第37話・先のない選択肢
──チリリン
店のテーブルで眠りかけていたルーリアをベッドに運び終わった時、一階から玄関のベルが鳴る音と扉の開く音が聞こえてきた。
──エルシアか!?
急いで下りて行くと、そこには疲れ果てた顔のエルシアとオズヴァルトの姿があった。
ケガなどはないようだが、何と言うか……とにかく、くたびれ感が強い。
いろいろ聞きたいことはあるが、エルシアの無事な姿にひとまず胸を撫で下ろした。
「二人とも無事で良かった。ひどく疲れているようだが、神殿で何かあったのか?」
回復用の魔虫の蜂蜜を渡して話を聞くと、一週間ほどで用件を済ませて神殿を出たが、追手を差し向けられ、振り切るのにさらに一週間ほどかかったということだった。神殿の者が何かに操られているように、何度も襲いかかってきたらしい。
追跡を完全に振り切るまで、ずっと気を張り詰めていたため、二人ともろくに眠っていないという。にじみ出ている疲れは、そのせいだった。
エルシアを送り届けて礼を述べると、オズヴァルトはすぐに自分の家族の元へ帰って行った。
その厳しい顔から察するに、神殿での話が良い結果に終わったとは思えなかった。
……ルーリアが寝た後で良かったかも知れないな。
ガインは率直にそう思った。
帰ってきた時のエルシアが、ルーリアには見せられない顔になっていたからだ。
それは、ガインも久しぶりに見る顔だった。
無表情で冷たく、何も映さない瞳。
エルシアは神官だった時の、感情の抜け落ちた顔になってしまっていた。
言葉にすればたったの二週間だが、エルシアにはとても長い時間に感じられたのだろう。
ここ数日、見ていて分かったのだが、ルーリアは敏感な子だ。勘は鋭いし、周りもよく見ている。人の、特に隠そうとしている感情にも、よく気がつく。
そんなルーリアが今のエルシアを目にしたら、どう思うだろうか。まっすぐな子だから、母親にそんな顔をさせたとして、一緒にいた勇者を敵視してしまう可能性もある。
「……エルシア、お帰り」
そっと触れるように頬に手を伸ばす。
触れた一瞬だけ、ビクッと身体が強ばったように感じられたが、ガインは構わずエルシアの背中に腕を回して引き寄せた。
……あぁ。エルシアの匂いだ。
仕方のないことだが、かすかにオズヴァルトの匂いもした気がして、ガインはエルシアの髪に顔をうずめた。他の男の匂いがするのは落ち着かない。それを消すように、ガインはエルシアの首筋に自分をすり寄せる。
エルシアの身体から力が抜け、その重みを自分に預けてきたのを抱えて椅子に座った。
ガインの膝上でエルシアが横向きになる。
「…………ガイン……」
安心する温もりに包まれ、エルシアの表情にも感情が混ざり始める。けれど、何かを思い詰めているような浮かない表情だ。
ガインはエルシアの蒼い瞳を見つめ、穏やかに声をかけた。
「今日はひとまず休んだらどうだ? ずっとまともに眠っていなかったんだろう?」
エルシアは長いまつ毛を伏せ、その瞳に迷いの色を濃くにじませる。
「…………私は、間違っているのでしょうか?」
こぼれ出た、自分を否定するような言葉。
そのひと言で、ガインは洗脳か思考の誘導を疑った。
魔法でも、魔術具でも、言葉でも。方法はいくらでもあるが、精神攻撃でよく使われる手法だ。
人がそうしたいと思っていることを否定し、それよりも正論に聞こえる言葉を耳触り良く叩きつけ、そして自分は間違っていると思い込ませる蠱惑的な口撃だ。
危惧してはいたが、やはりミンシェッドのヤツらに何かされていたか。こういう時の対処法は──。
「……ガイン。私は……んっ」
自分に自分で暗示を掛けてしまう前に、口を封じてしまえばいい。ただしエルシアに限るが。
軽く抵抗を見せたエルシアの手首を掴み、ガインは離さなかった。身体を強く寄せて自由を奪う。悩んで感情が沈んでしまうのなら、悩ませなければいい。
エルシアが落ち着き、完全に身体から力が抜けるまで待ってから、ガインは重ねていた顔を離した。そして改めて声をかける。
「……エルシア、ただいまは?」
解放された唇で息を吸うと、エルシアの頬は思い出したように色を帯びていった。
耳まで赤く染まり、ここで暮らし始めた頃のような表情となる。照れているのを必死に隠そうとしている感じの、ガインの好きな顔だ。
「…………た、ただいま、戻りました」
「お帰り、エルシア」
ガインはそのままエルシアの背中に腕を回し、髪を撫でながら話を聞いた。
腕の中にある大切な存在を確かめるように、慈しむ手はなめらかに髪を梳く。
暗い顔で口にする話の中には、神殿で日に日に罪の意識に囚われていくエルシアの姿があった。
「……私は……何も言えなかったのです」
遠くを見つめ、エルシアは力なく呟く。
「話を聞いてもらえそうな相手だったのか? 最初から聞く耳なんて持ってないような相手だったんじゃないか?」
ストレートなガインの問いかけに言葉を詰まらせ、エルシアは蒼い瞳を伏せた。
「エルシアがどうあるべきか、一方的に言われたんだろ?」
「……はい」
「それはエルシアの望む形だったのか?」
「……いいえ」
「そこにエルシアの大切にしたいものは存在したのか?」
