幕間 残響・上
──音楽が好きだった。
父は小さい頃に、ワタシと母を残して蒸発したらしい。
おかげさまで、ワタシは六畳二間のアパートで自室を持てた。
どんな男だったか聞いたことすらない。
どうせ碌でもない男だ。
そんな碌でもない男に引っかかった母も、碌でもない女だ。
毎晩違う男を連れ込んでは、お金を恵んでもらって生きている。
こんな世の中では、女をお金で抱くのは高くつく。
その程度の存在に縋ってしか生きられない女は、もっと最低だ。
少なくともワタシにとって、母は唾棄すべき存在だった。
母が身を売ったお金で養われた、というのであれば話は変わったのだろうが。
生憎、まともに養育された覚えもない。
食事は一日一回、学校で出される給食だけ。
少子化対策の学費無償化がなかったら、ワタシは小学校にすら通えていなかっただろう。
今頃とっくに、餓死してる。
まあ、その学校も、ワタシにとって居心地がいいわけじゃなかったけれど。
ワタシは保育園にも幼稚園にも通っていなかったから、小学校が初めての外の世界だった。
実のところ人とまともに会話をするのも、ほとんど初めてのようなものだった。
母もワタシに構わなかったし、ワタシも人間関係とはそういうものだと思っていたから、滅多に口を開かなかった。
隣室の嬌声をかき消すために流すラジオで、ワタシは言葉を学んだ。
そんな小娘が初めての社会に馴染めるわけがない。
入学してから一ヶ月も経つ頃にはワタシは孤立していた。
その状況に何の疑問も抱かなかった。
抱けなかった。
それがワタシにとっての普通だった。
ヤサシイ女子が話しかけてくれることは何度かあったけど、彼女たちの目の奥に宿る光が気に食わなくて無視した。
居心地のいい場所などでは決してない。
けれど、マシではある。
そんな独りぼっちの楽園から、遅々とした足取りで帰宅する。
玄関を開けてすぐの一室は、母の自室兼仕事部屋。
ワタシは息を止めて走り抜けて、奥の自分の部屋に閉じ籠る。
時折、狭苦しい自室がやけに大きく感じられることがあった。
そういう時はラジオをつけて、部屋の端に蹲る。
話すのは得意じゃなかったけど、パーソナリティの軽快な口調は好きだった。
ゲストがやってきた時の軽口の叩き合いは、なんだか楽しそうだった。
いちばんのお気に入りは、音楽。
FM放送の綺麗な音が好きだった。
聴いてる間は、胸の奥に渦巻くモヤモヤがどこかへ行ってしまったように思えた。
膝を抱えながら、身体を揺らす。
たまに、調子を手で取ったりする。
ふわっと腕を上げると気分も上がった。
ぱっと両手を広げると気持ちが開けた。
すっと手を下ろすと格好いい気がした。
──音楽が、好きだった。
問題は、雨の日。
なにぶん安アパートだったから、雨粒が軒を叩く音がやけに響いた。
せっかくFMの綺麗な音質なのに、ノイズがかったようになってしまう。
そんな雨は、ちょっぴり嫌いだった。
♦︎♢♦︎♢♦︎
最悪な母の中でも、特別ワタシが嫌悪した所が二つある。
一つは顔。
顔立ちの似てない母娘なんて、この世には沢山いるが、残念なことにワタシと彼女の顔立ちはよく似ていた。
自分の顔が綺麗だどうだと褒められるたびに、酷く不快な気分だった。
母に似た自分の顔が嫌なのか、間接的に母のことを褒められるのが嫌なのか。
あるいは、どちらもなのかもしれないが。
そして、もう一つ。
容姿よりも嫌ったのは、
その効果は《魅了》。
相手の意思を無視して人の心を惹きつける、外道の才能だ。
効果としては、ほんの少しだけ相手の目を惹きつける程度のものでしかない。
──惹きつければ大抵、相手は整った面貌に意識を向けてしまうから。
けれど男の何人かを引っ掛ける程度の力では、周囲から危険視はされなかったらしい。
