白桜の下で
満開の桜ほど、恐ろしいものはない。
散りゆくさまが美しいだの儚いだのと、誰もが口を揃えて誉めまくり、酒を片手に愛でまくる。春の訪れや新学期と結びつけて考える奴らも、少なくはない。
だが、果たしてそれは本当に『美』と称してよいのだろうか?
触れてしまえば崩れてしまいそうな、脆さのどこが美しい?
すぐ散ってしまう負け犬に、何の意味があるのだろうか?出来る限り遥か未来まで残っていくものこそ、価値のあるものだ。
校門前に咲き誇る桜だって、例外ではない。俺は嫌なモノでも見る侮蔑の視線を、桜に向けた。だから―――
「―――優衣が嫌いになったんじゃないんだって!」
むすっとした表情のまま固定されている『高円寺 優衣』に、俺はひたすら頭を下げた。春らしい服装に身を包んだ優衣は、
「本当にそれだけの理由なの、浩介?今日の約束を『めんどーだな』とか考えているんじゃないでしょうね?」
疑いの眼差しを崩さない。……俺は頭を抱えた。
いや、確かに今日の約束を『面倒』だと思ったのは事実だ。昨日も遅くまで『仕事』が入っていから、今日はぐっすり眠り気持ちを落ち着かせたい。
だけれども、優衣との約束も大切だ。『恋人』という事実以外に接点がほとんどない俺と優衣は会う機会は滅多にないし、家で休んでいたとしても、緊急の仕事がいつ入るか分からない。
だから、約束を守ったのに……なんで、待ち合わせ場所を、優衣の通う美大の前なんかにしてしまったのだろうか。バカバカバカ、俺のバカ。
「あぁ、そうだよ。本当に悪かったから、許してくれよ」
男らしくなくて、悪かったな。女々しくて、悪かったな。
だが、桜嫌いは子供時代から深く根付いてしまっている。いまさら、ほいほいと変えられるものではないのだ。
「あっという間に散るなんて、すぐ死ぬみたいで嫌だろ」
「えっと、そこがいいんじゃないかしら。悠久の美なんて、存在しないのよ。
たとえ短くても命の限り輝くのが、美しいんじゃないの」
「お前……彫刻学科じゃなかったか?」
朽ちることなく、永遠に残っていくものが彫刻だろうに。
たぶん、俺の考えていることが顔に出ていたのだろう。優衣は口をとがらせ、諭すように話し始めた。
「彫刻はね、必死に生きるその一瞬を形として残すものなの。だから、悠久とはちょっと違うのよね」
分かったような、分からないような。
俺の曖昧な表情が、よけい癪に障ったのだろう。何か言い返すように口を開く優衣だったが、疲れたように頭を横に振る。
「なんだよ、何か言いたいなら言えばいいじゃないか」
「別に。優衣さんは、何も言おうとしてなんかないわ。
それにさ、浩介の言うことも分かるような気がするし。桜って、『死』にまつわる逸話が多いから」
「逸話?」
俺が尋ねると、優衣はキョトンとした表情を浮かべた。
「知らないの?白い桜が真っ赤な桜に変身する話。テレビでやってたよ」
「知らん」
俺の家にテレビなんてないことくらい、コイツは知っているはずだ。
「えっと、白い桜の木の下にね、死体を埋めるとね、死体の血を吸収して真っ赤に変身するんだって!」
「なんだそれ?
