第24話 ただそれだけの願い
これまで2、3件の誤用報告をいただいているのですが、めちゃくちゃ勉強になります……。ありがとうございます……!
思い起こされたのは、今の尋問とは似てもつかない優しげな声音。
──イブキくんは、なにがしたいの?
いつかの幼馴染の問いかけ。
あのとき、確かこう答えた。
──俺は、【
そのあとすぐに、男は入れないと言われ絶望したわけだが。
あの日の自分は『それで……』の後に、何を言おうとしたのだったか。
それで──、
「──思う存分、推しを間近で見ていたい」
ルイにも聞こえぬほどの小声でぼそりと呟いて、
「ふ、」
抑えようと思っても、吐息が漏れた。
だって、なんだよ、それ。
普通こういう時は、守りたいとか、助けたいとかじゃないのか。
「ふくく……っ」
馬鹿か。いやバカだ、間違いない。
──始まりは、ただそれだけの願いだったのだ。
どこまでも自分勝手で、今では胸の奥底で埃をかぶっていた、純粋な想い。
「はははっ、バカじゃん、俺」
「……なにを、笑っているの……っ!」
鼻先を浮遊していた長剣が、イブキの顔の真横に突き立った。
「次は当てる。その気に食わない面に」
言われて、銀の長剣に目をやる。
磨き抜かれた幅広の剣身には、周囲の景色が克明に写りこんでいた。
そして、壁にもたれる一人の男の顔も。
ひどく不可思議な心地だった。
18年間、毎朝毎夜、洗面台で見てきたはずなのに、
「───。俺、こんな顔してたっけ」
ぼそ、と口を動かせば、鏡面に写るその男も真似をした。
その瞬間、またしても幼馴染の声が耳に蘇る。
今度は幼い声音ではなく、成熟し落ち着きある声音で。
──貴方も、たまには鏡くらい見てみるといいわ。
「……敵わないな、本当に」
男にしては長めの、薄い茶髪。
胡散臭い一歩手前くらいの柔和な顔つきをしていて、その虹彩は翠色。
イブキだ。
指宿イブキ──傍陽ヒナタの最初の敵で、呆気なく負ける男の顔だ。
「なんだ、結構イケメンじゃん、
周囲をよくよく見れば、そこは〈
いつのまにか、こんなところまで走ってきたのだ。
灰色の壁に、薄黒い地面。
背を預ける壁のゴツゴツした感触に、整備の行き届いていない床の尖った質感。
──ふかふかで座り心地のいい客席なんて、どこにもなかった。
「本当に、バカだ。──バカ
自分はとっくに
「……はあ、もういい」
ルイが呆れと失望の籠ったため息を吐く。
「アナタはここで始末する。この襲撃に巻き込まれたことにしてね。それならアナタがヒナを裏切っていた事実は闇へと消え、あの子の悲しみは最小限で済む。アナタの目的がなんだろうと、消してしまえば問題はないのだから」
それじゃあ、という台詞とともに、ルイは片手を天に伸ばす。
彼女の周りに浮かぶ長剣が、一斉に矛先をこちらに定めた。
「さようなら」
しなやかな腕が断頭台のごとく振り下ろされた瞬間。
イブキは右腕を強引に振り払った。
その右手が、真横に突き刺さったままの長剣を叩くと同時。
──【接触】自身、及び長剣。【分離対象】自身。
《分離》によって慣性を失った身体が、長剣に叩きつけた力の反動によって吹き飛ぶ。
「な……っ!?」
それは”回避”とも呼べぬ無様なものだったが、事実としてルイの四剣は空を穿った。
驚愕するルイへは目もくれず、イブキは着地と同時に地を蹴る。
──【接触】自身、及び路面。【分離対象】自身。
またしても目に追えぬほどのスピードで身体が吹き飛び、あっという間に追跡者との距離を開く。
視界にはゆっくりと流れる世界が写っている。
しかし、その世界にイブキの身体は追いつけない。
手足は思うように動かせず、地面に転がるように着地した。
