死人蔵の恋

作者: Schuld

 生と死は密接に絡み合い、表裏が一体である以上、絶対にどちらかを無視したり、過度に忌んだり神聖視することはできない。


 生とは人生という物語を記述し始めることに他ならず、死とは物語に背表紙を与えて表装を整えることだからだ。ただの原稿の束を本と呼べないように、持っていて価値を有する物にしたいのであれば装丁は絶対に必要になってくる。


 記してある内容が如何に素晴らしかろうが、ばらばらと散らばる紙に書き付けられていたら、それでは余りに味気ない。価値ある物語として周囲に一目で認識されるには、本という体を成しているのが前提条件だ。


 粗雑な絵草紙だろうと、夏にどこかで売っているような代物だろうと、それは変わらない。


 つまり、死とは人間という生きた物語に装丁を整えて、完成した物に仕立て上げることである。


 と、ぐだぐだ言ってみたものの、これは飽くまで私の持論である。事実、宗教において死は忌むべきことだし、生はめでたいこととされる。諸行無常で生命に価値はなく、悦びも悲しみも一時のこと、と説いている仏教でも、別段その悦びや悲しみを否定していない所からして明らかだろう。


 それは西洋の山神信仰に端を発する一神教でもそうだし、原始アミニズムを体系化した神道――何なら国策化した国家神道を含めてもいい――でも変わりはしない。


 だから人々は死を忌むが、私にはどうにもそこまで悲しむべきことでもなければ、大仰に扱うこととは思えないのである。長い〆切りを終えて、一冊の本が出版された。それと変わるところが何処にあろうか?


 しかし、そうするなら一族は長いシリーズの続きものとなるのだろうか。その辺り、深く考え始めると少しキリがない気もするが、後から前の方で出ていた人物の解釈とか設定がガラッと変わることが間々あるのは、どこか実際の長編と似ていて面白くもあるけれど。


 それはさておき、こんな下らない自らの哲学――一部の人には怒られそうだが――を捏ねていたのは、我が家が曾祖母の葬儀を控え、ひっくり返すような忙しさに見舞われていたからである。


 要は、ちょっと身近な死に触れてセンチメンタルな気分になっただけ。それだけのことである。年頃の高校生だからこそ許されるかもしれない、頭の悪い思考だ。


 家は田舎の地主の一族ということもあり、無駄に広い屋敷の中で業者や一族の係累に同胞が忙しげに駆け巡り、やれ日程はどうだの、坊主はどうだのとに頻りに騒いでいる。


 まぁ、家系図が平氏と源氏がどうこうやっていた頃から、かなり鮮明に残っている家なので冠婚葬祭が大騒ぎになるのは分かりきったことだ。しかし、それが戦前戦中戦後と方々をかけずり回り、家の規模を強大化させることに尽力した昭和の大妖怪――私がつけたあだ名ではない――たる曾祖母の葬儀ともなると、規模もかなり違ってくる。


 血の連枝たる親族連中は当然、財界やら私の想像も及ばぬような所の関係各所に至るまで招聘せねばならぬのだから、並の儀礼でないことは確かだ。


 その上、我がままな曾婆様は、辺境も辺境たる九州の僻地に建つ本家で装式をやれと遺言で宣うのだ。呼びつける面子を考えるに、日取りを決めるため都合の伺いをしている親父や爺様は、正しく忙しさに殺されかけているところだろう。


 なんといっても葬式というのは、結婚式と違って、やらねばならない状況になってから間を開けられない。じゃあ皆の都合の良い日でな! と自由に決められない制約は、実に重い物がある。


 こと、絶対に死なんのではないかと思われていた妙にしゃっきりとした老人が、脚を滑らせて風呂場で頓死した場合は、関係各所にとっては地獄であろう。


 あの婆様も、なにも色々と忙しい六月に死ぬこともなかろうて。呼びつけられる面々なんて、株主総会やら決算やらで忙しいのがわかりきっている立場だというのに。


 あれかね、何かと便宜を図ってやっていたことの当て付けかな? 九〇過ぎても童女みたいに振る舞う所がある人だったからなぁ。


 ああ、後は本家の相続もあるから弁護士である大叔父殿もヤバイか。良い手足として、兄貴どももいい感じに酷使されていそうで端から見ている分には楽しい限りである。


 そう、端から見ている分には、だが。


 「はいはい、お邪魔しますよっと……」


 事実、末弟とはいえど私も血族である以上、仕事を押しつけられることからは逃れられなかった。お腹痛い、とはいったものの、祖父は阿呆か小遣いやるから真面目にやれ、と札入れを叩き付けてくるだけで怠惰を認めてはくれない。


