第35話・求めてもない答え
そうして日を過ごしている内に、水の女神ミューラに謁見する日が訪れた。
女神に会った後は、すぐに神殿を出る予定だ。
神官の職務以外で個人的に女神に会うのは初めてだったため、エルシアは少し緊張していた。
『オズヴァルト、エルシア、お入りなさい』
女神から声がかかる。
謁見の間は入り口の左右に騎士が立っているだけで、他には誰もいなかった。
その騎士からは人ではない気配を感じる。
「行きましょう」
「……はい」
入り口には何もないはずなのに、通る時に何かを突き抜けるような不思議な感覚があった。
例えるなら、薄い水膜に当たったような。
そして女神のいる部屋に一歩踏み込んだ瞬間。
その空間が、先ほどまでいた世界とは全く違う場所なのだと、現実の身体にはない感覚で気付かされた。頭の中に音が直接、響いてくる。
『こちらへ』
真っ白な石柱から流れ落ちる水壁に囲まれた空間に、一本だけビロードがかった海色の絨毯が敷かれている。そこをまっすぐに進み、エルシアたちは女神の前に並び出た。
まず目に映ったのは、透き通る水の衣をまとった、美しい少女のような女神の姿だった。
水晶の椅子に優雅に座り、水の女神ミューラが二人を迎える。
長い髪には深い水底の色を映し、瞳はどこまでも見透すように青く澄んで煌めいている。
『用件を伺いましょう』
凛とした声が響く。
裁判で見たミューラは常に冷静だった。
思慮深く、神経が細やかなことはエルシアもよく知っている。そして何より、女神たちの中で一番理性的で、正確な情報を持っているのがミューラだった。
だからエルシアは今回の謁見の相手にミューラを選んでいる。
「ミューラ様、今日はお尋ねしたいことがあって参りました」
謁見の間にオズヴァルトの声が反響する。
「邪竜について、ですが。黒いブレス攻撃を受けた時の……遺伝する黒い変色と石化に治療法はありますか?」
オズヴァルトはすぐに本題に入った。
求めるのは、その答えだけだ。
『治療法はありません』
ミューラの抑揚のない声が無慈悲に響く。
女神から告げられた言葉だ。
受け入れ難くとも覆ることはない。
「…………そう……ですか…………」
オズヴァルトは初めから覚悟を決めていたようだった。ミューラを見据え、その答えを静かに受け止めている。
『治療法はありませんが、息子を救う手立てを貴方はすでに知っているはずです、勇者』
女神の言葉に目を見張り、その真意に気付くと、オズヴァルトは視線を落として自分の手をじっと見つめた。
「……方法は……それだけ、ですか?」
力なく、オズヴァルトが問う。
『望むなら、魔に染めても良いでしょう。選ぶのは勇者である貴方です』
ミューラからの答えに、オズヴァルトは心身共に貫かれたような気をまとった。
完全に沈黙し、ただ立ち尽くす姿にエルシアはかける言葉を持たない。
…………勇者様……。
数拍置き、女神への質問は終わったという無言の顔を、オズヴァルトは思い出したようにエルシアに向けた。
それは、今にも消えそうな儚い笑みで。
人の、こんなにも切ない微笑みを、エルシアは見たことがなかった。まるで心の芯を氷で刺されたような、そんな冷たく虚しい気持ちが広がる。
仲間とその息子の治療法はなかった。
自分の息子にだけ、助かる可能性が示された。
それをこれから仲間に告げるとするのなら、その心中はどれほどのものか。
求めていた答えが、なかったのだ。
ミューラは澄んだ視線を押し黙ったままのエルシアに移した。
『エルシア。貴女はすでに神よりの恩恵を受け、今その場に立っています。さらに何を望むのですか?』
ミューラからの問いかけに、エルシアは戸惑いを浮かべた。
「神様の恩恵……ですか?」
ミューラの言葉は『これ以上、何を欲張るのか』と叱責しているように聞こえた。
『貴女は猫が好きなのでしょう?』
そう口にして、女神は目を細める。
……猫。まさか、ガインのこと?
『神は手ずからこぼされた雫に興味をお持ちです。仕組みとしての存在ではなく、神が自ら手を添えられたのです。良くも悪くも稀有な存在となるでしょう』
神が自分に与えてくれた恩恵が、ガインであると? では、自分が恩恵を受けているというのなら、ルーリアは?