いっそ、もっと強力な効果があれば危険人物として【
問題は、ここからだ。
詳しくは解明されておらず、統計結果から見た言説でしかない。
しかし時に、数字は演説家よりも雄弁にものを語る。
厳然たる事実として、親と子は類似した
最初にこれを知った時、ワタシは思わず泣きそうになった。
自分もあんな女と同じ力を得てしまう。
それはもはや恐怖に近く、眠れない夜なんて幾度もあった。
七歳の誕生日、梅雨という季節に違わぬ雨の日だったのを覚えている。
たまたま休日だったその日、ワタシは部屋の隅で膝を抱えてうずくまっていた。
”天啓”。
鐘の音が頭の中に鳴り響くから、神からの祝福だとされているらしい。
なんて安直なネーミングだ、とワタシは名称にすら悪態をついた。
時計の針が、12を刻んだその瞬間。
確かに鐘の音が鳴り響き、ワタシは自らの
いえ、知ったというよりは、”気づいた”と言った方が正しいかもしれない。
新しい何かを知った時、あるいはそれに挑戦した時。
ふと「ああ、これは自分に向いているかも」と思うことがあるだろう。
不思議な納得感と共に、自分には「これが向いている」と気づく。
それと同じで、ワタシは自分の
《念動力》。
自身及び無機物を自在にコントロールする力。
当然、無制限ではないけれど、力の強弱なんてどうだって良かった。
──あの女と一緒じゃない……!
それだけで羽毛のように身体が軽く感じられた。
極度の緊張から解き放たれて、思わず立ち上がる。
そんなワタシに、──神は
まるで嘲笑うようだった。
『魅了』。
見る者の目を惹きつける。常時発動。
それが、自分と無機物を意のままに操る代償。
自分以外の全ての
「あ、ああ……」
ガクガクと膝が震える。
怖くて怖くて、堪らなくなった。
何かに縋るように、引き戸を開け放ち、外へ向かう。
その途中。
どういうつもりか、その日、母は一人でぼんやりと自室にいた。
何をするでもなく座っていた母の目がワタシを捉える。
「──あ」
その時の母の陶酔するような瞳を、ワタシは今も忘れない。
♦︎♢♦︎♢♦︎
──自分にとっては地獄でも他人から見るとそうは映らない、というのは往々にしてあることだ。
7歳の誕生日に届けられる国勢調査の書類に、ワタシは自分の
綴らざるを得なかった、とも言う。
そこに書かれた「虚偽は罪に問われる」という文面を恐れたのだ。
これは後々知ったことだけれど、そういった虚偽・隠蔽の看破を仕事とする機関がある。
あの時、嘘の報告をしていたらと思うとぞっとしない。
ワタシが今でもそいつらを気に入らないのは、このことが影響していると勝手に思っている。
というのも、その書類を行なった数日後。
ワタシは国立機関に呼ばれ、検査という名目でさんざん引っ張り回された。
《念動力》はとても便利な
普通、こうした能力は無機物のみしか対象とならない。
それを自分まで操れると言うのは、同系統の
その分コントロールに難があるのだけれど、それを加味しても、である。
──それよりもずっと注目されたのは
ワタシにとっての呪いは、人にとっての才能だった。
どこかしらで言われた「
それが称賛だなんて、7歳のワタシには思えなかった。
ちょうどこの頃からワタシの口が悪くなった。
それまでは碌に喋りもしなかったから、どちらがマシなのか分からない程度の変化だ。
それでも
信じられないことに、無視されただけじゃ永遠に追いかけてくる輩がいるのだ。
頭が特別良いとか、運動が特別できるとか。
そういう”ちょっと有望な”男子にそれをされた日には最悪だ。
色恋の嫉妬から向けられる視線というのは、嫌に脳裏に残る。
