第1話・迷火の出会い
『魔虫の蜂蜜屋』を知っているだろうか?
身近に大きなケガをしたり、薬の効かない病にかかったことのある者がいれば、少しは知っているかも知れない。
魔物である蜂の巣から採れる蜂蜜は『魔虫の蜂蜜』と呼ばれ、品質が良ければ万能回復薬となる。
それを大自然の中から見つけることはとても難しいが、そんな希少な蜂蜜を作っている『魔虫の蜂蜜屋』が、この世界のどこかにあるという。
何でも、呪われた親子が作っているという、もっぱらの噂だ。
◇◇◇◇
秋の深まる、ある日。
家から見て東の空に、巨大な黒煙が立ち昇った。
国境に沿って高い山々が連なっているのだが、黒煙はその山脈のさらに向こう側で発生しているように見える。
あれは……何? 山火事!?
黒煙は空を暗く染め、不気味に広がっていく。
そんな恐ろしい色の空を見て、ルーリアは言いようのない恐怖を感じた。
「お父さん……」
怯えた顔で見上げると、隣に立つ父親のガインは黒煙を目に映し、眉間にシワを寄せている。
ルーリアと同じ幻惑の金色の瞳に空の暗影を映し、
「あれは山火事じゃないな。山の向こうは魔族領だ。恐らく……」
そう言って、さらに表情を厳しくさせた。
あれは恐らく、大きな争いの戦火から出た煙だろう。その言葉をガインは呑み込んだ。世の中の醜い話など、わざわざ娘に聞かせるものでもない。
「お前は気にしなくてもいい。じきに収まる」
「……はい」
話はそこで打ち切られ、硬さのあるガインの声にルーリアはただ小さく頷いた。
翌日。昨日より勢いは落ちたものの、黒煙は未だ燻り、その次の日には全てを洗い流すような激しい雨が降った。
そして三日後には雨も上がり、東の空もいつものような青空に戻っていた。
パラ……と、紙をめくる音が静かな室内に響く。
ルーリアは自分の部屋で本を読んでいた。
丸太で建てられた二階建ての山小屋は、自宅であり蜂蜜屋の店舗でもある。二階にはルーリアと父親の部屋があり、一階には店のカウンターと休憩するためのテーブルと椅子、それと宿泊用の客室と商談部屋があった。
「……?」
ふと、胸の辺りがザワついた感じがして、ルーリアは本を閉じた。
……何だろう。風がいつもと違うような?
部屋を出て一階に下りようとすると、外から複数の足音が聞こえてきた。その中の一人は声で父親だと分かる、けど……。
……一緒にいるのは誰? 今日は人が訪ねてくる予定はなかったはずなのに。
ルーリアは急いで部屋に引き返し、人族に変身するための腕輪を身に着けた。
小さく尖った耳が丸くなり、毛先が白かった黒髪は全てが艶やかな漆黒に染まる。瞳の色も金色から黒曜色に変わった。
──チリリン
玄関に付いているベルが涼やかに鳴り響く。
「ケガ人だ! すぐに回復魔法を掛けてやってくれ」
ガインは家に入ってくるなり、担いでいた男を床に寝かせた。背中に大きな裂傷と、全身にヤケドが見られる。
これはひどい!
