第1話 始まりは珈琲と共に
空を舞う桜の花びらを、柔らかな朝陽が透かしている。
「いってきまーす!」
自宅の門を出ると、元気いっぱいの挨拶が隣の一軒家から聞こえてきた。
「……っ」
その可愛らしい声音に、息を呑む。
思わず隣家へ目を向けたその時、玄関から小柄な人影が飛び出してきた。
糊の効いた制服に身を包む、その少女の名は──
彼女は俺の視線に気付いたように振り向く。
背中の半ほどまでの茶髪がさらりと弧を描いた。
「あ! おはようございます、お兄さん!」
ぱあっと音が聞こえそうな笑顔が咲く。
対する俺はぎこちない笑みを浮かべた。
「お、おはよう、ヒナタちゃん。その、入学してからもうすぐ二週間だけど、そろそろ高校は慣れた?」
「はいっ。高校の方はもう、すっかり。ただ……」
愛らしく天真爛漫な彼女だが、ただの高校生ではない。
「今日から正式に【
彼女は肩を少し縮こませて眉尻を下げる。
「夢が叶ったんだから、自信を持って……っ。ヒナタちゃんなら、大丈夫」
「──はい」
ヒナタちゃんは照れ臭そうにはにかんだ後、からかうように見上げてきた。
「お兄さんも大学には慣れましたか?」
「…………うん、それなりに」
「その間はなんですか……?」
からかいまじりの視線がちょっと呆れたようなジト目に変わる。
それもすぐに、明るい微笑みに一転した。
「まあ、それこそ、お兄さんなら大丈夫ですよね。バイト、今日からでしょう? 頑張って下さいね」
そう言って、足取り軽く学校へと向かっていった。
その背中が遠くなっていくのをぼんやりと見送る。
そして──、
「──はあああああああ、今日も推しが尊い……!!」
なるべく声を噛み殺すようにして器用に叫ぶ。
「今日も朝からコロコロ変わる表情が可愛すぎる自分だって慣れない環境で不安と緊張だらけだろうにこんな近所に住んでるだけの知り合いの男にまで優しいとか天使なのかいや天使だったわ」
息を一つ吐いて気持ちを落ち着かせる。
「いやー……まずいぞ、これは……」
何がまずいって、あの制服姿だ。
高校生になったヒナタちゃんは、俺が漫画で見てきた「傍陽ヒナタ」そのもの。
彼女は、どうしようもなく"推し"なのだ。
そのことを意識させられて、こっちは顔を合わせる度に気が気でない。
なのに、向こうは小さい頃と同じように接してくるから、心臓が死にそう。
毎回2tトラックに追突されている感じ。
物心つく頃に「
それだけの時を経てなお、前世の「俺」が死んだのと同じ年頃の少女に心揺さぶられている。
「……どうしよ」
「ごめん。お待たせ、イブキ」
天を仰ぐ俺の後ろから、声が掛けられる。
振り向けば、一人の美女が我が家の玄関から出てくる所だった。
女性らしい身体付きに反して華奢なシルエット。
烏の濡羽を思わせる黒髪ロングは大和撫子を想起させる。
「いや、こっちこそ。毎朝助かってるよ、ありがとう」
「ん、あたしがやりたくてやってるから」
百合の花のように優雅に歩みよってきた彼女──
毎日、朝からうちにやってきては一人暮らしの俺の世話を焼いてくれている。
「それに、ヒナタちゃんと話してたし」
「そう、ヒナタと……」
クシナは顔を曇らせる。
ヒナタちゃんが今日から戦いの場に出ることを知っているからだろう。
それだけでなく──。
「……行きましょう。一限に遅刻するわ」
ヒナタちゃんが向かった方とは逆、バス停の方へと向かう。
横に並んで歩きながら、俺はふと思い出す。
「あ、知ってる、クシナ? 来週の日曜って
「知ってる」
「え」
「逆に知らない人いないわよ……」
呆れのにじむ流し目が、こちらをチクチクと刺してくる。
「昨日まで散々『
「あー、昨日見てたのそれかぁ。なんか真新しいこと言ってた?」
「全然。十年前もほとんど同じことやってた記憶がぼんやりとある」
