赤く染まる10
思えばここに訪れるのは2度目だ。あの時の俺は無知な男だった。敗北を知りたいなどと、どこかの死刑囚のような事を考えていた時さえあったかもしれない。震えそうな心を大きな深呼吸で落ち着かせる。この緊張感は何時ぶりだろうか。思わず2回目に倒した魔王の姿がちらつく。
(落ち着け、心を乱すな。俺は成長したんだ)
暑い日差しを感じながらも俺はある建物の前の入り口にたどり着いた。無意識に口の中を満たしていく唾液を飲み込み俺は一歩前に足を踏みだす。俺の存在を感知したのだろう。透明なガラスの扉が自動的に開き建物の中の冷気が俺の顔に当たった。外が暑かった分この涼しさは身体に染みる。
(以前は砂漠で昼夜彷徨った事さえあるというのに随分と軟弱になったものだ)
一度慣れてしまった生活レベルは下げる事が難しい。そんな言葉を金貸しのヤギシマ君で読んだ記憶がある。俺は随分と贅沢に慣れたって事なのかな。そう自虐気味に薄く笑いながらも俺はゆっくりと言葉をこぼした。
「どうも。連絡していた勇実です。田嶋さんいらっしゃいますか」
「はい! お待ちしておりました。どうぞこちらです」
以前にも会った女性に連れられてこの場所――田嶋不動産にまた足を踏み入れたのだった。
「お久しぶりです勇実さん。どうぞ座ってください。坂本さんアイスコーヒーをお願いします」
「ッ! ま、待ってください。田嶋さんそれなんですが――」
くそッ先制攻撃か! やるな田嶋、だが俺とて成長している。いつまでも無知な若造だと思ってもらっては困るのだ。ホットコーヒーなら兎も角アイスコーヒーはコーヒーの本来の苦みをそのまま俺の口内へダイレクトアタックをする事だろう。それだけは阻止しなくてはならない。ならどうすればいいか? 答は簡単だ。ミルクを用意してもらうこと。カフェオレにするのは無理だろうがコーヒーにミルクを入れるという行為自体は割とメジャーらしい。カフェオレに比べるとまだ苦いがそれでもコーヒーよりははるかにまし。以前の俺にその知識がなかった。ゆえに敗北したのだ。くくく田嶋ぁいつまでも俺に土をつけられると思うなよ。
「そうだ、良かったらミルクお付けしましょうか?」
ないすぅぅぅ!!! 坂本さんナイスです。そうそれ、それが欲しかった。どうやらあなたは出来る女性のようだ。後でポッキーをあげよう。思わず懐に入ってるポッキーを取り出して渡しそうになった。
「はぁ、坂本さん。勇実さんはブラックコーヒーを好まれている通な方です。ミルクやシュガーなどはコーヒー本来の味を遮ってしまう。先日取り寄せたアレを入れて下さい」
「そうでしたか。失礼しました。確か田嶋さんが先日取り寄せたアレですよね。少々お待ち下さい」
「ええ。お願いします。失礼しました勇実さん。さあ座ってください。ふふ実は勇実さんの影響で元々は紅茶の方が好みだったのですが最近はめっきりコーヒーにハマってしまいましてね」
たじまぁぁあああ!!!! 何言ってんだ貴様! いいだろミルクとか砂糖入れても! っていうかお前紅茶の方が好きだったらそっち出せや。紅茶いいじゃん。好きだよ? 午后の紅茶とか好きだよ?