そもそも白い桜なんて、あるのかよ?桜の色といったら、ピンクじゃないか」
「あるわ。そうね……ほら、ここの桜は白よ?」
優衣は、ひょいっと頭上を指さす。俺も優衣の白い指先を辿るように、視線を上にあげてみる。
なるほど、本当に白い桜もあるようだ。
頭上に舞い散る桜は、眩いくらい白い。白無垢を思わすくらい、穢れのない色だ。
「ね、白もあるでしょ?」
「あぁ、白無垢みたいな白だな」
「……そこは、『白無垢』じゃなくて『ウェディングドレス』って言って欲しかったかも」
優衣は、恥ずかしそうに俯きながら呟く。
今言った言葉の中に、どこか恥ずかしい内容が含まれていただろうか?俺は優衣が言った言葉を反芻する。
「白無垢の何が悪い?俺は和装が好きなんだが」
「わ、悪いんじゃなくてね……わ、私はそのぅドレスの方が好き、かなぁって。もしさ、もしなんだけどね!け……け…結婚するときは、ドレスの方がいいなとか思うし」
優衣は、珍しく歯切れの悪い言葉を並べる。耳まで真っ赤に染めながら、優衣は話を続けた。
「あっ、でもさ、浩介が白無垢を着て欲しいならさ、私…白無垢でも…」
「お前が白無垢?恥をかくからやめろよ。お前に和装は似合わないって」
優衣は西洋的な顔立ちなのだ。一度、成人式の時の写真を見せて貰ったが、反応に困ったのを覚えている。そんなことを思い返していた時、空気が変わったのを感じた。なんというか、どす黒い雰囲気が辺りに漂い始めている。
「……俺、変なこと言ったか?」
そう言いながら優衣を見下ろした俺は、ハッとする。優衣は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていたのだ。限界まで涙を溜めこんだ優衣の瞳は、キッと俺を睨みつけて、そして――――
「最低!最悪!分からず屋!今日は帰るからついてこないで、馬鹿浩介!!!」
約七十年前、そう……第二次世界大戦が終わった頃。
そのころから、世界中に不思議な『化け物』が跋扈し始めた。それは、どこかの星から飛来した宇宙人だとか、クトゥルフーみたいに旧世界の生物なのだとか、いや第二次世界大戦で生み出された研究の産物なのだとか、説は様々。実際の所、どれが本当の話なのか知らないし、別に興味なんてない。
1つだけ、確実に分かっていることがある。それは――――――
『化け物』達が、人間を殺すということ。
突如、世界各国に現れた『化け物』は、問答無用に人々を襲ったと聞かされている。どんな銃器も戦闘機も『化け物』には通用しない。ただ、唯一、得体のしれない化け物と戦うことが出来たのは、14歳の少女。
そう、その少女は変哲もない普通の少女だった。特別に可愛いというわけではなかったし、どこからどうみても一般庶民。凡庸な家庭環境で育ち、凡庸な人生を送っていた、どこにでもいる少女だった。
ただ1つ 『超能力』 に目覚めてしまった、ということを除いては。
それ以後、迫りくる化け物の脅威に対抗するかのように、『超能力』に目覚める子供が現れ始めた。それも、世界各国、あらゆる地域に……。
そして、『超能力』に目覚めてしまった子供たちは、親から隔離され『国際連合人類防衛軍』に入隊させられる。
たとえ、産まれたばかりだとしても……たとえ、親がどれほど金を積んだとしても、目覚めてしまった子供は、『人類の存亡』をかけた戦いに、異論の余地なく召集されるのだ。
俺も、そんな子供の1人だった。
5歳の頃から安全を脅かす化け物どもと戦い、殲滅する。
たった一行で終わってしまう簡単な文章だけれども、実際にはそう簡単なことではない。アイツらの辞書に『情け』という文字は存在しないのだ。強大なる力を持った化け物の目の前では、文字通り『人がゴミのように』死んでいく。たとえ能力を持っていたとしても、生き残るのは容易ではない。一瞬でも気を抜けば、即お陀仏だ。
だから、20歳を超えても生き続けている『能力者』は、決して多くはない。
つまり、18歳の俺は、高齢の分類に入る。したがって、階級も今年の4月で昇進。そして――
「そして、今では東京都12地区の隊長に就任したってことですよね!」
隣を歩く三鷹 彩加が、嬉しそうに叫んだ。
「いやぁ、本当に新隊長が小金井中佐でよかったですよ!」
「おだててでも何も出ないぞ、三鷹曹長」
俺がぶっきらぼうに呟き返す。すると、彩加は意地の悪そうな笑みを浮かべた。セーラー服のリボンを弄りながら、俺の顔を覗き込む。
「いやいや、傷心中の中佐の元気を取り戻そうとしているだけですって」
「傷心中?」
俺は、点滅し始めた交差点の前で歩みを止めた。
「誰が?」
「小金井中佐以外の誰でもないですよ。私、さっき見ちゃったんですから。そこの美大の校門前で、綺麗なお姉さんと別れる中佐を。ふふふ、その時の中佐の顔、物凄く落ち込んでいましたよ。だから思ったんです。
『あ~、振られたんだ』って」
んで、落ち込んだ表情で立ち去っていく中佐の心を慰めようと、私は話しかけたんですよ。と、彩加は言葉をつづけた。
俺は、赤く点滅する信号を見上げ、はぁ……とため息をついた。
「優衣は……用事を思い出して帰って行っただけなんだ。別に、振られたんじゃねぇよ」
「えぇ~、本当ですか?なんか、嘘っぽいですよ?」
彩加は、胡散臭そうな顔をする。俺は、そんな彩加の表情を気にしない。なぜなら、俺の言ったことは嘘ではないからだ。俺は、優衣に振られたわけではない。
ただ、優衣を怒らせてしまっただけだ。絶縁状を叩きつけられたわけではない、たぶん。
「……そもそも、お前は何でここにいるんだ?三鷹は高校生だろ」
「ほぇ?私は阿佐ヶ谷先輩の展覧会を見に来ただけですよ。あそこの美大の彫刻学科なんです」
「彫刻学科?」
赤から青く点滅色を変えた信号を前に、俺は立ち止る。
今、彩加はなんて言った?