わざと聞こえるように「才能に恵まれて羨ましいよねー」なんて話をされるのは日常茶飯事だった。
”恵まれた”ワタシにそれ以上何かするほど根性のある奴はいなかったけれど。
人間の気分を著しく害するにはそれで充分だった。
ましてやそれが
──だから、ワタシは
しかし
ならば、影よりも強い
どこぞの夢見がちな少女とは違って、ワタシにとっての天使は”夢”ではなく”手段”だった。
口が悪くなるのと同じ頃、ワタシは家に沢山のガラクタを持ち込むようになっていた。
「……なにしてるの」
「べつに」
母の問いにすげなく返すワタシの手には図工室からもらってきた要らないものが抱えられている。
言うまでもなく、
保健室で体重を測って、それ以下のものを沢山かき集めた。
ちなみに、最初に動かそうとした林檎が壁に激突して破裂したのを見て、自分を《念動力》で動かすのは後回しにしようと決めた。
制限がなくなれば強くなれるからと体重を増やそうとした時期もあったが、小さい頃から物を口にしない生活をしていたため、食事量を増やすことに耐えられなかった。
こちらも早々に断念した。
「……なりたいものでもあるの?」
「
言葉少なに返すと酷く驚いたような顔をされた。
ざまあみろ、と襖を閉めてからほくそ笑んでやった。
──いつの間にか、あれだけ聞いていたラジオはガラクタの山に埋もれていた。
♦︎♢♦︎♢♦︎
「ねえ、4組の
「うっそ、まじ?」
そんな声が聞こえてきたのは、7歳の誕生日からもうすぐ二年が経つ麗かな春のことだった。
陽気な日差しに似つかわしくない会話だな、と思った記憶がある。
下世話な奴らは下世話な世界でしか生きていけない。
多分、そこが奴らの生息環境なのだろう。
「……かわいそうな人たち」
ついでに、彼女らの標的にされた転校生とやらにも同じ言葉を送った。
お互い、才能のあるなしで嫌われて大変ね、と。
その時はそれだけで、ワタシの興味はあっという間に薄れていった。
──それから数ヶ月もしないうちに、その子がワタシに声を掛けてくるとは流石に予想していなかった。
「と、ともだちに、なってくれませんか……?」
それを聞いて、湧き上がる思いをそのまま言葉に出した。
「──くだらない」
ワタシがかわいそうなどという感情を抱いたその子は、いつの間にかトモダチで囲まれるようになっていた。
風の噂によると、6年生の男子が彼女に会いに足繁く通っているらしい。
その男子が大層人気だそうで、彼が熱を上げる彼女もあっという間に人気者になったそうだ。
何が何やらさっぱり分からないが、驚くほどにどうでも良かった。
その状況も、トモダチが沢山だとはしゃいでいる夢見がちな彼女も。
「オトモダチを作って、スタンプラリーでもしてるつもり?」
で、その最後の一マスがワタシだ。
馬鹿馬鹿しい。忙しいのだから巻き込まないでほしい。
そんな気持ちで踵を返したワタシの背に声がかけられた。
「本当の友達を……っ」
「────」
「本当の友達を作るといいって、
本当の友達、なんて如何にも夢見がちな彼女に似つかわしい言葉だった。
しかし、それ以上に気になったのは「言われた」という台詞。
「……なにそれ。人に言われたの」
肩越しに振り向くと、彼女は恥ずかしそうに下を向いた。
そんな彼女を見ながら思う。
──この子、ワタシの顔とか
思った瞬間、言葉を発していた。
「……いいわ」
友達になるのは、別にいい。
切り捨てるのはいつでもできるのだから。
それよりも、彼女のワタシへの無関心が本当かどうか確かめてやろうじゃないか。
「なりましょうか、『友達』」
どこまでも見下したまま、ワタシは彼女の提案を受けた。
…………なによりも予想していなかったのは、一年もしないうちに彼女と仲良くなり過ぎてしまったことだ。