98:伝播
50年代のクラシック音楽をかけながら執筆するのが楽しいので初投稿です
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1771年7月23日
パリは去年よりも大いに盛り上がっていた。
去年は赤い雨事件の影響もあってか、いまいち盛り上がりというものに欠けていたからだ。
それが今年の4月ぐらいから改革が本格的に始動を見せたことにより、人々の労働・購買意欲を刺激し、大規模な上下水道の整備工事が始まったパリを中心に、フランスは前年と比べても目に見えるレベルで大きな変化が訪れたのだ。
『君主代わりてフランスに春来る』
これは現在パリ市内で謳われている詩の一部である。
良くも悪くも王族として豪勢な生活を謳歌していたルイ15世の死去、正式に国の代表となったオーギュスト王太子ことルイ16世は、この時代からしてみれば革新的かつ大胆な社会制度の改革に着手した。
まだ16歳という若さでありながら、次々と着手していく改革。
まさにフランスで改革の春とも呼ばれる国民レベルでの意識改革が目に見える形で見え始めているのである。
若い王でありながらも、その実力は前国王以上。
そうしたこともあってフランスではルイ16世の事が「名君」「我らの国王陛下」「王の鑑」と様々な敬称で呼ばれているのである。
おまけに、貴族や聖職者だけでなく平民からも改革に参加している者が多くいるのだ。
フランスを変えるためにはどんな身分の者でも関係なく参加し、国民に広く改革について議論する場を設けることが重要だと改革式典で語ったルイ16世。
その言葉の通り、フランス全土で”改革”というものについて多くの人々が語ることになる。
識字率の高い都市部では新聞各社が改革についての意見進言やテーマなどを取りまとめた上で毎週に渡って特集を組んでおり、要望や新しい社会システムの構築について議論がなされていた。
農村部などでも、公布人によって改革の具体的な内容などを教えることによって、文字が読めない人でも理解できるように改革について説明が行われていた。
特にフランス中部に位置するブルゴーニュ地域圏では、農奴という言葉が無くなり、新たに『農業従事者』という名称で荘園に再雇用された元農奴達がいる。
彼らは生まれて子供の頃からずっと農業に携わってきた。
そんな彼らに新しい口癖が加わっている。
「俺たちは農業従事者、もう地主から理不尽な事はされないぞ!」
そう、これまで農奴という存在はほぼ奴隷と同じであり、彼らに人権というものすらあるかどうか分からない存在であった。
強いて言えば、存在だけでは認めてもらえていたので、年に数回ほど農業用の道具や布切れ、労働分の食料ぐらいを支給される程度であった。
……が、ルイ16世が年度末に施行した農地改革によって農奴制は廃止され、元農奴であった彼らは『荘園従業員』もしくは『農業従事者』という名前で働くことになり、彼らには労働分の賃金を支給されることになったのだ。
名称が二つほど出来たのには理由がある。
一つは、金塊公爵事件によって反改革派の貴族・聖職者がほぼ一掃され、彼らの財産や土地を国が没収したのだ。
土地に至ってはフランス全土の7パーセントにあたる。
決して無視は出来ない広さとなったのだ。
この広い土地で従事している数万人に及ぶ元農奴の人々の生活を考えた際に、ルイ16世はある命令を下していた。
それは土地を国が接収して国営化した農地経営を行う事を取り決めたのだ。
幸いにも作物が収穫を終えた時期……。
10月13日に反改革派の一斉検挙が行われた事で、事後処理や寒冷化に強い作物の栽培実験などを兼ねて、元農奴の人々を『農業従事者』という名前で雇用し、ジャガイモの栽培や輪栽式農業を再現するために接収し国営化した農場で早速管理・運営が実行に移されていた。
二つ目には、改革派の貴族・聖職者が有する荘園でも農奴が廃止されたが、それでも荘園に従事している元農奴の人達もおり、彼らは農奴という蔑称ではなく荘園を事業化したことにより、事業に参加している労働者という事で『荘園従業員』という名称に変更したのである。
荘園従業員は貴族・聖職者が有しており貴重な収入源にもなっており、2年間ほど国が従業員の給料の支払いや移住手当の支給などを行う見返りに、赤字経営で事業者が破産した場合には国が接収する仕組みを作っており、国庫に富を貯めるように新しい農業方法などを採用したりと模索段階を進んでいるのだ。
いずれにしても目に見える形で大きく変わったのはそうした社会的地位の最底辺にいた人達だろう。
必要最低限の生活が保障されただけでなく、食を作る職場を任された彼らには賃金が支給されるようになったからだ。
お金が手に入ったことにより、彼らは街に出かけて酒や清潔な服を買うことが出来るようになったのだ。
勿論、そうした地位にいた者達が全く差別されなくなったかといえばそうではない。
少なからず、国王陛下の命によってそうした”贅沢”ができるようになったわけで、何も彼らまでに金を与えなくていいという意見があったのも事実である。
しかし、ルイ16世がプロテスタント派やユダヤ人に寛容令を出したように、農奴廃止というこの時代ではかなり先進的な命令でもあったので、そうした意見は歴史の底に少しずつ沈んでいく。
代わりに、神聖ローマ帝国のヨーゼフ2世はルイ16世の助言を受けてフランスに教育使節団を派遣することを本国に帰国次第発表したのだ。
ルイ16世主導のブルボンの改革をオーストリアで行うにはリスクが大きいと判断し、急進的な改革の政策については当面の間見送る方針を決めたのだ。
「改革についてだが、まだオーストリアでブルボンの改革のような行為をするのは時期尚早だ……フランスには学ぶべき事が沢山ある。改革はそこから学んでからでも遅くはない」
そう母親であるテレジア女大公に報告した。急進的な改革を控える代わりにフランスに数百名規模の学生と研究者を送るという技術・思想の育成を兼ねた使節団でもある。
オーストリアとのフランスの結びつきは史実よりも強く結ばれるようになり、仏墺同盟の結束は揺るぎないものになっていくのであった。
やはり…某世紀末ゲームに出てくるラジオの音楽は…最高やな!