「アレ?あたし…なんか変なことを言いましたか?」
青になったのに動こうとしない俺を、不思議に思ったのだろう。彩加は首をかしげた。
「優衣……さっき別れた彼女も彫刻学科だったからな。世界は狭いと感じただけさ」
「はぃ?それって変ですよ!
だって、『いまの彫刻学科に女の人はいない』って阿佐ヶ谷先輩が嘆いていましたもん!」
信号が青から赤へと変わる。
停まっていた車が、ゆっくりと走り出した。だけど、俺の時は止まってしまったように感じた。さぁっと血の気が引いていく。色のついた世界が、一気に灰色一色に様変わりし始める。
いや、冷静になれ。
1か月前に行われた彫刻学科の展覧会を観に行ったときには、『高円寺 優衣』の作品が展示されていたことを覚えている。だから、阿佐ヶ谷の情報が1か月前よりも古いものなのだろう。
俺は、電柱に支えられるようにもたれかかった。
「それ、いつの話だ」
「昨日ですけど?」
「昨日?」
「え、ええ。なんでも3日前に唯一いた女学生が急死してしまったらしく……まだ、葬儀の日程も決まってなくて、親しい人への連絡もいってないみたいなんですけどね。
……大丈夫ですか、小金井中佐。顔色悪いですよ?」
「嘘、だよな?」
俺の呟きは、車の行き交う轟音に掻き消された。
それは誰しもが家路を急ぐ夜10時頃。
まだどこか肌寒い空の下、美大の校門前に立つ1人の影があった。
丈が半分になったジージャンを羽織り、薄桃色のフレアスカートという春らしい装いに身を包んだ女子大生……高円寺 優衣の姿だ。誰かを待つように辺りを見渡し、時折、不安げに腕時計をちらちら確認する。
「遅いな……浩介」
か細い声が、『誰もいないように見える』校門前に響き渡る。心細そうに細い眉を寄せる優衣を見ていると、俺の決心が揺らぎそうになった。揺らぎそうになる決心を抑えるように、ゆっくり目を閉じて数を数える。1つ、2つ、3つ……
「……よし」
気持ちが落ち着いていく。そっと目を開けた時、もうすでに迷いは心から消えていた。人差し指で真っ直ぐ、優衣の首のあたりを狙った。優衣は、狙われていることに気がついていない。
不安そうに、俺が来ると思っている通りを見つめていた。
まさか、俺が優衣の後ろの茂みにいるなんて想像もしていないだろう。
「『発動!』」
その言葉を唱えるのと同時に、能力が弾けた。指先から、青い閃光が奔りだす。無法備な優衣の首後ろを目がけて。
「!」
閃光が優衣の首を貫くことはなかった。
首の後ろに到達する瞬間に、迫りくる殺気に気がついてしまったのだろう。くるりと優衣は振り返り、閃光を弾き返そうと両手を伸ばす。
閃光は優衣の両手に命中すると、なすすべもなく四散した。
「隠れてないで出てきなさい、人間」
鈴のような優衣の声とはかけ離れた、無機質な声。それは、5歳のころから戦場で聞きなれてきた『化け物』の声だ。その声が、僅かに残っていた揺らぐ気持ちを、すぅっと消し去った。
もう、迷いなんてない。
俺は、優衣の前に姿を現した。
ツツジの茂みから現れたのは、浩介だった。
怖いくらい無表情な浩介。非情なまで冷たい視線と指先を、私に向けている。思わず私は、一歩後ろに下がってしまった。
「浩介?」
浩介は何も答えない。浩介は無言のまま、左手で右腕に巻きついた腕章を、静かに触っていた。私は、浩介の腕章に視線を移す。腕章についた星と、2本の線が目に入った時、私は息をのんだ。
「……浩介は、私を殺すつもりなの?」
「ご名答」
ここで初めて、浩介は口を開く。
いつも私に向けられている、どことなく楽しそうな声ではない。
私を襲ってくる人間たちが向ける声と同じ、怖いくらい無機質な声だ。じんわりと涙腺が緩むのを感じた。
「そんな、どうして?」
「『高円寺 優衣』は、3日前に死んでいる。だから、お前は『高円寺 優衣』の殻を被った『化け物』だ」