 小遣いが貰えたから、それはそれでよしとするものの、やはり期末考査も近い中に葬祭なんぞで時間を取られるのは、あんまり好ましくないのである。曾祖母は、家族の中で軽んじられていた私に割と良くしてくれたので好きではあるのだが、それとこれとは話が違う。


 さて、少しだけ面倒くさい前提を話さなければならないのだが、遺骸には神聖な力が宿ったりするそうな。正式な手順を踏んで葬儀を行い、坊主や神主に神官なんぞが云々した死体は、腐敗せず虫も食わず朽ちることはないという。


 暖かみは失せ、堅さを帯びるものの、不思議と腐らなくなるそうだ。その原理は、未だに解明されておらず、21世紀に残る宗教の神秘として注目されている。


 しかし、死後の復活を信じるエジプトやら四文字宗教ならまだしも、仏教やら神道でも同じ現象が起こるのは、実に不可思議である。特に日本の葬儀なんて、土地の問題で死体なんて管理してらんねーよと風土に合わせて特化した結果、焼き捨ててコンパクトに同居させるようになっているというのに。


 こういった事情もあって、死体の埋葬には富裕層と一般層、或いはそれ以下で様式が大分違ってくる。


 普通の家庭では、葬儀が終わった死体は火葬場で火葬して遺骨にし、骨壺へ収めて石塔状の墓に納める。日本人ならこれ、という実にトラディショナルな形態だ。


 たとえ腐らないといった所で、死体を転がしておける場所など普通はないしな。そもそも、死体を家に転がしておくメリットがない。死体が腐らなくなるのは、一般人にとっては神の存在証明書の一つであれば十分過ぎる。


 しかし、完全な形で残る遺体の長期保存というのは、色々な宗教で重要視されるように豪族、ひいては当時の権力者の権力が有するバロメータの一つでもあった。エジプト人が木乃伊を作ったり、共産主義者が矢鱈と指導者の遺骸保存に気を遣うのは、やはり余計な事に力を裂いてる余裕があると見せ付けるためなのだ。


 そういった背景に従い、日本でも有力者は墓所を本家の近くに造り、死体を完璧な姿で保存する宗教的文化があった。私からいわせれば、ちょっとフィギア収集にしても趣味悪過ぎやしませんかね? という話だが。


 そして、自慢になるかは分からないものの、有力者といっても差し支えない程度に金がある我が家にも、そんな悪趣味なフィギア収集癖があるわけで。本家裏には、本家の同胞を納めた死人蔵を有する墓所が設けられているのだ。


 私が祖父から言いつけられたのは、その死人蔵の掃除である。


 まぁ、死人蔵とはいったものの、カタコンベみたいに陰気でもかび臭い所でもない。見た目は有り体に言って普通の屋敷だし、内装も座敷席ばっかりの居酒屋みたいなものである。


 土間が回廊のように奥へ伸び、その土間の両脇には一段高くなった座敷が並ぶ。座敷一つ一つは一〇畳ほどの大きさに区切られていて、吊された御簾によって中は窺えないようにされていた。


 この御簾の向こう一つ一つに過去の血族が納められているという寸法だ。屋敷に負けず劣らず大きい死人蔵には、都合うん百年前の死体からねじ込んであるのだから凄まじいものである。


 本当に見た目だけは和風居酒屋なのは、どうしたものだろうか。最奥に一際でかい座敷があり、初代家長夫婦が納められているので雰囲気こそ違うが、本当に訪れる度に思い出すので困る。


 明かりも和風の造りながら電気が通っており、空調のダクトがそこかしこに見えるのが居酒屋感を煽っていて笑いそうになる。まぁ、別に笑っても咎める人間など此処にはいないのだが。俗に言う、いいえ、死体だけです、という状況でもあるし。


 ついでに、まだ主不在となっている、一番手前の座敷。その廊下側の柱に釘が打ち付けられていて、釘をフック代わりに管理表を貼り付けているボードが吊してあるのも居酒屋感を助長していて笑える。


 できるだけ死者の眠る場所を生前の雰囲気に近づけつつ、多数の遺体を収容しようと苦心した結果がこれである。これを建てた大工達も、よもや21世紀で高校生からウケているとは夢にも思うまいて。


 「えーと……掃除は先月か。とりあえず土間掃いて、痛んでたら御簾変えて……げっ、被服チェックもかよ。爺ちゃん、分かってて押しつけた?」


 土間の掃除自体は、箒で掃けばクッソ長いけれど簡単に終わるし、まぁ御簾もそこまで直ぐ駄目になったりはしないから楽だ。


 問題は、遺骸の着ている服である。


 素材は色々あるのだが、これが割とすぐ駄目になる。死体は生きている人間と違い、新陳代謝をしないので汗染みやら何やらは心配ないのだが、如何せん布も消耗品に違いはない。ほっといたら色あせたり痛んだり、時には湿度で腐ったりもするのだ。