「…………いいえ」
やはりか。
ガインはまっすぐにエルシアを見つめた。
「ならそこは、エルシアのいるべき場所じゃない。その話をしたヤツが望む場所だ」
「……伯母様の、望む場所……?」
不可解そうな顔を上げ、エルシアはガインを見つめ返す。
「そうだ。自分でやろうとせずに、エルシアに押しつけようとした、そいつの望む、そいつの場所だ。エルシアの目指す場所じゃない」
「……!」
きっぱり言い切るガインの言葉に、エルシアは小さく息を呑んだ。悪い夢から覚めたように、瞳を瞬いている。
「もし今度そいつに会うことがあったら言ってやればいい」
「……なんて?」
「そんなこと、お前がやれ! ってな」
ふんっと鼻を鳴らすガインに、エルシアは思い詰めていた表情を捨てた。そして、ふふっと声に出して笑う。
ガインの背に手を回し、エルシアは厚い胸に顔をうずめた。自分だけの陽だまりにいるような温もりと匂いに、冷えていた心がほぐされ、満たされていく。
そんなエルシアを包み込むように、ガインもしっかりと抱きしめた。
「……私は、やはりガインの傍にいたいです」
「……俺もだ。いないと落ち着かん」
それからエルシアは、思い出したように神殿から持ち帰った物に手を伸ばした。
「言われてばかりでちょっと悔しかったので、家宝の弓をこっそり持ってきました。あと、本やアイテムも何個か」
「…………家宝、だと?」
ガインは嫌な予感がした。
「フェルドラル、という魔術具の武器です。聞いた話では、ご先祖が神様から賜った物らしいですよ。風の女神様の眷属なのだとか」
エルシアは見るからに伝説級の豪奢な弓をガインに見せた。
「…………エルシア、お前。またそんなとんでもない物を……」
「どうせ大層に飾ってあるだけだったのですから、大丈夫です。元あった場所には、代わりにハンガーを置いてきました。……これもタオルをかけるくらいには役に立つのではないでしょうか?」
一族の家宝になんて言い草だ。
「…………頼むから、家の中では使うなよ」
その後、エルシアはこの家宝の弓をガインの部屋の片隅に雑に放置した。
「先に身体を休めた方がいいんじゃないのか?」
心配するガインの声に首を振り、エルシアは神殿で分かった邪竜の呪いに関する話をした。
「……では、邪竜の呪いは治らない……いや、治せないんだな?」
「はい。治療法は……ありません」
ガインの脳裏にギーゼとシャズールの姿が浮かんだ。
──助けられない。
想定していた中で最悪の答えが出た。
女神が告げた言葉だ。これは覆せない。
「ただ、勇者様がご自分の子を助ける分には、ある可能性が示されました」
苦い顔でエルシアは言葉を続ける。
「何か方法があるのか?」
「……方法とは、とても呼べないものです」
視線を落とし、言葉を濁す。
その表情からガインは暗いものを感じ取った。
「それは何だ?」
「……勇者が持つ特殊能力、状態異常の自浄能力で呪いの効果を打ち消すことです」
「あの能力の効果があるのは勇者である本人だけだろう? 勇者でもない息子には使えないんじゃないのか?」
それが出来るなら、オズヴァルトはとっくに仲間を助けているはずだ。
「はい。今は、勇者ではないので使えません。ですが、勇者に子がいた場合、その子が次の勇者となる仕組みなのです。もし子がいなければ、その時は神様によって新しい勇者が選ばれるのですが……。そして同じ時の中では、勇者は一人しか存在できません。ですから──」
「まさか! では、オズヴァルトは……!?」
それであの表情だったのか!
「あと、もう一つ」
「まだ何かあるのか?」
「……女神様は、魔に染めても良い、と」
絞るように声が落とされる。
「魔とは、魔族か? まさか、勇者の息子を魔族にしろとでも?」
「……恐らくは。それも、選ぶのは勇者だと」
「──……っ」
ガインは言葉が出てこなかった。
確かに、これは方法とは呼べない。
選択肢があるようで、ない。
しかし、それでもオズヴァルトは選ぶのだろう。息子を助けたいと、そう強く願っていたのだから。
もし自分たちが同じ選択を迫られたとしたら、きっと迷うことなく同じ答えを選ぶはずだ。
自分の生命に代えても子を守りたいと願う。
そう思わずにはいられない。
それが、親というものだ。
「…………エルシア」
互いに親の顔となった二人は、やり切れない視線を交わす。
「もしオズヴァルトが子供のことで何か協力を求めてきたら、俺は手助けをしたいと思っている」
「私もです」
もしかしたらエルシアは、すでにオズヴァルトの出した答えを聞いているのかも知れない。
同じ子を持つ親として、可能な限りオズヴァルトに手を貸してやりたい。そう、ガインは思った。
「それと、ギーゼとシャズールもだ」
ガインはエルシアがいない間に考えていた、ギーゼたちに対する今後の話を伝えた。
「……では、二人には呪いのことを話すのですね」
「ああ。知らなければ、先のことを自分で選ぶことも出来ないからな」
後日、ガインたちは二人を家に呼び、邪竜の呪いの治療法がないことを伝えた。
話を聞くかどうか先に尋ねたが、二人は『知りたい』と、前に進むことを自分で決めた。