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┌兎の足跡

 聖王国アルヴェリアはゼルギア大陸東方に位置する、七神獣の一柱である神星竜オウルノヴァの加護を受ける国。その名は古い竜の言葉で『揺り籠』を意味するという。


 国内に海と山間部を有しており、領土の大半は平原部という恵まれた立地。


 東方諸国と比較して国土こそ小さめなものの、星竜との契約と加護によって土は豊かで、竜の加護を受けた竜と共に飛ぶ星堂騎士と精鋭揃いの軍に護られた強国だ。


 住む人間の大半は普人(ヒューマン)だったが、少し前に同盟関係にある北方獣王国の崩壊に基づき離散した獣人の多くを受け入れ、多様な人種が互いに文化をすり合わせながら平和に暮らしている。


 強い力を持ち平和を維持している国というのが、アルヴェリアに対する同国貴族と周辺国家の評価だった。


 フィリアはそんなアルヴェリアの南部にあるザインバーグ子爵領で生を受けた。


 子爵本家に仕える兎人(ルプシアン)のメイドと領主の間にできた娘として。



「子爵閣下、お母さま、おはようございます」

「おはようフィリア」

「フィリア、ひと目が無い時はお父様で構わないと言っているだろう?」


 雪の積もる寒い日の朝。子爵家の食堂では少しいびつな親娘の団欒が行われている。


「はい、お父さま」


 愛娘を見守る優しい視線を受けて、エプロンドレスの裾を掴み、母から習ったカーテシーを披露したフィリアは照れくさそうに笑みを浮かべた。


 席についた娘を見守りながら、幾度も繰り返されてきた冬の日が幕を開ける。


 ついぞ叶わなかった家族の団欒を噛みしめるように、少しずつ。


「アリスちゃんったら廊下で倒れてて! ほんとう目が離せないんです」


 フィリアが語るのは、新しく出来た友人たちの話。


 30代半ばを過ぎたばかりの子爵も、20になったばかりの母親も目尻を緩めて話を聞く。


 一緒に料理を担当しているアリスが調味料を探すと行って、隣の部屋に行く途中で行き倒れていたこと。


 母親に習った料理を美味しいと食べてくれるのは嬉しいけど、たまに取り合いになって困ること。


 伝手を頼り母とともに岳竜山脈を超えて西側に逃げ延びて、その時の傷が原因で母と死別してから大変だったこと。


 飢えと孤独に絶望しながらたどり着いた先で出会った猫人と同居するようになったこと。


 暫く一緒に暮らして、ぎくしゃくが大分マシになったところに現れた狼人の双子。そこから始まった命がけの逃走劇と大冒険。


 何度も死ぬかと思って、死を覚悟して、平気で前に出る友人たちに驚かされた。両親と別れてから歩んできた日々を伝えてはじめて、今日で5日目。


 話す内容も尽きてきた頃。激しかった吹雪はすっかり落ち着きを見せ始めていた。


「それで、それで……」

「フィリア」


 優しい女性の声が、必死で喋り続けるフィリアの耳を打つ。北方獣王国、初代銀狼王の妻から取られた名前だと聞かされていた。


 自分には身に余ると思いつつも、密かな自慢でもあった。


「お母さま」

「頑張ったのね」

「……はい」


 仕事は卒なくこなすが、稀に手足を家具にぶつけた時は大袈裟に痛がる母親だった。兎人らしい臆病さも痛みを苦手とするところを、領主一家や仕事仲間は微笑ましく見守っていた。


 しかし領地から落ち延びる際、悪化する刀傷に苛まれながら娘を抱えて山越えを為した女だ。


「良い友人が出来たのだな」

「……はい、お父さま」


 子爵は領主として甘いと身内に言われながら、領民のために自分も畑に出るような男だった。ザインバーグは農地の守り手たる騎士の家系。


 三男でありながら領主に指名されたのは、そんな彼の民に対する誠実さと国への忠誠心を先代領主が認めたからだった。


 幼い頃から傍にいたメイドに手を出したのは、自分が継ぐとは思ってもいなかったからだという。政略によって輿入れした奥方には申し訳ないと思っていたようだが、フィリアの母と正妻は意外とうまくやっていた。


