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幕間 果敢無き姫のうたかたの夢・五


 霊園の出口へと向かいながら、母との日々を想う。


『──嬉しい時は笑うんだよ。ほら、こんな風に!』

『こう、でしょうか?』

『おおぅ……機械的に口角を上げただけなのに、美少女すぎて破壊力が高すぎる……』


『──怒った時は、こう、眉根を寄せて、頬を膨らませて……』

『むぅ?』

『あー! 可愛い! かっわいいですよ、これは!』


『──かなしい時は……うーん、これは要らないや』

『そうなのですか?』

『そーなのですよ!』


『──楽しい時はねぇ、またまた笑っちゃおう!』

『笑うことばかりですね』

『うん。……人生ってね、そういうものなんだよ』


『今の所、喜怒楽ですね。四字熟語になりません』

『そーだねぇ。じゃあ──愛!』

『あい?』

『そ、愛情の愛で、喜怒()楽!』

『はあ』


 思い出せば思い出すほど、ばかげている。


 なんと夢見がちな母親だろうか。

 そして……なんと、夢のような母親だろうか。


「ふふっ」


 明るく、朗らかで、自信に満ちた母親だった。

 彼女が自信なさげにしていたのは、記憶にある限り一度だけだ。


『……わたしじゃ本物の笑顔は教えてあげられないなぁ』


 あたしが寝ていると思って、布団の横でそっと呟いた、あの時だけ。


『きっと……いつかきっと、あなたの前にも本当の英雄(パートナー)が現れる。それまでは、わたしがあなたを守るよ』


 そして、それが──あたしの聞いた、彼女の最期の言葉になった。


 でも彼女は約束を破ったわけじゃない。

 だって、それからすぐに英雄は来てくれたんだもの。




 ♢♢♢♢♢




 無論、あたしだって初めから彼のことを英雄だとは思っていなかった。

 しかも最初に教え込まれる感情(キズ)が”恋”だなんて、夢にも思っていなかった。


「ご、ごめんね、クシナ」

「ううん。いいのよ」


 初めて手を繋いでからしばらくは、代償(至福)の時間はこなかった。

 元より彼は、あたしに触れるのを遠慮して天稟ルクスを使わないようにしていたからだ。


 だから、あたしは思った。


 ──なら、天稟ルクスを使わせればいいだけだ、と。


 思い立ってすぐ、ワザと彼の前で物を落としてみせた。

 案の定、彼は天稟ルクスを使ってくれた。

 申し訳なさそうにあたしに代償(褒美)を求めるのが、堪らなく愛おしかった。


 そのうち手を繋ぐだけが『接触』ではないと気づいてからは、その先を求めるようになった。


「ねえ、イブキ。ひょっとしたら、もっと接触の度合いが高い方が早く済ませられるんじゃないかしら?」

「え? 接触の度合いって……」

「ほら例えば、抱きしめる、とか」

「だ──っ!? い、いやいやいやっ、ダメだろそんなの!」


 普段は「可愛い」だとか「綺麗」だとか平然と言えてしまうクセに、こういう時は恥ずかしそうにするのだ。

 ちょっぴり顔を赤くして後ずさる彼はとても可愛らしい。


 でも、逃がしてあげない。


「あたしだって毎度時間をかけていられるほど暇じゃないの。──ほら、一度でいいから、試してみましょう?」

「うーん……わかった」


 そうして恐る恐る両腕の外側から抱きしめられた瞬間。


「────っ」


 手を繋ぐよりもずっと強く、頭の芯が痺れるような心地がした。

 永遠にも感じられるそれが不意に終わると、


「…………これからは、代償アンブラが多い時は、こうしてくれていいから」


 依然ぼうっとしている彼にそれだけ言い残して足早に去る。


 向かった先は、姿見のある場所。

 電気もつけていない暗い部屋で、鏡に写るあたしは──だらしなく口角を緩めていた。


 そう。


「ふ、ふふ……」


 本物の笑顔(・・・・・)を、浮かべていた。


「──あはは……っ!」


 そこからは、簡単だった。

 最初のハードルを超えてしまえば抵抗感は薄れる。


 あとは、ちょっとずつ彼の自制心を溶かしていけばいい。

 そうして手を繋ぐことを、抱きしめることを、日常にしてしまえば天稟ルクスを使うことにも抵抗がなくなっていくだろう。


「幼馴染なんだから、ちょっとくらい距離が近くても変じゃないわ」


「幼馴染なんだから、そんなに気を使わなくていいのよ」


「幼馴染なんだから、遠慮しないで?」


 彼にとってか──あるいは私か。

 それはまるで麻薬のように生活に溶け込んでいった。


 たまに普段よりも強く抱きしめられると、痛めつけられているようで──(キズ)つけられているようで、ぞくぞくが強まった。


 幸せで幸せで……そんな日々が永遠には続かない。




 ♢♢♢♢♢




 本物の笑顔を知ってから幾許いくばくかの時が過ぎる。


 まるで、初めて蜜の味を覚えた赤子がそればかりを所望するように。

 その間のあたしは、甘美な接触に酔いしれていた。


 そしてある時、彼女(・・)はやってきた。


「ようやく見つけました。まさか、こんなに近くにいるだなんて思いませんでしたよ」


 警戒するあたしに彼女は微笑む。


「そんなに警戒しないでください。──貴方のお母さんの話をしに来たのです」


 そうして彼女に連れられて訪れたのが、【救世の契り(ネガ・メサイア)】という組織だった。

 そこであたしは初めて知ったのだ。


 母が、櫛引ハキリがどういう人間で、どんな夢を持っていて、……どういう最期を迎えたか。


「〈刹那セツナ〉が既に亡くなっていることを隠し通すのも限界です。上層部の警戒が解ければ天秤リーブラは攻勢に出るでしょう。そうなれば組織の立て直しは不可能かもしれません」