『爆弾が落とされるほどの衝撃』とは、こういったことを言うのかもしれない。
心臓を物凄い力で、ギュッと鷲掴みされたような感じがした。
そう、高円寺 優衣はすでに死んでいる。
―――私が、試作固有能力の力を使ったから―――
私たち種族の成り立ちは、良く知らないし興味なんてない。
ただ、種族上層部は人間と仲良く共存したいと考えているのは知っている。
だから私達は人間の言葉づかいを真似て、人間流の交渉術を使った。
人間は交渉に応じてくれたけど、『ていせんめいれい』とか『わへいじょーやく』というのを、中々提示してこない。
人間の寿命は、僅か80年なのにもかかわらず、この対応は変だ。
そこで、生み出されたのが試作固有能力だ。
トレースを使えば、対象の『全て』を読み取り、私の上に上書きすることが出来る。対象者が培ってきた知識・記憶・想い、そして容姿を私のモノとすることが出来るのだ。
対象は、読み取り時のショックで死んでしまうというデメリットがあるが……メリットの方が高いから問題ないだろう。
被験者第一号に選ばれた私は、『美大』という場所から出てきた人間のメス…高円寺 優衣にトレースを使用した。
膨大な情報量が、思考回路を焼き尽くしそうになる。高円寺 優衣に積み重ねられた知識・記憶、そして想いのすべてが、私の思考回路に上書きされていくのだ。
だからトレースが無事に終了したとき、高円寺 優衣の容姿に変身した私は、ひどい疲労感に襲われたのは言うまでもない。
高円寺 優衣の死体を路上に放置した私は、そのまま近くの『ビジネスホテル』に転がり込み、そのまま寝具の上で眠ってしまった。
目が覚めたのは、2日経過した朝のことだ。
その時には思考の混乱も収まり、高円寺 優衣をほとんど理解していた。
だから、そこでようやく自分の犯した間違いに気がつくのだった。
人間特有の交渉術として『人間を殺す』という方法を選んだこと自体が間違いだったということに。
その事実を伝えたくても、仲間と連絡を取れるのは1週間後。
それまでは、『高円寺 優衣』として、人間社会に溶け込めと命令されているのだ。
だから、私は『高円寺 優衣』の記憶を頼りに、美大へと足を運んだ。
別に、私は『高円寺 優衣』ではないのだから、約束を無視してかまわないはずだった。だけれども、私は優衣が抱いた『思慕』という感情に興味があった。
小金井 浩介という名の男に対してのみ抱く、ほんのりと温かい気持ち。悪口を言ったりキツイ注意をしたりするけれども嫌いではない。
それを『恋』とか『思慕』と優衣は称していたが、そのような感情はイマイチわからない。繁殖行動に近いようにも思えるが、どうやらそれとは違うらしい。
あと、優衣は浩介も同じ気持ちを抱いているか気になっていた。
だから私は、美大へと足を運んだのだ。
その2つを確かめるために
―――高円寺 優衣が慕う男の待つ、桜の木の下へ―――
「…浩介…」
「お前に名前を呼ばれたくない」
突き放すような強い口調だった。だけれども、そんな怖い空気とは裏腹に、浩介の眼には涙が浮かんでいた。
彼の纏う空気は酷く脆く、
「泣いてるよ、浩介」
「黙れ、優衣!」
真っ赤に充血した瞳は、絶えず私を睨みつける。絞り出すような声で、言葉を紡ぎ続ける浩介を見ていると、私も涙腺の崩壊が抑えきれなくなってきた。身を護るよう前に出した両手を、自分の顔に当てる。
もともと、戦闘に特化しているわけではない私と、戦闘の訓練を積んだ浩介とが戦えば、どうなるのか目に見えている。
だから、ここは浩介に話を聴いてもらうしかない。
私は、いや、私達は人間を滅ぼすつもりなんてない。だから戦いをやめて、和平を結ぼうと、話しかけるのだ。記憶にある優しい浩介なら、聞いてくれるはずだ。
「小金井 浩介、話を聴いて!私達は、人間を滅ぼすつもりなんか―-」