ルーリアは眩暈を感じたが、それどころではないと気を奮い立たせた。あとから入ってきた二人にも、チラリと目を向ける。
大人の男が一人と、少年が一人。
少し傷ついてはいるが、こちらは後回しでも大丈夫そうだった。
「魔法で、ですね」
ルーリアは確認の意味を込めてガインに尋ねた。魔虫の蜂蜜を使えば、ケガだけでなく体力も回復できるからだ。
「ああ。魔法で頼む」
その返答から、男たちが『蜂蜜屋の客ではない』と察する。ルーリアはすぐさまケガ人に手をかざし、回復の呪文を唱えた。
『彼の者に癒しの光を』
ルーリアの手から柔らかな光が溢れ、目の前のケガ人を優しく包み込む。あっという間に傷は治り、ヤケドも痕を残さず綺麗に消えた。
「……す、すごい。あれだけのケガが一瞬で!?」
「こんな小さな子が……」
ルーリアは振り返り、驚きの声を上げている二人にも回復魔法を掛けた。
「これでもう大丈夫だと思います」
返事の代わりにガインが頷く。
ルーリアの出番はここまでだ。
「傷は塞がっても流れた血までは戻らない。しばらくは寝かせておいた方がいいだろう」
仲間と見られる二人に声をかけ、ガインは宿泊用の客室にケガ人を運ばせた。客室は全部で三部屋あり、それぞれにベッドと小さなテーブル、椅子がある。
男たちは一番手前の部屋にケガ人を寝かせると、ガインに助けてもらった礼を述べた。
「森で薬草を探していたんだが、道に迷って困っていたんだ。本当に助かった。ありがとう」
その声にガインは無愛想な顔を向け、
「ここにいる間『それ』は外すな」
と、手首に着けた魔術具を外さないよう、男たちに注意した。
森の植物を水晶の中に閉じ込めたような魔石。
それを用いた小洒落た装飾品に見える『許可証』は、ここに連れてくる時にガインが身に着けさせた物だ。外からの来訪者は、これがなければこの森に入ることは出来ない。
「本来この森には余所者を入れないことにしている。今回は生命に関わる事態だったから特別に入れてやったが、体調が戻ったらすぐに出て行ってもらうからな」
鋭い眼光を男たちに向け、ガインはルーリアに急な訪問者を連れてきた経緯を話して聞かせた。
この三人は旅の商人で、国境の近くで起こった争いに巻き込まれ、命からがら逃げてきたらしい。
全員人族で、20代くらいの男が二人と、13、4歳くらいの少年が一人。
金品を投げ捨てて逃げてきたため町で薬を買うことも出来ず、この森の近くで薬草を探していたところを運良くガインに拾われたらしい。
「なぜか同じ所を回ってばかりで、森を通り抜けられずに途方に暮れていたんだ」
商人の一人が不可思議そうな顔でそう話す。
けれど、それは当然だろう。
この森の外周は、ルーリアの母親が張った結界の効果で『迷いの森』となっているのだから。
「助けられたついで、と言っては申し訳ないが、この森で食料を採らせてもらえないだろうか。しばらくまともな食事にありつけていないんだ」
困り顔の商人は、そう言って空腹を訴えるように腹を押さえた。それを見たガインは厄介そうに眉を寄せる。
この隠し森の中で余所者を勝手に歩かせる訳にはいかない。養蜂場の存在を知られては困る。
ガインは仕方なく、商人を安全な採取場所まで案内することにした。
「採取に行くのは一人だけか? そっちは……」
「オレは残って向こうに付き添うことにする。途中で目を覚ますことがあったら、誰か側にいた方がいいだろうから」
ケガ人と少年なら、家に残しておいても大丈夫だろう。ガインは目配せでルーリアにそれを伝える。
少年はルーリアから井戸の場所と使い方を聞き、水を汲んでケガ人の寝かされている部屋へと入って行った。
「魔術具を着けているから変な真似は出来ないだろうが、商人たちには出来るだけ近付かないように」
ガインはそう言い残し、商人を連れて外へ出て行った。
許可証である魔術具には、ルーリアを守るための強力な防衛機能もついている。
家に残されたルーリアは言いつけを守り、自分の部屋にこもっていた。……けれど。
そういえば今日は来客を予定していなかったから、客室に寝具を置いていなかった。秋ともなれば、高地であるこの辺りの朝晩は冷える。人族は寒さに弱いから防寒の寝具は必須だった。
パパッと置いて戻るだけなら……。
大切なことは思いついたら即行動だ。
掛け布や毛布を手にしてルーリアは一階に下りた。
ケガ人が寝ているのは一番手前の部屋だから、そこを避けて他の部屋に置いていくことにする。
コンコン
ひとまず真ん中の部屋をノックする。
反応はない。ルーリアは中に入り、ベッドの上に寝具一式を二部屋分そろえて置いた。
見れば一つはケガ人の分だと分かるだろう。
すぐに隣の部屋へ。
コンコン
こちらも反応はない。ルーリアは同じように扉を開けて足を踏み入れ、そして、
「──!!」
顔を上げて息を呑んだ。
目に飛び込んできたのは、上半身が裸の見知らぬ美少年である。その背中には、鳥の翼のような大きな羽があった。
「ッ!!」
姿を見られたことに驚いた少年は、固まっているルーリアの口を片手で塞ぎ、首元にナイフを突きつけた。
「動くな!」