だが、それが母の悲劇の始まりとなった。

 そのことでベリストテジアに恨まれるようになったのだ。

 元々は仲の悪い姉妹ではなかったが、母が後継者に選ばれたことで周囲の態度が目に見えて変化し、それに劣等感を抱いたベリストテジアが変わってしまったらしい。


 最初は気のせいかと思っていたようなことが、だんだんと露骨に目につくようになり、さらに狂気じみたものへと変わっていき、最終的には母を死へ追い込むほどベリストテジアは歪んでいった。


 ……あの伯母様が? まさか……。


 この時のエルシアは、手記の内容をすぐに信じることが出来なかった。なぜならその日も、ベリストテジアは共に職務をこなし、神官長として自分を熱心に指導してくれていたからだ。


 周りからの信頼も厚く、神官長としての役目を立派に務め、亡き母に代わってエルシアを可愛がってくれている伯母だ。

 だから、そんな伯母が自分を死に追いやったのだと母の文字で訴えられても、すぐに信じることは出来なかった。


 しかし、母が死を選んだ理由を知り、エルシアは愕然とする。その理由。それは、自分の出生にあったのだ。


 ……私のせいで、お母様は──……。


 そこでエルシアは初めて、ミンシェッド家の深い闇に触れることになる。


 手記には、こうあった。


『より濃い血筋を残すため、古より伝わる神聖な儀式を復活させようという声が姉から上がった』

『魔力を封じられた私に為す術はない。枷に繋がれ、毎晩父の元へ連れて行かれる』

『父には、私が亡き母にしか見えていない。亡き母の名を呼ぶ父に理性の光はない』

『子が産まれたら解放すると、獣たちが(わら)う』

『もう精神が持たない、逃げられない。子が産まれたら、やっと死ねる』


 全ては父親から認められたかったベリストテジアが歪んだ愛情の末に仕組んだことだと手記にはあった。


 ベリストテジアの甘言を受け、母が逃げ出さないように魔力を封じ、子を産ませるための道具として扱った本家の者たちもいる。


 娘である伯母により、心まで操られた祖父。

 その祖父は、元は母を次期神官長に推していたという。


 エルシアは今まで、自分の父親については何も知らされていなかった。疑問に思ったことはあるが、周りの雰囲気から許されない相手を選んでしまったのかも知れないと口を噤んでいたのだ。

 血筋を重んじる一族の中で、そのことを知るのが怖かったのもあった。


 だが、手記により母の死因と父を知った。

 だから母は、自分を産んですぐに亡くなったのだと。


 母の手記が語る、残酷で醜く穢らわしい真実。

 そんな知りたくもなかった事実に押し潰され、エルシアは全てを失った。


 誇りも、希望も、自分自身でさえも。

 手記の全てを読み終わったエルシアには、果てしない絶望と激しい嫌悪感だけが残されていた。




 ある日、エルシアは一族の会合で祖父に会う。

 若々しく美しい容姿の、自分と同じ髪と目色のエルフの長。

 ただし、その瞳には理性の光はなかった。


 エルシアを見て、祖父は祖母の名を口にする。

 愛おしそうに手を伸ばし、触れようとする。


 その瞬間、エルシアは背筋が凍りつくような、おぞましい寒気に襲われた。とっさに身を引き、後ろに逃れる。

 そんなエルシアに、ベリストテジアは冷たく目を細め、周囲にこう漏らした。


 いずれは自分の息子がエルシアの婚姻相手になるのだと。


 ベリストテジアに夫と呼ぶ者はいない。

 その紅紫の瞳の奥に暗く深い闇を見たエルシアは、このままではさらなる絶望が待っているのだと嫌でも知ることとなったのだった。



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