アッシュトレイズ・ロストライン
かつて其処にいた僕へ。
今、其処に立つ君へ。
瓦礫の山の上に立ち、世界を見渡した。
だが、僕の瞳に映るのは累々たる残骸だけだった。崩れ去った家屋の屋根や外壁、倒れて砕けた電柱のコンクリート、赤錆にまみれた自動車。すべては完膚無きまでに打ち壊され、叩きのめされ、元々あった形を失ってしまっていた。残っているのは強引に意味を奪われた抜け殻だけだ。誰かの野球バット、誰かの車椅子、誰かの洋服箪笥、誰かのテレビ、そして誰かの約束。
くわえていた煙草を一口吸い、夏の空に向けて紫煙を吹いた。虚しいくらいの青空だった。
「満足しました?」
後ろからの声に、僕は頷きを返す。足下に注意をしながらゆっくりと瓦礫の山から下りた。彼女はそんな僕の姿を少し呆れたように見つめていた。
「何か見つかりましたか」
「いや、何も」僕は首を左右に振った。短くなった煙草を足で踏み消す。「何も無い」
当たり前でしょう、とでも言いたげな目をして、彼女は小さく吐息をついた。
それから僕と彼女はしばらく無言で海の方へと歩いた。舗装こそまだ完璧では無かったが、少なくとも自動車が通れるくらいの道は出来ていた。道中、砂埃を舞い上げて走る自衛隊の車とすれ違った。
「まだ見つかっていない遺体を探してるんです」
過ぎ去っていく車両を横目に、彼女は呟いた。その後ですぐ言い直す。
「行方不明者を、捜しているんです」
返す言葉が見つからず、僕はただ曖昧に頷くだけだった。
海岸線は唐突に僕らの前に現れた。本来、潮風から町を守るために立っている筈の木立は、すべて消えてしまっていた。かつて役目を果たせなかった防波堤の上に、僕らは上がってみた。眼下の砂浜は乾いた泥のようなもので埋め尽くされ、あちらこちらには漁船の残骸が覗える。眼前の太平洋は、穏やかに波打っていた。
彼女は背負っていたギターバッグを下ろし、防波堤に腰掛ける。その目が不意に左を向いたので、僕も釣られて視線を向けた。
「ちょうどあの岬の辺りです」と彼女は言った。「私たちの高校があったのは。もう、跡形もないですけど」
彼女の言った通り、そこには校舎の影も形も無かった。瓦礫すら無い。既に撤去されたのだろう。
「普通、学校っていうのはもっと高台にあるものだと思っていたよ」
僕が言うと、彼女は無表情のまま小さく頷いた。
「そういう常識が出来る前の、かなり古い建物だったんです」
「葵は」と、僕は岬の方を睨んだまま、口にする。「神崎葵はあの日、あの場所にいたんだね」
確認するように言うと、彼女は無言で頷いた。続いてくる言葉が無かったので、僕はさらに訊ねる。
「君は最後に葵に会った。そうだね、カナちゃん」
「神崎先生はまだ遺体で見つかっていません」
彼女の語気は静かだったが、まるで何かを拒絶するような言い方だった。しかし僕は躊躇無く言った。
「ああ。葵の遺体はまだ見つかっていない」
今度は彼女は何も言い返さなかった。唇を噛みしめ、制服のスカートの裾をきゅっと握りしめるのが見えた。
僕は水平線に目を向け、新たな煙草にライターで火を点ける。紫煙は潮風に吹かれて、すぐに消え去っていった。
「あいつが君を助けてくれたんだろう」
「三人、いました」彼女は呟くように口開く。「神崎先生以外に、私を含めて。でも助かったのは二人だけです。そのうち一人は遺体で見つかりました」
「友達?」
彼女は頷いた。
「はい。車椅子で生活していました」
「そっか」
仕方も無い、と僕は思った。しかし思った後でやりきれない気持が湧いてきた。そう思ってしまうこと自体が何だか間違っているような気がした。
「私は」と、彼女は呟いた。「私はあのとき、どうすれば良かったんでしょう」
あの日、カナちゃんは葵から原付自転車を貸し与えられたという。荷台にもう一人を乗せて、彼女は迫り来る津波から逃れた。後にその友人と葵を残して。
囁くような小さな声で彼女は語り出した。
「あのときは無我夢中でした。原チャリなんて初めて運転しましたし、もうパニックでわけが分からなくって……とにかく、その場から逃げ出すことで精一杯だったんです。でも後になって、怖くなってきたんです。私が神崎先生達を見殺しにしたんじゃないかって。そう思えてきて……」
「それは違うよ」
淡々と述べる彼女の言葉を僕は遮る。
「それは違う。君に責任なんて無いんだ。君の選んだ行動は間違いなんかじゃない。現実的に考えてあの状況下で全員は助からなかった。君たち二人が限界だったんだよ。だからそれは君にとっても、そして葵にとってもベストな選択だったんだ。あいつの死に対して君が責任を感じる必要は無い」
