第20話・見えない闇
……はぁっ……ハァッ……ッ………はッ……
光も届かない、薄暗い森の中。
短く息を切らし、血の気の引いた顔をしてルーリアは走っていた。
強い風に煽られ、木々の葉が激しい雨のような音を立てる。おぼつかない足取りで逃げ落ちようとするルーリアの足元を、黒い影があざ笑いながら追い抜いていく。
黒い雲を引きずった空の陰に足元はさらに暗くなり、まるで深い闇の中を行く当てもないまま走らされているような、そんな感覚だけが襲ってきた。
──早く! 早くここから離れないと!!
しかしルーリアはどこへ向かい、何から逃げればいいのか、何も分からなかった。
◆◆◆◆
その日は、11の月に入って少し経った頃だった。
あれからルーリアは毎日のようにアーシェンから料理を習い、世の中のことを少しずつ学んでいる。
もし外の世界に出る可能性がほんの少しでもあるのなら、人を疑うことは最低条件として必要だとアーシェンは言う。
疑うことに慣れていない今のルーリアは、他人から見れば騙し放題のカモだそうだ。
アーシェンは特にそのことを心配していた。
人を疑う。確かに苦手だった。
嘘を見抜く目が必要だということだろう。
ルーリアは幼い頃、エルシアからよく『嘘をつく人は赤い』と言われていた。
エルシアは大雑把な性格だが、意味のないことと嘘は言わない。だから恐らく、魔法か何かでそういったものがあるのだろう。
今度会った時にでも、それを教えてもらえれば、少しはアーシェンを安心させられるかも知れない。
それより、自分ではしっかりしているつもりなのに、そんなに危なっかしく見えているのだろうか?
慣れない森の中を歩きながら、ルーリアは「むぅ……」と唸った。
この辺りに来たのは、たぶん初めてだ。
今日、ガインは養蜂場のある森へ行っている。
ユヒムとアーシェンは外に出ていていない。
ルーリアは一人で冬の訪れが近い山際の森に来ていた。養蜂場のある森より北の、国境寄りの場所だ。
普段は来ない森の奥。変わった食材でもないかな、と軽い気持ちだった。
今までは森に来ていても、蜂の巣箱と家の間を往復していただけで、こうして歩くことはあまりなかった。ロモアの種を集めた時でも、ここまで奥には来ていなかったはずだ。
この先はどうなっているのだろう。
……少し、肌寒いかな。
ルーリアは服の上から腕をさすった。
ここから奥の方には、さらに高い山々がそびえ、その頂にはすでに白銀の世界が広がっている。
ここも間もなく真っ白な雪の季節となるだろう。そんな移り行く景色を眺めながら、ルーリアは森の奥へと足を向けた。
そして木々が生い茂る薄暗い森に入り、しばらく経った頃。不意に、背筋がゾクリとした。
!!……何!? 何か、いる……!?
なぜか、そう感じた。
目には見えない。音もない。
でも、何か、いる!
生き物かどうかは分からないが、こちらを冷たく睨み、じわじわと恐怖を植えつけてくるような、そんな重い気配をどこからともなく感じる。
辺りは薄暗く、神経を集中させればさせるほど、森のざわめきが大きくなっていくような気がした。
姿は見えない。けれど、激しい憎悪をはっきりと自分に向けている。ルーリアは生まれて初めて、全身で恐怖を感じた。
自分に向けられている明確な殺意だ。
身体は小刻みに震え、首筋には嫌な汗が伝った。
目には見えないのに、だんだん気配が近付いてくるのを肌で感じる。ルーリアは無意識の内に身を低くし、辺りを警戒して息を殺した。
……こんな気配って、魔物!?
今まで結界内で大きな魔物に遭遇したことはない。じりじりとした不安だけが募り、身動き一つ取れない。
背中からも汗の伝う感覚が流れてくる。
焦りだけが空回り、冷静になんてしていられなかった。
いったいどうしたら!?
動かない方がいいのか、離れるべきなのか、全然分からない!
不安と緊張で極限にまで精神が追い詰められた、その時。
それまでザワザワと聞こえていた木々の音が、『ドンッ』という低い、音というよりは空気を押し潰す重い衝撃のようなもので一瞬にして掻き消された。
それはまるで、何かの足音。
──無音──
森のざわめきも、鳥の鳴き声も、風の音も。
一切の音が消えた。聞こえるのは、うるさいくらいに早鐘を打つ自分の心音だけだ。ルーリアはその音を気取られないように、強く胸を押さえつけた。
押し潰されそうな重圧。
すぐ隣にいるような不気味な気配。
何かを考える余裕はなくなり、取り乱すままに息をして、行き場のない全身で周りを見渡した。
つぅ……と、細く冷たい指先でなぞられたように汗が身体を伝う。
と、その時。
ふと違和感を覚え、ルーリアはある一点で目を留めた。
その、音だけでなく、色までもが失せてしまったように感じる空間の真ん中。
そこに突然、3、4歳くらいの姿の自分が現れた。
「──!?」
身体は凍りついたように動かない。
ただただ速い心音だけが響いてくる。
目の前の光景から視線を逸らすことも許されず、自分が呼吸しているかも分からないような空間で、幼い自分を見つめることしか出来ない。
かつてあった時間をゆっくり再現しているかのように、その空間の中心にある見えない何かに、幼い自分が手を伸ばした。
──『それ』に手を出してはいけない!!