──1920年、第一次世界大戦が終結して間もない頃。
それまでの自然科学では考えられないような能力を持った人間たちが現れた。
最初の一人が誰かは分かっていない。
まるで神の祝福のように、人々は一斉にその力を手にした。
誰が呼んだか、その異能力を《
当時、
科学をはるかに凌駕するそれらによって、やがて社会は女性優位のものへと変容していった。
──それから百年が経った、現在。
世界から、男女平等などという言葉は失われた。
「ほら、ぼーっとしてないの。バス来たよ」
「ん」
男性専用車両を待たずに、クシナと一緒に公共バスに乗り込む。
男は無能で無価値な世の中で、男女の軋轢を防ぐためにあるのが男性専用車両だ。
しかし今回は
一般、なんて言っても、実際に使っているのは女性ばかり。
こうして立っているだけで周囲からの視線が集まり、明らかに悪目立ちしていた。
そんなバスから逃げるように降りて、大学へ。
大学内でも面倒事やいざこざは日常茶飯事なのだが、今回は割愛。
俺とクシナのメイングラウンドは大学ではないからだ。
♦︎♢♦︎♢♦︎
放課後。
「はあ、落ち着く」
俺たちが訪れたのは、こぢんまりとした外観の、一見なんでもないようなカフェだった。
向かい合って座るクシナが、紅茶を片手に一息つく。
「おつかれ。今日もありがとう」
「別に。あたしはただ横に立ってるだけだから」
「ふぅん?」
「……なによ」
「別にぃー?」
「違うから」
クシナが色々と風除けになってくれているおかげで、俺は大きな問題なく大学に通えている。
彼女は絶対に認めようとしないが。
「それには議論の余地があるとして。……本当にここなの?」
頑固な幼馴染に肩をすくめつつ、俺は先程から気になっていたことを、声を潜めて尋ねる。
この場所、“Café・
「ええ。そうよ」
「俺たち今日、【
「その通りよ」
「だってここ、いつも俺たちが来てるカフェじゃん」
「そうね」
適当な相槌を打って、対面の美女は静かにティーカップを傾ける。が、その目には悪戯な光が宿っていた。こいつ、確実にこちらの反応を楽しんでいる。
「貴方だって、もう薄々わかってるでしょ」
……確かに、まあ、勘付いてはいるけど、小さい頃からの馴染みの場所なのだ。
どうしてここが?とか、いつから?とか、いろいろ思うところはあるわけで。
「ま、もうそろそろ──」
「お話中、
「ん……?」
クシナがカップをソーサーに置くと同時。
カウンターの向こう側から、訳の分からない台詞が間延びした明るい声で飛んできた。
振り向けば、見慣れた店主が見慣れないにこにこ笑顔をこちらに向けている。
“Café・Manhattan”店主、
左右で白と黒のツートンカラーという変わった髪色をした彼女が、笑顔を浮かべているのを俺は初めて見た。
もっと言うなら声を聞いたのも今が初めてだ。
そもそも今なんて言った……?「喜んで割り込ませてもらう」とかなんとか……。
思考のまとまらない俺を見かねたクシナは視線を店主の方へやり、彼女が首を縦に振ったのを確認すると口を開いた。
「ユイカさんはね、嘘しか言えないのよ」
「嘘しか? ……ひょっとして『
クシナは微かに顎を上げる。──肯定だ。
《
『
厳密には異なるが、大まかにはこれでいい。
例えば《炎操作》という《
また、
同じ《炎操作》という
現代では《
それを当然のように共有しているということは、
「お察しの通り。ユイカさんも【
「違うよぉ。それより、時間があるからゆっくり行こう〜?」
「嘘しか言えないってことは、つまり……今のは『時間がないから早く行こう』ってこと?」
「理解が遅いねぇ〜」
「ありがとう、ございます……?」
なんだかなぁ、と微妙な顔をする俺を見て、ユイカさんはくすくすと笑った。
けれど彼女の笑顔は過去の苦悩を感じさせない、屈託のないものだった。