第7話 櫛引ハキリ
その墓標は、霊園の一角に忘れられたように佇んでいた。
蜘蛛の巣に一言「ごめんね」と声をかけて草木の方へと
白く煤けた表面を水が滑り落ち、黒石が
そこには『櫛引家』と簡素な文字が彫られていた。
ひと通り丁寧に手入れしてから、クシナは墓前に立ち手を合わせた。
数分か、あるいは十数分か。
神聖な祈祷を捧げるように黙して黒髪を靡かせる幼馴染の背を眺めていると、
「あたしね、ほんとに小さい頃の記憶がないの」
風に乗ってこちらに届く程度の声音で、彼女は言った。
「目覚めた時には7、8歳で、周りがドタバタしてたのは覚えてるけど、詳しいことは記憶にないの」
「昔のクシナ、意外と寝起き悪かったもんね」
「……それは今はいいのよ」
最近は早く起きてるもん、と唇を尖らせる気配がした。
ややあって、
「それからずっと、一切の刺激が排除された屋敷の中で死んだように生きていたわ。一年くらい、なのかしらね……」
「…………」
クシナに見られてなくてよかった、と思う程度には剣呑な表情をしている自覚があった。
死んだように生きていた。
それがどういう状況を指すのかは、彼女の幼少期を知っていれば想像はつく。
きっと、その想像を軽く超えるくらい徹底されていただろうことも。
そうして刺激から隔離されていたなら、具体的な年数すらもよく分からなくて当然だ。
ただ、うちの幼馴染の体内時計は正確だから、この子が一年と言うのならそれが正しいのだと思う。
7、8歳となると……ちょうど
……
「そんな日々を過ごしていた時、
クシナが、そっと墓石に片手をのせた。
「本当にいきなり目の前に現れて、こう言ったの」
──『退屈そうだね、お嬢さん』
ふふっと笑いながら振り向き、俺を見る。
「あたし、なんて返したと思う?」
俺が肩をすくめると、彼女はこほん、と咳払いして、
──『”退屈”とは、なんでしょうか?』
無表情で、過去の再現をするように言った。
「それは、また……」
「驚かせに来て逆に驚いてる彼女の顔、いま思い出すと笑えるわ」
くすくすと肩を揺らすクシナは、墓下の
「櫛引ハキリ。それが、あたしの母の名よ」
♢♢♢♢♢
朗らかな陽光が木々と共に揺れ、心地の良い風が頬を撫ぜていく。
俺たちは霊園の隣にある公園を歩いていた。
「初めてあたしの前に現れてからというもの、母さんは何度もあたしの部屋にやってきたわ」
「その屋敷って、そんな簡単に入れるもんなの? 話を聞くかぎり……」
「ええ、そうね。恐らくとんでもない警備が敷かれていたはずよ」
用水の流れをじっと見ながら、クシナが言う。
「それでも彼女がやってこれたのは、彼女の
「うぇ……!?」
急に問題を出されて狼狽える。
「えーと……」
「はい時間切れ〜」
「はやくない!?」
俺を覗き込む彼女の口角は少しだけ愉快そうに持ち上げられていた。
「正解は、《転移》よ」
「……! なるほど」
道理で、という納得があった。
はっきりと言及してしまうと、
引き起こされた事象からは、テレポーテーションにも見えるだろう。
というか、初見だとそれにしか見えない。
しかし、何度も交戦をしていれば、違和感に気づくはずだ。
例えば
元々クシナの戦闘回数は多い方ではないが、彼女の本当の
と、今までは呑気には思っていたのだが……。
「先代の〈
「そ。中身が入れ替わったと知られていなければ、あたしの
「というか、そんなの気付けないだろ……」
トリッキーにも程がある。
呆れていると、クシナが真っ直ぐに微笑んだままこちらを見ていた。
何か聞くことはないの、と言わんばかりに。
……これまで、俺たちの間には誓いがあった。
『お互いが喋りたくないことは無理に喋らなくていい』
子供が思い描く、理想の友人関係だ。
普通、不満と共にとっくに爆発しているはずの幼い友人関係でもある。
もちろん訊きたいと思ったことは沢山あるし、過去のことについてもそうだ。
それを自分から話しはじめたということは、
……少なくともこの件に関しては。
「じゃあ」
俺が聞きたいのは、今はこれだ。
「
クシナは一瞬、意表をつかれたように目を丸くした。
それから愉快で仕方ないという様子で笑う。
「なるほど、素晴らしい質問だわ」
たしかにねー、と笑うクシナ。
「どっちの効果も狙った、というのが正解ではある。けれど〈
後者。
つまり
言い換えれば、先代〈
クシナは現在の【
原作主人公であるヒナタちゃんや相方のルイと比べても、現時点では彼女らを凌駕していると言わざるをえない。
そのクシナを
櫛引ハキリには。
「……いったい、どれくらい強い人だったんだ?」
掠れた声。
言葉を発して初めて、自分の口がからからに乾いていたことを知る。
「彼女の強さを言葉にするよりは、彼女の立場を伝えた方が分かりやすいでしょうね」
一呼吸おいて、
「先代【
「……っ!? それは……!」
クシナは不敵に、あるいは自慢するように言った。
「正義の天秤の最高点、そこへ最年少にして腰掛けた無類の存在」
知っている。
知らぬ者などいないだろう。
「本名、素顔共に謎に満ちた彼女を人々はこう呼んだわ。──天秤の英雄〈