 彼女はあたしに笑いかけた。


「そうなる前に貴方にハキリのことを伝えられて良かった」


 その日、どうやって帰ったかは覚えていない。

 けれど、家に帰って手を洗おうとして見てしまった鏡に写る自分だけは覚えている。


『嬉しい時は笑うんだよ。ほら、こんな風に!』


「…………ぅ」


かなしい時は……うーん、これは要らないや』


 お母さんの言った通りだ。

 こんなもの、要らない。


「……ぐすっ」


 だけど、あたしは”嬉しい”も”楽しい”も知ってしまったの。


 だから──その逆も、知ってしまったの。


「ぅぁああああああああああ……っ!!」


 お母さん。

 あたしね、本物の涙も流せるようになったよ。


 ようやく、貴女のために泣ける。

 それだけの感情を教えてもらっていたみたいだよ。




「──あたしが、母の後を継ぎます」


 宣言すると、彼女は驚いたように目を瞠った。


「あたしが〈刹那セツナ〉になる。あたしになら、それができる。そうすれば天秤リーブラは攻勢には出られないでしょう?」


 彼女はどこか辛そうな表情で、されど首を横に振ることもしなかった。




「クシナぁ。さっき《分離》使っちゃってさ、手、握っても……」

「ば──バカじゃないの? 恥ずかしいから、やめて」

「え……?」


 彼はいたく驚いたようだった。

 そんな表情を見て、思わず顔を逸らす。


「といっても、あたししかいないわけだし……今回だけだからね」

「う、うん……ごめん」

「…………っ」


 違うの。

 謝らなきゃいけないのは、あたしなの。


 ごめんね。

 最初から最後まで我儘でごめんね。


 でも、母の後を継ぐと決めてしまったから。

 寿命を削ってでもやると決めてしまったから。


 ──別れがどれだけ”哀しい”ものか、あたしは知ってしまったから。


 これ以上、貴方には甘えられない。


 そう、甘えだ。

 今までのは全部、独りよがりなただの甘え。


 自分が蜜に浸っていたいからと貴方にもたれかかる。

 そんなの絶対、愛じゃない。


 貴方がくれた(花束みたいな)献身ディヴォーション


 あたしはそれを返したいの。


 両手いっぱいに抱えきれないほどの、本物の愛(・・・・)を──。




 ♢♢♢♢♢




 正直に言うと、今でも気持ちが昂ると思わず抱きしめてしまいそうになる。

 膝を擦り合わせて(・・・・・・・・)必死で抑えているのを、イブキはあたしが恥ずかしがっていると思っていることだろう。


 でも、それでいい。

 気づかなくて良い。


 これ以上、あたしたちの仲が深くなるわけにはいかないのだ。


 でないと、あたしが彼の前から消えた時に感じる”哀しみ”がどんどん大きくなってしまう。


 あたしはキズ付くのを望んだけれど、傷ついて欲しいわけじゃない。


 今でも充分、傷は深いものになるだろう。

 それくらい大切に想われている自覚はある。


 けれど、大丈夫。

 だって貴方には、あたし以外にも貴方のことを想ってくれる人がいる。


 彼女に任せればいい。

 あの子ならきっと、太陽のように貴方の心を照らしてくれるだろう。


 だから、あたしは大人しく身を引こう。


 ……そう、思っていたのに。


『わたし、お兄さんのこと──』

『──待って』


 あの子が何かを告白しようとした瞬間。

 あたしは衝動的にそれを遮ってしまった。


 どうしてか、自分でも分からなかった。

 どうしたいのかも、分からなかった。


 だから、あたしはあたしの気持ちを知りたいと願った。


 初めてあたしと彼が出会ったあの場所なら、それが分かる気がした。

 十年前は何一つ分からなかったけれど、今のあたしならきっと分かる。


 全くもって、非論理的で非合理的だ。


 でも、そうでなくては自分の気持ちなんて分からないのだと思う。

 だってあたしの大好きな人たちは皆、そうやって”本物の感情”を燃やして生きているから。


「…………」


 宿の一室。

 広縁ひろえんに置かれた椅子に腰掛けて、ぼんやりと外を眺める。


 お墓参りの後は貴船神社や上賀茂神社を参拝した。

 中枢からも東側からも離れているからであって、それ以上の深い意味はない。


 京都駅のそばに戻ってくる頃にはすっかり夜だった。

 途中下車してしまったことで懐が心配なこともあって、今宵の宿は質素な民宿だ。


 ふと時計を見れば、かれこれ数時間が過ぎようとしていた。

 もう夜明けも、そう遠くない。


 部屋の中央を見れば、くっつけて並べられた二つの布団。

 その片方では、何も考えていなさそうな顔で幼馴染がすやすやと寝息を立てていた。


 そっと立ち上がり、ゆっくりとその隣に身を横たえる。


「イブキ……」


 小さく、呼びかける。


「ん……」


 起きたわけではない。

 なのに、呼ばれたのが分かったかのように彼は寝返りを打った。

 こちらを向くその顔に手を伸ばし、


「────」


 その手を、頬に添えてしまいそうになる。

 けれど、それはほんの刹那のこと。

 そのまま通り過ぎて、柔らかくウェーブした髪を一度だけく。


 それから、寝返りでずり落ちてしまった掛け布団をそっと肩まで引き上げた。

 その横で、ゆっくりと、瞼を落とす。


「おやすみなさい」


 夜が明けるまで、それほど時間は残っていないけれど。

 泡沫(うたかた)に消えてしまうくらいの夢は、見られるだろうから。


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