第22話 逃げるわけがないでしょう
「よしっ、時間ぴったり」
その刻、信藤イサナは机上の書類を全て片付け終えた。
そして、椅子をくるりと回して窓の向こう、眼下の景色を見やる。
「百年祭は宴もたけなわ。時間帯は昼、皆の警戒が緩む
部下に見せる笑顔とは違う、冷徹な微笑みが口元に浮かぶ。
「本日、本刻こそは絶好の襲撃日和なり。──総員、傾注ッ!」
フロアのほとんどを閉める会議室に大音声が響き渡る。
瞬間、その場の隊員の全てが一斉にイサナ──副支部長へと目を向けた。
寄せられた視線に不敵な、されど
「これより特別警戒体制に入ります。休暇中の者も含め、全ての隊員との無線を開きなさい。──祭りは終わりです」
正義の徒による一喝とほぼ同時刻。
「さあ、祭りだぜ、テメェら」
「今回の
前回のショッピングモールにおける襲撃では、少人数で一般人に被害を出そうとして
それゆえの、ターゲットの変更。
今度こそ天秤と天使を、地に堕とす。
「あれから〈乖離〉のヤツとは話せてねェが、別にアイツがいなくても変わりねェ、なんせ今回は──全員だ」
その低い声音は通信機を通して
彼らにとっては祭りに違いない。
されど、その祭りは──。
「血祭りの時間だァ、羽虫女ども」
♦︎♢♦︎♢♦︎
飲食店街が繁盛するこの一帯も、百年祭の熱気に浮かれ、盛り上がりを見せていた。
比較的高めの料金設定がされた店が多く、歩く人々の身なりも相応に良い。
その街並みを見守る
普段の三倍もの人数を持って巡回に当たっていた。
それぞれが離れた位置を哨戒する六人の耳に、同時に通信が届く。
『副支部長より指令、現在より特別警戒体制に移行して下さい。繰り返します──』
「指令……いま……?」
辺りを見てもほのぼのとした光景が広がるばかり。
タイミングに疑問を抱きながらも、警戒体制──単独行動を控え、バディと二人一組で行動するために合流しようとした、その時。
「………?」
たった今すれ違った二人組の男性。彼らが背後に抜けた瞬間、風もないのに身体が後ろに引っ張られたような、歪んだ空間に引っ張られるような気配がした。
何の気無しに振り返ったそこに、
「な……っ」
黒いローブを纏った、仇するべき敵である二人組が立っていた。
身構えるよりも早く、何かに殴られたような衝撃。
あっという間に吹き飛ばされて壁に叩きつけられる。
「かはっ……ぁ」
彼女は受け身も取れずに、意識を失った。
地面に崩れ落ちた正義の徒を見て、辺りが騒然とする。
それを成した二人組はほくそ笑み、混乱に乗じて姿をくらませた。
同じことは都市全体で起こっていた。
ある場所では、突如として水球に包まれた
そのほぼ真反対の区画では、炎に巻かれ逃げ場を失った
指令に即座に従った者は正面から迎え撃てていたが、ほとんどは祭りの空気に当てられて反応が鈍い。
ひっきりなしに被害報告が入る司令室で、副支部長・イサナは眉を顰めた。
「……バディの片割れだけを執拗に狙っている」
中には
普通は、互いが
本来なら二人行動が徹底されている【
加えて祭事中で巡回の範囲を広げていることもあり、バディをバラけさせ、六人で一区画を担当させている。
「敵は二人組の、男。20ヶ所を超える数ということは〈剛鬼〉配下の構成員か。他の派閥と連携していないだけマシですね。しかし襲撃が長引けば便乗する派閥も出てくる。特に人数の少ない木っ端派閥は、必ず。ならば──」
瞑目し、独り言を呟きながら、イサナは現状を把握していく。
そして、頷き一つ。
「区画担当の六人間の通信をオープンにしなさい。そして──
「合流、しないのですかっ?」
「そう。適度な距離を保って動きなさい。敵が釣れた瞬間、残りの四、五人でもって叩く。焦る必要はありません。こちらの数的有利に変わりはないのですから。冷静に、冷血に、冷徹に、多対二で確実に叩くのみ」
「っ………」
支部が設立されてから初めてといえる大規模襲撃。
それが起こってから僅か一分足らずで状況を把握し、揺らがぬ指示を出す副支部長に息を呑む。
それはもう、普段の様子からは想像も及ばなかったので。
「早急に通達を」
「──了解!」
通信部の隊員たちは不思議な高揚感とともに、一斉に動き出した。
そうして、桜邑を舞台とする大規模襲撃は一進一退の様相を呈し始めた。
一人の天使が倒れれば、それを成した悪二人を、被害を出しながらも数人の天使が鎮圧する。
そうした現状は休暇中の
──無論、傍陽ヒナタにも。
『非常事態につき休暇中の隊員も応戦を──傍陽隊員?』
「…………」
しかし、彼女に返事をする余裕はなかった。
兄のように慕う青年が原因──ではなく。
眼前。
交差点の地面は大地震の後のようなひび割れが走り、信号機は薙ぎ倒されていた。
「ぅ、ぐ……」
「ぁ……」
その周りには呻き声を上げながら、倒れ伏す
そして、
「ははははははァ! やっぱり弱えなァ、
被害の中心地に立ち獰猛に笑う大男、〈剛鬼〉がいた。
その肉食獣のような目が、場の惨状に言葉を失うヒナタへと向けられる。
「──で、オマエはどうする? いつぞやの
「どうする、ですか……」
『傍陽隊員。もし敵主犯と目される〈剛鬼〉と接敵したならば、すぐにその場から撤退を──』
プツッ──と、ヒナタは無言で通信を切断した。
そして、胸元に付けられた桃色のブローチにそっと触れる。
「【
その音声を拾った瞬間。
ブローチと共にヒナタの全身が輝いた。
「ほう、そりゃどういうオモチャだァ?」
「なんでも、この祭り期間のために研究部が大急ぎで完成させたんだそうです。非番の天使でも速やかに襲撃に対応できるように」
光が収まったそこに、純白の
唯一、以前はプリーツスカートだったのが、どうしてか相棒と同じショートパンツに変わっていた。
「わたしはどうするかと、訊きましたね」
ヒナタは静かに構え、〈
「──無論、あなたの相手になります」
ここで撤退、否、逃亡などという選択肢は彼女にはない。
──たとえ勝利の見込みが薄かろうと、彼女の憧れた英雄たちは立ち向かうだろうから。
♦︎♢♦︎♢♦︎
一方その頃。
(うおおおおおお無理無理無理、逃げる! 逃げても死ぬ!)
イブキは全速力で逃亡していた。