「べ、別に紅茶でも大丈夫ですよ」
声が震えているのが自分でもわかる。拙い落ち着け、こうなれば仕方ない、大人しく飲むとしよう。ここ最近カフェオレを飲むようになり多少のコーヒー耐性が付いてきているはずだ。大丈夫だ問題ない。
「最近気になっていたコーヒーがありましてね。ちょうど勇実さんがいらっしゃるという事なので取り寄せていたんです」
「そうですか。それは……たのしみだ」
以前にも座ったソファーに腰を下ろす。思わぬ攻撃を喰らったがまだ挽回できるはずだ。いいさ飲もうじゃないか。俺はバジリスクの毒ですら抗体がある男だ。そう考えていると部屋のドアをノックする音が聞こえる。
「失礼します。コーヒーをお持ちしました」
「ああ。来たみたいですね」
「ええ。そのようですね」
ニコニコとしている坂本さんと田嶋をよそに俺は精神統一をしていた。心を乱すな大丈夫だ。そう俺は以前コーヒーに救われた事だってある。何も問題はない。ただ俺がコーヒーの味を苦手としているだけの話。そうコーヒーは敵じゃない。友達だ。
などと考え頭を振った。我ながら意味が分からない事を考えているな。まあいいさ、さっさと飲み干してしまおう。
「さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
震える手を必死にごまかしコーヒーカップを持つ。ゆっくりと持ち上げ口元へ移動。コーヒー独特の匂いが鼻を刺激する。この匂いは嫌いじゃない。しかしなんだろうか。随分変わった匂いがするな。
「気づかれましたか。今回用意したコーヒーは世界でも高価なコーヒーで知られているものなのです。独特の複雑な香味がこのコーヒーの売りなんですよ」
そういって田嶋は一口コーヒーを飲んだ。
「素晴らしい。高ければいいという思想は好きではありませんが、このコーヒーには確かにその価値がある。さあ勇実さんもどうぞ」
「――いただきます」
ゆっくり唇を濡らす程度にコーヒーを近づけそしてゆっくりと口の中に入れた。コーヒー独特の苦みが口の中に広がるがそれと同時にこのコーヒー独特の香りが口の中から鼻へ突き抜けるように広がっていく。んん? 美味い? いや苦いっちゃ苦いのだがこれは思ったより飲めそうだ。
「――美味いですね」
「ええ。そうでしょう」
驚いた。まさかカフェオレ以外に飲めるコーヒーがあるなんて思いもしなかったぞ。なんだやるじゃないか田嶋。どうやら俺はお前を誤解していたようだ。てっきりお前は俺を苦しめる魔王のような存在だとばかり思っていたよ。すまなかったな。そう思いさらに一口飲んだ。うん、意外に飲める。
「これは何て名前のコーヒーなんです?」
「これは”コピ・ルアク”というコーヒーです。ご存じですか?」
「いや、初めて聞きましたね」
なんだ。頭の中で警報が鳴っているような気がする。この悪寒はなんだ? 霊の気配なんて感じない。
「おや、そうですか。これは世界的に有名なコーヒーなんですよ。それに結構特殊な方法で豆を採取するのでそういう意味でも有名なコーヒーなんです」
「へぇそうなんですか。どういう方法で?」
なんだ。この悪寒の正体は。俺の細胞が魔力が、魂が警報が全力で警報を鳴らしている。これ以上聞いてはいけない。踏み込んではいけないと。
「これはですね――」
一瞬、この部屋の音がすべて消失したように感じた。時計の針が動く音も服の衣擦れの音、遠くで聞こえる車の音。そういったこの世界を作り上げる様子がすべて一瞬消えたかのような錯覚。
「ジャコウネコの
そ、それって、もしかしなくても……うんk――。
「はッ! こ、ここは」
「お気づきになりましたか勇実さん。良かった急にソファーの背もたれに倒れたので救急車を呼ぼうか迷っていたのです。体調は大丈夫ですか?」
「――ええ。大丈夫です。ええ。もう本当に大丈夫ですとも」
こ、こやつ! なんてものを飲ませやがった、たじまぁあああああ!!! くそ、美味しかったのが余計に悔しい。普通そんな場所から採取した豆を飲もうとする? いやしないよね? どうなってんだこの世界。
「申し訳ありません。少し疲れが出たのかもしれないです」
「いえ、本当に大丈夫ですか?」
「はい、そうだ本題に入りましょう」
いいよ認めよう。俺に二度も敗北を与えた男、田嶋彰。どうやら貴様は俺のライバルとなる男のようだな。今は引くとしよう。見ているがいい。必ずコーヒーを克服し貴様に勝利する。
「そうですね。なにやら聞きたい事があるという事でしたが」
「そうです。この物件をご存じですか」
俺はそういうとスマホの画像を田嶋に見せた。朝里より送信してもらった直人が使っていたという物件の写真だ。田嶋はその画像を見ると一瞬眉を顰めた。どうやら知っているようだ。
「……どこでこれを?」
「今対応している依頼人から教えてもらいました。どうやらただの事故物件ではないようですね」
「そうですね。これは確か金沢さんのところの物件でしたよね」
金沢。朝里から聞いていた不動産会社の名前か。
「はい。そう聞いています」
「……詳細をお話するのは構いませんが、正直あまり深入りしない事をお勧めします」
「ん、それはどういう意味ですか」
「金沢不動産は少々後ろ暗い話があるんです」
後ろ暗い話ね。なるほどますます臭う感じだ。
「それはどんな話ですか」
「勇実さんは宗教団体”
「聞いたことはあります」
またそのサークルか。
コーヒーネタはくどいと言われたことがあるのですがまぁ久しぶりなので許して下さい……。