第15話・微妙な関係
かつてこれほど身の置き場のない顔をしている父親をルーリアは見たことがなかった。
アーシェンから怒られているガインは、「う……っ」とか「ぐ……」とか、目には見えないダメージを負っているようだ。
どうやら正論という口撃が弱点らしい。
どうして長い間、ルーリアの食事を気にかけてあげなかったのか。アーシェンの追及はその一点に絞られた。
「……えっと、わたしたちは向こうに行きますか」
「……そ、そうだね」
ルーリアはユヒムと隣のテーブルに移り、のんびりとお茶を楽しむことにした。
自分の代わりに熱弁を奮ってくれているのだから、とノドを潤すためにもアーシェンのカップにお茶のおかわりを淹れるのは忘れない。
お茶を注ぐ間、ガインが何か言いたそうにこっちを見てきたが、ルーリアは無視した。
自分は料理を知っていたのに、今までずっと隠していたなんてひど過ぎる。こってり絞られるといいと思う。
悔しさからの、八つ当たり。
ガインは隠していた訳ではないのだが、ルーリアはちょっと意地悪になっていた。
アーシェンから言葉を叩きつけられ、顔色を悪くしているガインを横目で見つつ、ユヒムも何とも言えない顔を引きつらせている。
しかし、助けに入っていかないところを見ると、ユヒムでもアーシェンを止めるのは難しいのだろう。
そもそも、どうしてガインはルーリアに料理を教えようとしなかったのか。
それは、ルーリアがまだ幼かった頃に起こった、ある出来事が関係していた。
傷ついて血を流したり、息絶えた動物を見ただけでルーリアが取り乱すようになった原因でもある。
元々ルーリアは動物を狩って食べる、という行為が苦手だった。思い出す限り、ルーリアには『肉を食べた』という記憶はない。
だから獣人のガインは自分の食事のための狩りに、ルーリアのいない時間を狙って森へ出かけていた。
しかし、ある日。
ルーリアはガインの狩りをする姿を見てしまう。
雨が降りそうだから、とガインが狩りの時間を早めた時、不運にもたまたま、その場に居合わせてしまったのだ。
ルーリアは目の前に飛び散る血飛沫から目を逸らせず、その場に座り込み、心だけを手放してしまっていた。鮮やかな赤を目に焼きつけ、濃い血の匂いを全身に浴びて。
その日、ガインが獲物にしたのはルーリアの知り合いだった。花の種を集めていると、いつも付いて来ていた鹿だ。飼っていた訳ではなく、森に行くといつも側にいた、人によく懐いた鹿だった。
ルーリアはショックのあまり、しばらくの間、表情と言葉を失くしてしまうことになる。
そして心に深い傷を負ったルーリアは、ガインの姿を見ただけで怯えるようになってしまっていた。
幼い娘が自分を見てペタリと耳を下げ、怯えた顔で震えて涙の粒を落とす。
ルーリアの誕生を誰よりも喜び、生まれる前から溺愛していたガインがそれに耐えられるはずもなかった。ガインは見事に心をへし折られ、ついには自分から遠ざかるようになってしまったのだ。
これは、ルーリアが7、8歳……実年齢で言えば20歳を過ぎた頃の話となる。
そしてそれ以降、血を流す動物を見ることが出来なくなってしまったのがルーリアの現状なのだ。
見れば、あの時の恐怖が甦ってしまう。
生肉を直視するなんて論外だ。
冒険者や行商人がよく持っている干し肉でさえ、まともに見ることが出来なくなっていた。……重症と言えるだろう。
それから時間はかかったが、今ではガインと普通に会話をすることが出来るようになっている。ただ、まだ少しだけ、よそよそしさは残っているが。
ガインは一緒に食事を取ることを未だに避けており、ルーリアも肉類を見ることが出来ないままでいた。
だから料理に関しては、ガインだけを責めることは出来ないとルーリアは考えている。
きっとガインはエルシアから習っているものだと思っていたのだろうから。どうしてエルシアが教えてくれなかったのかは、ルーリアにも分からないが。
ともかく、こんな理由で料理のことを知ることもなく、ルーリアは今日まで来てしまっていた。
「だいたいエルシア様が料理を──」
アーシェンの苦言はまだまだ続くようだ。
……さて。
あっちのテーブルはアーシェンに任せ、ルーリアはユヒムに向けた金色の瞳を好奇心で煌めかせた。
こうして二人だけで座ったのは初めてかも知れない。せっかくだから気になっていたことを尋ねてみようと思う。
「ユヒムさん、ユヒムさん」
「ん? 何だい?」
名前を呼ばれたユヒムはいつもの穏やかな笑顔だ。澄ました顔で紅茶を口に運んでいる。
「ユヒムさんとアーシェンさんって、恋人同士ではないのですか?」
「──ッッ!?」
飲みかけていた紅茶を勢いよく吹き出し、ユヒムはむせた。どうやら聞くタイミングが悪かったらしい。決して自分を子供扱いした仕返しではない。
「な!?……っえ、何?」
ユヒムは質問の意味が分からない、といった顔を向けてきた。ルーリアはこのチャンスを逃すつもりはない。そのまんまだから答えて欲しい、と見つめる目に期待を込める。
「だって最近はずっと二人で行動しているじゃないですか。気になっています。本当に付き合っていないのですか?」
「…………な、何てどストレートな」
「まさかルーリアちゃんからそんな質問が飛んでくるとは」と呟き、ユヒムは返す言葉を探しているようだ。
確かにいつもだったらこんな直接的な質問はしない。が、今回は好奇心の方が勝ってしまっていた。
気になるものは仕方がない。
それに素直に人に尋ねることは良いことだと聞いている。即答で否定しない、ということは訳ありだろうか。
「……あー……」
片手で顔を覆い、まだ少し迷っているように海の水宝色の瞳を揺らしてユヒムは声を出す。
その表情からは、誤魔化そうとしたり適当に流そうとしている雰囲気は感じられない。
「えっとー……残念ながら、オレたちは恋人同士のような甘い関係ではないよ。どちらかと言えば仲間、かな」
仲間? 商人仲間ってこと?