 剣を握るのが苦手だったはずの男は、賊を相手に一歩も引くことなく民を守り抜いた。


 フィリアにとっても自慢の両親だった。


「引き止めてすまなかったな、お前はいつまでもここに居てはいけない」

「…………」


 名残惜しそうに視線を落とし、子爵はいやいやと首を振る娘を見る。


 領の境目に現れ略奪をはじめた盗賊団の討伐時に死亡した父。


 葬儀の直後、毒に倒れた正妻。領主の妻の暗殺未遂の濡れ衣を着せられた母。


 床に伏した正妻が意識を失う直前にフィリアたち母子を屋敷から逃がすことを侍従に命じなければ、確実に生命を奪われていただろう。


 母親は領主に仕える騎士たちに送られ領地から逃げた。追手から手傷を追いながらも何とか逃げ切った。


 後のことは知る由もない。それがフィリアの知る全てだった。


 降り積もる"名残雪"は、生者と死者の名残りをより合わせて形をつくる。


「…………」


 ずっとこの夢に浸っていたかった。このまま幸せな日々を過ごしたかった。


 でも、フィリアの知る両親を完璧に再現した幻はそれを許さない。娘を凍りつく夢の中に閉じ込め続けることを良しとしない。


 彼女もまた夢に溺れられるほど弱くない。


 抵抗するように首を横に振っていたフィリアだったが、やがて諦めたように力なくうなだれた。


「フィリア、どうか私達の分まで幸せになって、お友達と仲良くね」

「お前のことを始まりの海から見守っている、愛しているよ。……それから、お前の兄にもいつか無事な姿を見せてやってくれ。腹は違えど兄妹だ、父親としては仲良くあってくれれば嬉しい」


 正妻の子とはあまり接触がなかったフィリアは、腹違いの兄の姿を思い浮かべた。記憶の彼方の姿はもう曖昧だ。


「はい……」


 父に似て物覚えの良い、物腰穏やかな聡い娘だった。


 これが最後の別れになるとわかっていた、わかってしまった。


 こらえ切れない涙をこぼして、フィリアは顔をあげる。


「お父さま、お母さま……私、いつかアルヴェリアに帰ります。今度は負けないくらい、つよくなって」


 双子の旅に同行することを決めたのは、自分の事情からだった。


 父母を奪った理不尽に対する怒りと憎しみ。暗殺を企んだ犯人を、捕らえ損ねたという父を殺した仇を突き止めて裁いてやりたいと思っていたからだ。


 フィリアは普人の騎士たちや、母の友人である一般的な獣人も知っている。


 そんな彼女から見て、今の友人たちはそこらの獣人と比較して異質なほどの力を持っていた。


 靭やかさが最大の武器の猫人でありながら、力でも銀狼と渡りあえるノーチェ。


 生来武術に長け魔術に劣る獣人とは思えぬ魔力を持ち、武術の才も見せるスフィ。


 今まで生きてこれたのが不思議なほど虚弱ながら、錬金術の天才であるアリス。


 彼女たちと一緒ならいずれ自分たちを襲った理不尽にも打ち勝てる、そんな予感があった。


「次はあの子たちを助けられるくらい、つよくなりたい……!」


 臆病な兎の瞳に宿るのは、強い決意。


 フォーリンゲンで現れた怪物に、地下道のときと同じくフィリアは怯えることしか出来なかった。


 視線を向けるだけで耐え難い恐怖を覚える怪物を相手に、アリスは平然と正面から向き合った。


 スフィとノーチェは脚を震わせる恐怖を抑え込み、末妹のために剣をとって立ち向かった。


 一番年上のフィリアが、命がけで戦う仲間を見ていることしか出来ずに震えていたことは、思いのほか彼女の小さなプライドを傷つけた。誇り高き騎士ザインバーグの血を引く、娘としてのプライドを。


 後ろめたさを感じつつも利用できると共に旅立った仲間たちは、気付けばかけがえのない友人になっていた。


 意地っ張りで仕切りたがりな、誰より仲間思いの黒猫。


 時折闇が見え隠れするが基本的には天真爛漫で人当たりの良い姉狼。


 天才ゆえの独特な感性でマイペースに生きる、放っておけない妹狼。


 一筋縄ではいかないけれど、一緒に居て楽しいと思える友人たち。


 前を向けば、屋敷の幻は空気に溶けて消え始める。椅子も机もなくなって、フィリアと両親は雪原の真ん中に向かい合うように立っていた。


 吹雪は止み、どこまでも続く雪原の分厚い雲で覆われていた空にはいつの間にか晴れ間が覗いていた。


「お父さま……お母さま……」

「私達はずっと見守っているよ。友を守り、友と助け合い、強く生きなさい。お前なら出来る」

「フィリア、元気でね。貴女なら大丈夫」

「……はい」


 穏やかな笑みを浮かべ、雪に溶けていく両親を見送る。


 誰もいなくなった雪原を見つめていたフィリアが空を見上げる。


 灰色の空にできた雲の亀裂から見える青空が広がっていくのを眺めているうち……目が覚めた。



 名残りがなくなったのか、迷いは振り切れたのか、それはフィリアにもわからない。


 それでも両親に背を押され、夢を振り切って歩き出すことは出来た。


 和室で目を覚ましたフィリアが、何があったのか状況を確認するため同室で眠る友達をひとりずつ確認していく。


 いつの間にか着替えさせられ、布団の中で何度も寝返りをうつスフィ、ノーチェ。


「スフィちゃん……ノーチェちゃん……アリスちゃ……きゃあああああああ!?」


 それから、暗がりの中でぐったりと倒れ込むビークマスクのペスト医師。


 寝起きで見付けた正体不明の謎の怪人に悲鳴があがるのも、無理からぬことだった。

装備解除する余力も無かった模様

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