「
やっていることはヒナタから逃げおおせた時と同じだ。
あの時は時計塔からビルに飛び移る際に自分のエネルギーを消して、軽く蹴ることで大跳躍をした。
今回はそれを加減なく、全力でやっているだけ。
ゆえに前とは比べ物にならない速度と距離が出ている。
目では視えていても身体がそんな速度に追いつかないので、うまくは着地できない。
今回は運良く2連続でできたが、次は無理だろう。
その程度の
けれど、今この瞬間は大いに役立ってくれた。
「この……ッ」
ルイは泡を食って追い縋ってくる。
当然、待つ理由は皆無なので逃亡を再開。
痛みに身体が軋むが、いまではその痛みすらも”生きた”実感として胸に残った。
「逃がさない……っ!」
軽やかに逃げるイブキの背に、再び長剣が打ち出される。
それが届くより前に、イブキは
姿を捉えねば剣も操れない。ルイは逃亡者の後を追って角を曲がり、
「く、ぅ……邪魔……ッ!」
ビルの谷間を縦横無尽に張り巡らされた電線にその進路を遮られた。
ちょうど、彼女の相棒がそうなったように。
「──プランC、立地をうまくいかそう。……正直、二度と使わないと思ったよね」
イブキは走りながら独りごち、そして次を考える。
この
空を翔けるルイならば次の手を予想するまでもない。
「小賢しいわね……っ」
彼女は電線の上へと舞い上がった。
「おーけー。じゃ、プランD」
イブキの瞳が道路の中央に位置する、それを
それは路面からほんの一瞬だけ《分離》し、エネルギーを失ったそれ──マンホールの蓋をイブキは蹴り飛ばす。
「アナタ、まさか」
電線の幕の向こう側、路面にぽっかりと空いた黒い穴を見て、ルイが焦りを滲ませる。
「ん? ああ、ココ、雨水管だからそんなに汚くないよ?」
「そんなこと聞いてな──」
「それじゃ、ごきげんよう」
「ま、待ちなさ──」
──待つわけないでしょ。
イブキは満面の笑みを残してマンホールの中へと姿を消した。
「やられた……──やられたッ!」
残されたルイは悔しさに歯噛みしながら思考する。
司令室に通信して今すぐ出口をリストアップしてもらう?
……いや、そんな時間はない。
閉所である地下水道は自分に不利な環境だが、逃げ場が無いという意味では向こうにも不利だ。
行くしかない。
10秒と待たずにそう決断し、降下しようとして、彼女は気づいた。
「────」
電線の上に浮くルイの、ほぼ真横。
数メートルほど離れたところに、人がいた。
「──いつ、のまに」
その人影は電線の上に立っていた。
不安定な足場を感じさせぬほど揺らがず、崩れず、
「さあ? いつかしら」
黒いローブに、鮮烈な朱の刺繍。
描かれた紋様は、彼岸花。
「案外、ほんの一瞬前かもしれないわよ」
「──〈
ルイは咄嗟に距離を取る。
「ええ、こんにちは。雨剣ルイ」
「…………」
表情は阻害されて見えないが、彼女が笑ったような気配がした。
「これでも、貴方には感謝してるのよ? アイツの目を覚ましてくれて」
警戒を滲ませるルイとは対照的に、彼女は気楽な様子で話しかけてくる。
「よく理解できないけれど……。感謝しているのなら、消えてくれないかしら」
「悪いわね。貴方が誰かを大切に想っているように、あたしも彼が大切なの」
「チッ、あの女たらしが……ッ」
「それはあたしもそう思う」
〈
だがルイは、これまでの対峙で、彼我の間にそれほど隔絶した差を感じていなかった。
強いというより、隙がない。
だから決して油断はしない。
けれど、負ける気もしない。
イブキが消えた穴を一度見やり、ルイは覚悟を決める。
「
「──そう。残念だわ」
そして、戦いの幕が切って落とされ──。
──数瞬後、幕が降りた。