第30話 世界の中心で
このご時世、男慣れしている女なんて一握りしかいない。
稀にいる夫婦仲が良好な家庭の子か、兄弟がいる子くらいだろう。
両親の仲が良いだけでなく、身近に年上の異性がいたヒナタは一般的にはかなり男慣れしている括りだ。
翻って自分といえば夫婦仲とか無いし、なんだったら母親とすら関係最悪だし、身近に異性がいるどころかロクに会話したことも数えられるほど。
無論、身体的接触なんてものは人生で一度もない。
いや、「なかった」と言うべきか。
──あの忌々しい懺悔室での一幕まで。
あれはもう、墓場まで持っていくしかない恥である。
だからそう、
「………………は?」
〈
思考に一瞬の空白が生まれたのは、無理もない。
「────」
ルイが再起動したのは、自身の身体が落ち始めてからのこと。
《念動力》は「自重以下の物を動かす」
成人男性の体重まで上乗せされては、必然、堕ちるより他にない。
「こ、の……っ! 離れろ……っ!」
自分を抱きしめる腕を外そうとジタバタもがく。
──っ、意外と力、つよい……っ!
こんなヘラヘラしたクズ男一人剥がせない自分に苛立ちながら、ヘリポートの地面が迫りくる恐怖に目を瞑る。
しかし──、
「…………っ?」
優しく横たえられたような、ふわりとした感覚と共に、背中に離着陸場の冷たい感覚が伝わってくる。
同時、頬にぽたりと生暖かい水滴が落ちてきた。
恐る恐る瞼を上げて──目を瞠る。
端正な美貌が、目の前にあった。
「フーッ、ぅぅう……っ」
唇の端を血が出るほどに噛み締め、苦悶の表情を浮かべた、美貌が。
♢♢♢♢♢
──そんなルールは、ない。
確かに不意打ちで発動してしまった場合、衝動の濁流に容易く呑み込まれてしまう。
けれど、来ると分かっているものに全力で争えば思考力を保つのは可能だ。
しかし、濁流の勢いが強ければ強いほど耐え難い苦しみになるのは間違いなかった。
(根性出せェッ! 指宿イブキッッッ!!)
口の端から血が滴り落ちるのも気にせず、
自分から掴み掛かりにいった今回だからこそできる荒技だ。
下に敷かれたルイが、驚いた様子でこちらを見上げていた。
その隙に、彼女の華奢な両手首を地面に押さえつける。
「あ……っ!?」
ハッとして睨みつけてくるルイ。
視界に操れる武器は無く、両手の自由まで奪われた彼女には為すすべがない。
まずは──こちらの言葉に耳を傾かせる。
「さっき言ったのは、全部嘘だッ!」
口にした瞬間、ルイの抵抗が止まった。
「………………はあ?」
疑念や呆れですらない。
こちらの言葉が妄言であると確信している。
その上で、コイツが妄言を吐く狙いは一体どこにあるのだろうという探る眼差しだった。
──当たり前だ。
自分が今からしようとしているのは、鳥籠から飛び立った小鳥を再び捕らえた上で「傷付けないから俺の傍を飛んでくれ」と説得するようなものなのだから。
無謀は承知。
けれど、可能性はゼロじゃない。
なら、やるしかない。
信じてなかろうが、こちらの言葉に耳を傾けたというなら重畳。
これからその不信を解くまでだ。
「考えてみてくれ。俺が君を挑発しても意味なんてないだろう? 怒らせたところで、君に全力で殺されるだけだ」
ルイは、フッと嘲笑を浮かべた。
「結果論ね。そんな言葉で惑わされるとでも? ワタシの平常心を乱そうとしただけでしょうに」
言葉尻に合わせて、蹴り上げようとしてきた。
慌てて、馬乗りになって押さえつける。
「ちょっ、あぶなっ! 話を聞けって!」
「黙れッ!」
どうにか拘束を解こうと暴れるルイ。
落ち着けと言って落ち着く相手じゃない。
一刻も早く説得するしかなかった。
「だったら! 今こうして君を抑えている理由がないだろう!? とっとと始末すればいいだけだ!」
「それは……っ」
一瞬、言葉に詰まったのを見逃さない。
相手に何かを言わせる前に、矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「命懸けて君を倒して、その上で説得なんてする意味がない!」
「…………」
動きを止めたルイ。
ゆっくりと口を開いた彼女は落ち着いた声音で言った。
「……あるわ」
そこに浮かぶのは、侮蔑の表情だ。
「お前が言ったんじゃない。都合の良い駒を作ろうとしているだけだって」
「───っ」
今度はこちらが言葉に詰まる。
自分の言葉に首を絞められ、苦し紛れに繰り返す。
「だからそれは嘘で……っ! 駒にしようとしてる相手にそんなこと教える馬鹿はいないだろう!?」
「さあ? より深い信用を得られるんじゃないかしら?」
相変わらず嘲笑で美貌を彩るルイが冷静にそう言った後、
「──ヒナにそうしたようにねッ!!」
憤激と共に、歯を剥いた。
「………っ」
これではいくら繰り返しても無駄だ。
(ルイの中で、ヒナタちゃんの存在がでかすぎる……っ)
結局ルイがこちらの説得を受け付けないのは、イブキがヒナタを利用したという前提があるが故だ。
その前提が崩れない以上、彼女への説得は不可能。
(俺がヒナタちゃんを利用するなんて、そんな風に思われない何かが……──あ)
それは、この状況にあっては荒唐無稽にすぎる思いつきだった。
正気の人間なら天地がひっくり返っても、やろうとは思わないだろう。
けれど、
だから、思いついたままに叫んだ。
「俺はァ!! ヒナタちゃんが大好きだぁぁぁあああああ───ッッ!!」
二人きりの屋上に、木霊する絶叫。
「……………………………………は?」
今度こそ、ルイから一切の抵抗が消え失せた。