「『発動』!」
浩介から放たれた青い閃光が、まっすぐ胸を貫いた。
ぐらり、と身体が前のめりになり、急速に地面が近づいてくる。私は手を前にだし、顔から崩れ落ちるのを避けることしかできなかった。
冷たいアスファルトの地面に、なすすべもなく横たわる。
生命活動の停止が、刻一刻と迫っているのを感じた。
『思慕』や『恋』は、やっぱり詳しく理解できなかった。
小金井 浩介との約束を破棄し、もっと別のことを調べればよかった。
そうすれば1週間、生き残ることが出来たはずだし、色々と報告する内容も出来ていたはずだ。
「行動、失敗ね」
薄れゆく意識の中、そっと呟いてみる。もう、口も動きにくい。
身体に流れる温かい血液が、ゆっくりと胸から流れ落ちる感触が気持ち悪くて、気持ち悪くてたまらなかった。
「優衣の仇だ」
そう言って私を見下ろす浩介の顔は、怖いくらい無表情だ。
「何か言い残したことはないか?」
言い残したこと。
うん、たくさんあるよ。
私達の目的も伝えたいし、私個人の目的も伝えたい。もしかしたら、優衣がずっと抱いてた気持ちも伝えてあげた方がいいのかもしれない。
でも、もう時間がない。口を開く、気力もない。
ふと、見上げてみると桜が目に入った。
真っ黒な夜空を背に、はらりはらりと雪のように儚く散っていく。そんな散りざまを見つめていると、さらに涙が出そうになる。気がつくと私は、重たい口を開いていた。
「逸話……通りかなぁ?」
視界が黒く染まっていく。暗い視界の中だけど、能面のように顔を崩さなかった浩介が、眉間にしわを寄せたのは見えた。
「逸話?」
「うん」
「桜のか?」
「うん」
死を思わす逸話が多いって、優衣の記憶にはあった。だから、怖い存在なのかもしれない。でもね、やっぱり桜は綺麗だよ。
『死』は怖いけどね、なんでだろう……美しいかもしれないって感じるんだ。
やっぱり、花の魅力を短い期間に精一杯輝かせている桜って、美しいなって。月明かりに照らされた花びら1枚1枚が、光り輝いているもの。
私も、あんなふうに短い命を輝かせたかな?
「そうか」
浩介は私の耳元で囁いた。今にも泣き出しそうな、触ったら壊れてしまいそうな顔で、私を見下ろしている。
なんて声をかけたらいいのかな?
泣かないで浩介?
それとも、ごめんね、浩介?
でも結局、何も言葉を返すことも出来ないまま、私の視界は真っ暗になった。
~1年後~
赤い桜の木の下で佇む少女は、誰かを待つように通りを見つめる。着なれぬスーツのボタンを弄りながら、どこか不安げ表情を浮かべて。
新品の腕時計に目を落とし、時間を確認しため息をこぼす。もう、待ち合わせ時間を20分過ぎているのだ。だから、通りの向こうに背の高い男の姿を見つけた時、むすっとした口調で叫んだ。
「遅いですよ!私、待ったんですから!」
「悪い。急に仕事がはいったんだ。メールしなかったか?」
「仕事……なら、仕方ないかもですね。……スマホは家に忘れちゃったし。
さぁ、早く展覧会へ行きましょうよ!」
男の腕を引っ張るように、少女は前に足を踏み出す。……が、何かを思い出したかのように立ち止まると、桜の木をしげしげと見上げた。
「そういえば、『校門の白桜の下』に待ち合わせでしたよね?
でも、白い桜じゃなかったですよ?」
1人の少女が、男に話しかける。男は、ちらりと舞い散る赤い桜に視線を向けると、柔らかい微笑を浮かべた。
「逸話も馬鹿に出来ないな」
「えっ?」
なんのことだろうか?と悩む少女を振り返ることなく、男は校門の向こうへ足を進める。少女が慌てて駆けてくる音を背中に聞きながら、誰に言うのでもなく呟いた。
「まさか白い桜が、真っ赤に変身するなんて」
ガンジス杯参加作品です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
4月30日:誤字訂正