なぜかそう思った。
そして小さな手が何かに触れたように見えた、その瞬間。空間の中心から、真っ黒な『闇』としか言い表せないものが勢いよく溢れ出てきた。
どこまでも暗くて深い、黒の塊。
幼い姿の自分はあっという間に呑み込まれ、『闇』の中に消えてしまった。
そこから先は、はっきりと覚えていない。
気がつけば夜の闇のように暗い森の中を、行く当てもないまま我を忘れて走って逃げていた。
しかし、どんなに逃げても足元に広がるのは『闇』一色。
そしてその『闇』はどんどん広がり、全てのものを深淵に呑み込み、視界を暗く黒く埋め尽くしていった。
──逃げ、られな、い……!
その押し寄せた『闇』に、ルーリアは喰い千切られるように引き裂かれ、抗うことも出来ないまま、深く深く沈められていった。
◆◆◆◆
ハッ! と気付いた時には、森の音も、空気も、その周りの色も。全てが見慣れた元の景色に戻っていた。
何もなかったような顔をして、森の風はサワサワと木々の葉を揺らしている。
「────」
ルーリアは頭の中が真っ白になりながらも、何とか意識を保っていた。身体に残っているのは、自分が喰い千切られ、引き裂かれていった感覚だけだ。
逆らえない、絶望的なまでの無力感。
ルーリアは低い姿勢の膝から、その場に崩れ落ちた。
…………今の、は……何!?
両手を地面について目を見開き、視点をどこにも合わせられないまま、どっと汗が吹き出るのを感じる。
動けないでいる身体に汗が伝い、それでも本能は肺に空気を送るように息を荒くする。
呼吸を思い出した身体には一気に恐怖が呼び戻され、両腕を強く掴んで身を寄せても、震えを抑えることが出来なかった。
……い、嫌。怖い、痛い、消える、怖い!
自分が壊されていく感覚だけが、頭の中を支配していく。この場にいるのは危険だと全神経が警鐘を鳴らす。
……ここ、から……離れない、と。
力が入らない足を引きずり、ルーリアはその場を後にした。
どうやって自分がそこに辿り着いたのかは覚えていない。
「──ルーリア!?」
そう呼ばれガインの姿が目に映ると、ルーリアは意識を手放したように、その場に倒れ込んだ。
◇◆◇◆
目を覚ますと、自分の部屋の中だった。
ベッドに寝かされ、身体が冷えないように、足元までしっかりと温かい毛布に包まれている。
…………わたし……は……。
目の前には、眉間にシワを寄せて様子を窺うガインの姿があった。
……お父、さん……。
いつからそうしていたのかは分からないが、ガインはベッドの近くに椅子を寄せ、両手でルーリアの小さな手を握り、金色の瞳をまっすぐに向けていた。
とても温かい大きな手に包まれ、なぜか泣きたいほどに安心する自分がいる。
ルーリアが目を覚ますと心底ホッとした顔をして、ガインは肩の力を抜いた。
ルーリアの前髪を掻き分け、額に手を乗せて熱を確認する。それからガインは、その手でそっとルーリアの頬に触れた。
「……まだ顔色が悪いな。何があった?」
尋ねるその目は真剣だった。
ルーリアはすぐに答えようとしたが、ノドの奥を絞めつけられたように声が出せない。
だんだん意識がはっきりしてくると、あの引き裂かれた光景と感覚が頭を埋め尽くし、身体が勝手に震え出した。
腕を強く掴んでも、心の奥底から這い上がってくる恐怖が止められない、怖い……!
それを見て取ったガインはルーリアを抱き起こし、大切なものを抱えるように優しく抱きしめた。
腕の中でしっかりと支え、落ち着かせるように髪を撫でる。
「安心しろ、ここは安全だ。俺が付いている」
その声を聞き、「……ぅ、さん」と小さく声を漏らした時には、ぽろぽろと涙が溢れていた。
ガインにしがみ付き、強ばった身体から力が抜けるまで、ルーリアはずっと泣き続けた。
やがて泣き疲れたルーリアは、そのまま力尽きたように眠りに落ちる。ガインはルーリアをそっとベッドに寝かせると、包むように毛布を掛け直した。
涙の痕を手で拭い、ルーリアを見つめて険しい顔付きとなる。
こんなことは初めてだった。
見たところ外傷はなさそうだが、ルーリアは何かに攻撃を受けたのだろうか? 魔物ではないはずだ。その何かとは何だ?
──まさか……!
ガインには一つだけ、思い当たるものがあった。