僕の言葉に一瞬、彼女の表情が強ばった。正確には、僕の言葉の中に含まれていた一つの単語に、だろうか。
「神崎先生の死亡認定はまだ出されていません」
「死亡認定は遺族の承認が無いと出せない」僕は冷たく言った。「あいつの両親は五年前に他界してるし、育て親の叔父とは不仲だったからね」
彼女は押し黙った。僕は続けた。
「葵の親族達は金持ちなんだ、すごく。いや、金持ちだった、って言うべきかな。今回の件で色々な責任を取らされているみたいだ。今はそっちで手一杯なんだろう。死亡認定を出す暇も無いくらい」
カナちゃんは無表情で水平線を睨んだまま、僕の言葉を聞いていた。何かを嫌悪しているようにも見えた。仕方もない。彼女はまだ十代なのだ。
僕はしゃがみ込み、そっと彼女の肩に手を置いた。彼女はそれを拒まなかった。誰かがしっかりと句読点を打ってあげなくてはならなかった。そして今、此処には僕しかいなかった。
「あれから四カ月だ」と僕は言った。「葵は死んだ」
カナちゃんは無言で僕を睨んでいた。何に対して怒ればいいのか、何に縋って泣けばいいのか、そもそも自分はどうすればいいのか、少し混乱しているようにも見えた。
「ハルさんは」と彼女は言った。「神崎先生と友達だったんですか」
本当に友達だったのか、と訊いているようだった。
だから僕はすぐに断言した。
「友達だった」
無言の視線が、僕を射貫く。
「友達だったよ」
僕のことなど何も信じてくれなくても構わない。でも、その事実だけは信じて欲しかった。もしそれが嘘なのだとしたら、どうして僕はたった一人でこんな場所まで来たというのだろう。
彼女は僕の目を見つめていた。僕も彼女を見つめ返した。しばらく潮風と波音が僕らを呑み込んだ。微かに海猫の鳴き声が聞こえた。でもそれは随分と遠くから聞こえてくるように感じられた。
やがて彼女は少し諦めたような吐息を漏らした。立ち上がり、傍らに置いていたギターバッグに手を伸ばす。
「これ、神崎先生から借りていたんです」
「道理で見覚えのあるバッグだと思った」
彼女はバッグのジッパーを開け、中から一本のエレキギターを取り出す。チェリーレッドの木目が鮮やかな、SGスタンダード。間違いなく葵の愛機だった。
彼女はストラップに腕を通し、海の方を向いて一度だけFの音を鳴らした。少しだけチューニングのずれた和音が海岸線に響いた。海風がその余韻を拭い去ったとき、彼女の表情からは今まで張り付いていた暗い強張りが消えていた。後には、微かに翳りのある寂寥が残った。たぶん、そういった儀式的な行為が必要だったのだろう。
一呼吸分の沈黙を挟んでから、彼女は僕にそのギターを差し出した。
「これ、ハルさんにお渡しします」
「いいの? 葵の形見だろう?」
「だからですよ」
そこでようやく彼女は微笑んだ。少し悲しげで、優しげな笑み。少なくともそれは僕には浮かべることのできない種類の表情だった。僕もぎこちないながらも笑みを返した。
「ありがとう」
「バンド、組んでたんですか、神崎先生と」
「大学の頃にね」僕はギターを受け取る。「僕と葵のツインギターのバンドだった」
「聴いてみたかったな」
「ああ、聴かせたかったよ」
「私、高校を出たら音楽の専門学校に行こうと思うんです」
「葵の影響?」
「はい」
「お勧めはしないよ」
「どうして?」
「結局、卒業間際には就職活動をする羽目になる」
彼女はつまらなそうに吐息をついた。
「ハルさんって、神崎先生と全然違うんですね」
「僕はあいつとは全然違うよ」
と、僕は苦笑した。
やがてカナちゃんは僕に別れを告げて帰って行った。入院している姉の面倒を見に行かねばならないらしい。
彼女の後ろ姿を見送った後、僕は防波堤に腰掛けてしばらくずっと海を眺めていた。二時間か、あるいは三時間ぐらいは経ったかもしれない。気付けばポケットの中の煙草は無くなってしまっていた。
夕陽が僕の背後に回り込み、海の彼方から夕闇が迫って来始めた頃、ようやく僕の瞳から涙がこぼれた。
本来ならば、それはもっと前に流すべき涙だった。嗚咽を漏らしながら泣いたのは本当に久しぶりだった。
葵、と僕は思った。
思って、僕は泣いた。
この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係がございません。
ですが少なくとも私にとって、限り無く真実に近い物語を紡いだつもりです。不愉快な思いをされた方がいらっしゃった場合は深く謝罪いたします。