「私は……娘を救えるでしょうか?」
『貴女には救えません』
私では……救えない。
『貴女もまた、その答えを知っているはずです、エルシア』
ミューラは感情を映さない瞳で、エルシアを見つめた。その透き通った瞳にエルフの姿が反映する。
救えない、私には。だとすれば、ルーリアを救えるのは……。それなら、私は──……。
「ミューラ様。私は……神殿での神官たちの横暴を許せないと思い、ここに参りました。それを戒めようと、そう思っていました」
エルシアは自分の心の中にある迷いを掴むように、胸の前で強く手を握った。
「ですが、今の私がそれを責める立場にないということを、この数日間で知りもしました。それでも、この神殿にある情報を必要とする者がいるのなら、神官は手を差し伸べるべきだと思うのです。……それもまた、私のわがままなのでしょうか?」
もしこれが、わがままだと言われるなら、神殿に戻る覚悟でエルシアは尋ねた。
自分の血族のせいで人の生命が左右されているのなら、それを止めなければいけない。
遠く離れた地から、無責任な口出しだけしていても意味はないのだ。
『望み、自ら動く者にこそ真実は寄り添います。容易く変えられるほど、人の道は脆くもないのです。貴女が心を痛める必要はありません』
放っておけ、とミューラは微笑んだ。
求めて動く者には与えられるから、と。
……やはり、女神様は今回のことを知って……。
エルシアが神殿に来たのは、勇者が動いたことで引き寄せられた結果のオマケに過ぎない。
性根の腐った血族ごときでは、人の運命は変えられないと知り、安堵の息が漏れる。
それを知ることが出来ただけでも、エルシアには十分だった。
「お導き、感謝いたします」
「ミューラ様、ありがとうございました」
尋ねた分の答えは与えられた。
望んだ結果は得られなかったが、目的を果たしたエルシアたちは謁見の間を後にする。
『貴方たちに良き水が流れますように』
邪竜の呪いも卵も、都合良く消えてなくなったりはしない。神殿で分かったのは、仕組みは覆らないということだ。
けれど女神は、こうも告げていた。
動く者に真実は寄り添う、と。
動けば、与えられる。
動かなければ、何も変わらない。
例えこの手でルーリアを救えなくても、真実を求めて動いていれば、いつか必ず……。
──私はそれを信じます。
「では、行きますか」
「はい」
エルシアたちは神殿の中を足早に通り抜け、門へ向かった。この界層では転移の魔術具を使用することは出来ないため、ひとまず地上界へ出ることを目指す。
その途中、前にベリストテジアから紹介を受けた、神官のエドキナとゼーレキオの二人がこちらに気付いて駆け寄ってきた。
「エルシア様。このような門の近くまで出てこられて、どうなされたのですか?」
「この辺りは下界の者もよく通ります。どうか本殿へお戻りください」
そう言う二人も、この場にいるのは不自然だった。
どちらも男性ではあるが、前に会った時とは違う低い声音になっている。さらに異様な雰囲気に包まれていて、エルシアは思わず身構えた。
まるで何者かに操られているようだ。
分家の者とは言え、神官にこのようなことが出来る者とは。
…………まさか、伯母様が……?
血走って見開かれた二人の目には、少なからず狂気を感じる。正気であるようには思えない。
二人は腕力もなさそうなのに、エルシアを掴もうと乱暴に手を伸ばしてきた。
「何だ、こいつらは!?」
オズヴァルトもその異状な動きに戸惑いを見せる。
「エルシアさん、こちらへ!」
「えっ」
「……ちょっとだけ我慢してください」
足の遅いエルシアをオズヴァルトが横抱きにかかえた。いわゆる、お姫様抱っこである。
「こ、これは……っ。いくら勇者様でも……!」
「オレには妻子がいるのでセーフです」
「セ、セーフ?」
「大丈夫、って意味です」
「……大丈夫」
その理屈はどうだろうと思いつつも、足でまといの自覚があるエルシアは大人しくしていた。
自分を抱きかかえていても勇者の足は速い。
それに追いついてくる二人に、エルシアは驚きの目を向けた。とても神官の動きとは思えない。
「エルシアさん、魔法は使えますか?」
「試してみます」
もし魔法の対策がされていたら厄介だけど。
と、反射された時のことを考えながら、呪文を口ずさむ。
『幻覚解除、小域睡眠』
ガクンと身体が大きく傾き、二人はその場に重なるように倒れた。睡眠の魔法が効いたようだ。
「今の内に急ぎましょう。しっかり掴まっててください」
「はい」
エルシアたちは後ろを振り返ることなく、神殿から地上界へと逃げ落ちた。
しかし、門を抜けた先にも別の追手が待ち構えており、エルシアたちはしつこく付きまとわれることになる。相手の手札が分からないから、下手に転移も出来ない。
早く家族の元に帰りたかったエルシアは、我慢しきれず街中で極大魔法を放とうとして、オズヴァルトに怒られた。
「そんなのを街中で放ったら、エルシアさんがお尋ね者になってしまいますよ。神殿と違って地上界の建物は壊れやすいんですから……勘弁してください」
「……ごめんなさい」
そして一週間後、どうにか追手を振り切ったエルシアたちはやっと家に帰ることが出来たのだった。
もう、こんな一族、本当に滅べばいい!
そうエルシアが改めて思ったのは言うまでもない。