「そうなんですか。本当に残念です。それなら、どうして二人だけで行動しているんですか?」
「……っ」
心の底から期待外れだった顔を向けると、ユヒムは悔しそうな表情を返してきた。
「一緒にいるのは、その方がいろいろと都合が良いからさ。国境を越えるにしても審査を通りやすく出来るし。相手の親に結婚報告に行きます、とか適当にね。恋人同士のようなふりをすることで動ける範囲が広がることもあるんだよ」
あまり触れられたくない話題なのか、ユヒムの声が少し投げやりに聞こえる。
いつもだと笑顔を貼りつけ、こんな風に感情を見せることもないからちょっと珍しい。
「行商をするために恋人同士のふりをするんですか?」
「その場限りの、だけどね」
アーシェンは性格が良く、それでいて美人だ。
スタイルも良い。例え真似事だとしても、隣に立てるのは男性からすれば嬉しいことなのだと思う。けれど。
……恋人のふりだけ。
アーシェンはそれで納得しているのだろうか?
「それをしてしまうと、アーシェンさんが周りから誤解されてしまいませんか? 例えば、アーシェンさんのことを好きな人がいたとしても、ユヒムさんが側にいたら出会う切っかけすら与えられませんよね?」
恋人じゃないのにそんなふりをしていたら、いろいろと問題なのでは?
「……うーん。まず前提に、アーシェンは誰かと付き合うって考え自体、頭の中に存在していないんじゃないかな?」
「どうしてですか? アーシェンさんは優しくて綺麗で、服装だって女性らしく気を遣っているのに」
息巻くルーリアにユヒムは小さく息を吐く。
「元々この話を言い出したのはアーシェンだよ。ルーリアちゃんに説明するのはちょっと難しいかも知れないけど、オレたちはそれぞれに『守りたいもの』と『目指すところ』をはっきりさせているんだ。それに向かって使える物は何でも使うし、互いに全力を尽くすことを誓い合っている。目的のためには、場合によっては何かを切り捨てることも出てくるもんなんだよ」
「……切り捨てる、のですか?」
「必要ならばね」
ルーリアは衝撃を受けた。
人族は寿命が短いから、子孫を残すことが一番大切なのだとずっと思っていた。
もちろん、そのための相手探しが大切だ、という意味も含めてだけど。……けど、違っていた。
ユヒムの言葉の通りなら、二人はすでに恋愛よりも大切なものを見つけていることになる。
そしてそれは、自分よりも大切なもののようにルーリアには聞こえた。
人の幸せ。
それはルーリアにとって、好きな人とずっと一緒にいること、一緒に生きていくということだ。
自分がその人を必要として、そして相手からも必要とされる。両親の仲良くしている姿しか知らないルーリアには、他の幸せが想像できなかった。
……好きな人と一緒にいること以上の幸せって、何?
「……それでも、アーシェンさんには誰かと幸せになって欲しいと、わたしは考えてしまいます。例えアーシェンさんがそれを一番に望んでいなくても」
「……それはアーシェンが自分で決めることだからね」
そう言って、ユヒムは寂しそうに笑った。
まるで手の届かないものを見つめるように、アーシェンに視線を向けて。
……あれ? この表情って……。
「あの、」
もしかして、と思ってユヒムに話しかけようとした、その時。隣の席からふらりと、ガインがやって来た。気のせいか、この短い時間で少しやつれたように感じる。
「あー……ルーリア」
「何ですか?」
今いいところなのに。と、ジロリと視線を向ける。
「明日から二人がしばらく滞在する訳だが」
「はい」
「お前はしばらく森へ行かなくてもいい」
「……えっ?」
「毎日とは言わないが、明日からアーシェンに料理を教えてもらうといい」
「……えっ、……えぇえぇぇっ!?」
自分でも驚く速さで隣の席に目を向けた。
──料理!!
本当に教えてもらえ──と、飛んできたルーリアの視線を受け、アーシェンは満面の笑みで右手の親指を立てる。
「──!!」
料理も、お菓子も。
自分には決して手の届かないものなのだと、諦めるしかないものなのだと思っていた。
それなのに、料理を教えてもらえる!!
それは、勝手に何もかも絶望して落ち込んでいたルーリアに、光輝く救いの女神が舞い降りた瞬間でもあった。
ごめんなさい、ユヒムさん。
わたし今、アーシェンさんを独り占めしたい気持ちでいっぱいです!!