第33話 白
──同刻。第十支部、【星の塔】貴賓室。
中央のソファーに腰掛けるのはローゼリア・C・ブルートローゼ。
今回の事件の責任が問われることは想像に難くないだろうに、彼女は悠然と足を組み、コーヒーの香りを楽しんでいた。
「淹れ方が良いな」
「──どうも」
賛辞に応えるのは副支部長・信藤イサナ。
ソファーの後ろに立ち、腕を組んで壁に寄りかかっている。
「貴様は此処にいていいのか?
「
「おや、耳に痛いことだ」
背後から返される素っ気ない毒に肩をすくめる。
コーヒーをソーサーに置いてから、ローゼリアは本題を切り出した。
「半額だ」
「……と言うと?」
足りない言葉に、イサナは問いを返した。
「妾の財閥から【
「ほう」
思ったよりも相手の反応が淡白なものだったことに、ローゼリアは眼を細めた。
そして次の瞬間、その表情が歪むことになる。
「全額、で手を打ちましょう」
「……なに?」
背後でイサナが含み笑いしたのが分かった。
「11億4,600万ユーロ、耳を揃えて帳消しにしていただきましょう。禍根の帳消し、と言うのなら、こちらもそうしてもらわねば
「…………」
ローゼリアが足を組み替える。
「死の商人を前にその豪胆さ。シンドウ──貴様、強欲だなァ?」
肩越しに振り返って、愉快そうな嗤いを見せる。
対するイサナの表情に変化はない。
「そういう貴女は傲慢では? 正義の天秤に喧嘩を売るなどと」
「それが妾の生業だからなァ、クくく」
ひとしきり笑ってから、「いいだろう」とローゼリアは頷いた。
「貴様らにとっては大金だろうが、妾にとっては端金だ。構うまいよ。それで今回の件については手打ちにしようではないか」
「ええ。ご理解のほど、感謝致します」
多少なり面白いものが見られるかと思ったが、期待以上だ。
ローゼリアは楽しげに鼻を鳴らした。
──しかし期待はずれもあった。
その後すぐに飛び込んできた〈
(ふむ、あまり振るわぬ結果だったな。所詮は快楽殺人鬼、ケモノか)
一方的な殺人を是としない闘争の売人からすれば、アレは所詮駒の一つに過ぎない。
どちらかというと興味深いのはこの支部の
(問題児が集まる支部だと聞いていたが、中々どうして優秀な
〈
だが、この支部の戦力を図るのにそれなりの仕事をしてくれたのは確かである。
(
笑みを深めたローゼリアは、一度、指を鳴らした。
(存分に、暴れるがいい)
♢♢♢♢♢
ようやくと言うべきか、予備電源が機能し始め、支部内には安堵が広まっていた。
それは【星の塔】に集まる子供達もそうだ。
「それじゃあ、エレベーターがまた動き始めたみたいだからぁ、とりあえずみんな下へ行きましょうかぁ」
ツアーガイドを務める緩い雰囲気のお姉さんが言うと、子供達は口々に「はぁ〜い」と返事する。
さっきまで事件に巻き込まれていながら、危機感が薄いのは〈
〈
終わってみれば、一貫してヒナタの圧勝。
本来なら恐怖体験では済まなかったところを、今回はせいぜいが「なんか怖いアトラクションに乗っちゃったな」程度の感覚なのも仕方がないと言える。
仮にイブキがこの状況を見ていれば「原作1巻の敵を4巻くらいの主人公が倒しにいったようなものだからな……」と遠い目をしていたことだろう。
──しかし、危機意識の低さは伝達する。
弛緩した空気の中にいると、本来は気を張っているべき人間まで緊張感が薄れてしまうというのは、よくある話だ。
支部最強とまで称される
──だから、それに気づけた人間はいなかった。
倒れたはずの〈
ヒナタと戦っていた時よりも基礎身体能力が段違いに上がっている。
そうとしか思えないほど一瞬で成された出来事だった。
彼女は例によって影の中に潜行する。
──影の世界は水中のようなものだった。
現実世界の影ある場所は水面で、そこから影の世界へと出入りすることができる。
その水面の一つを見上げる〈
「………ッ、……ッ!!」
彼女の正常な思考は、すでに失われていた。
底上げされた身体能力とは反対に、思考能力が奪われたというのが正しいだろう。
一時的な
それが今の彼女の身に起きている劇的な変化の正体だ。
けれど、彼女がそれを自覚することはない。
正常な思考能力を欠いた彼女の脳内を支配するのは、復讐心だけだった。
《
その
効果は『人の記憶に残りにくい』というもの。
これによって彼女がどれほど苦労の人生を送ってきたのかについては語らない。
ただ、彼女がそれを薪として心にくべ、世界に対する復讐にまで辿り着いてしまったのは不幸であったと言えるだろう。
それによって彼女が引き起こした事件は許されざるべきものだが。
──そして今もまた、その『希薄』さと復讐心が新たな悲劇を生もうとしていた。
そんな悪意は露とも知らず、ツアー一行は愉快に移動を始める。
その最後尾。
黒髪を後頭部で一つ括りにした幼い少女が歩いている。
──ああ、アイツはあの目立つ奴らの連れだったなァ。
〈
「このままだと、あのきもい兄様と一緒に帰らねばならぬぞ……」
ツクモはツアーの最後尾について歩いていた。
理由は”きもい兄様”=デコイくんに近づきたくないからである。
彼(?)はツアーの前方でポワポワした
内容はツクモの知ったことではない。
彼女は逃避するように手元のハツカネズミへと声をかける。
「なあ、フェニックス。兄様はいつ帰ってくると思う?」
しきりに首を傾げるだけで、ネズミが口を開くわけもない。
ため息をついたツクモの後ろ、──影が、蠢いた。
「む?」
たまたまフェニックスを上に持ちあげていたため、ツクモは視界の端のそれに気づくことができた。
そして──
♢♢♢♢♢
《付与》。
万物への上書きを可能とする
それは千紫万紅、無限の色を持つ万物を塗りつぶすことに近い。
では、その神をも恐れぬ
──”黒”である。
黒こそが、全てを塗りつぶす
──では、
──そう、”白”である。
危機が目の前に迫った時、ツクモはイブキの言葉を思い出した。
──『ツクモ、
(これは、命の危機というやつだろうな)
冷静にそれを見てとって、
ぐしゃ、と。
次の瞬間、
「ぐべ──っっ!?!」
──それはまるで、不可視の巨人に
振り返るツクモの目の前で、〈
殺人鬼は、それが目の前に幼い少女の
少女の手の中では──握りつぶされたはずの
「くふ」
ツクモは笑う。
それはまるで──無邪気な子供が虫を叩き潰すように。
『無垢』。
いつまでも、どこまでも、白く白く無邪気にあり続けること。
それが、
黒く塗りつぶされ、弾けた殺人鬼が地面に落ちる。
彼女が既に息をしていないことも。
周りで悲鳴が上がることも。
「兄様、早く帰ってこないかなー。な? フェニックス」
無邪気で無垢な少女には、無関心な出来事の一つでしかなかった。