 ついでに服を食う虫もいる。死体そのものが腐ったり虫が集まったりしなくても、附属品やらは駄目になるから、手入れは不可欠であった。


 後は、十何年に一回でいいんだろうけど、畳の総入れ替えも大変だな。前は、私が幼い時分にやったらしいから、そろそろやる必要が出てくるんじゃなかろうか……。


 その時は、臨時に遺骸を安置する場所を本家の中に用意して、全て運び出さないといけないのか。考えると憂鬱だな。


 金持ちの家に生まれると面倒事が多すぎる。贅沢な悩みではあるが、小金持ち程度の家に生まれるのがベストかもしれなかったな。死人蔵が無い程度にリッチな家に。


 「って、あれ、御簾が……」


 とりあえず、奥まで全部見て回ろうと思ってぶらついていると、半ばほどにある座敷の御簾が一つ落ちていた。


 「あーあ……柱腐ってんのか。シロアリでも入ったかな?」


 何事かと思って近づくと、御簾を吊す紐にはねじ釘のフックがついたままだ。見上げれば、脆くなった柱の一部が抉れているのが分かる。腐ったか痛んだかして、御簾の重さに耐えきれず脱落したのだろう。そんな重い物でもないというのに。


 「後で脚立持ってきて付け治さないとな……いや、業者か?」


 ぶつくさ文句を言いつつ、とりあえず御簾を一旦畳んでおこうとした時、中で寝ている死者の顔が視界の端を掠めた。


 死者の顔など、あんまり見ても気持ちの良い物ではないから見ないように努力していたのだが、ふっと見えてしまったのだ。


 その死者は、美しい少女だった。目をそっと閉じて布団に横たわる姿は、まるで生きているかのように思える。丁寧に施された死化粧と、きちんとした供養のおかげだろうか。


 死者であることを差っ引いても白く透き通るような肌に、伏せられて尚も大きくぱっちりしていたのだなと分かる瞳。鼻も筋が通ってはっきりしている上に形が良く、その下で微かに開かれた唇も肉感的ながらも分厚すぎず、実にいい造詣をしている。


 髪の毛は黒曜石を削って作り出したかのように黒く艶やかで、セミロングに整えられていた。ちょうど、これから伸ばそうしていたかのように。


 黒髪の彼女は、こういっては何だが、儚げな印象のある顔も相まって死化粧と死装束が酷く似合う人だった。生きて微笑んでいるよりも、今この瞬間こそが美しいのではなかろうか。不謹慎にも、そんな感想が浮かんでしまうほどに。


 彼女の死せる美貌に魅入られて、私は動けずにいた。食い入るように顔を見つめ、座敷に片手をついたままの半端な体勢にも関わらず体を動かせない。


 やっと、何をしているのだと動きだせたのは、腰が中途半端な姿勢でいることによる負荷に抗議の痛みを上げ始めてからであった。


 はっとして姿勢を正すが、やはり目線は動かせなかった。いや、動かしたくなかった、というべきか。陳腐な小説にある、とてつもない美女を目にした男の気持ちが私にもよく分かるような気がした。


 本当に、それほど彼女の美しさに感じ入っていたのだ。


 私は誘蛾灯に魅せられる蛾のように、ふらふらと彼女の側へ引き寄せられていた。靴を脱いで座敷に上がり込み、一人の人間が横たわるには、余りに広すぎる座敷の中央へと這い寄る。


 正座して覗き込み、間近で見つめた彼女の顔は、距離が狭まったとしても美しさが損なわれることはなかった。むしろ、近寄ったことで美しさがより鮮明に、鮮烈になったように思える。


 魅入られた私は、陶酔のあまり吐息が零れるのを止められなかった。穏やかに眠るような顔に整えられた彼女が、起き出さないのを祈るように見つめている様は変質者そのものだろう。


 じぃっと、飽きることなく彼女を眺め続ける。布団に包まれた肢体はほっそりとしており、完全には窺えないものの随分と小柄なのだと思う。体型と顔つきを考えるに、年の頃は一四かそこらといった辺りか?


 高校生が見惚れるには、ギリギリの年代だろう。あと少し年を食っていたらな、条例に引っかかりかねない年齢差ではある。三歳差は、場合によると拙いしな。


 「……何してんだお前」


 「ふぁっ!?」


 どれだけ見入っていたのだろうか。不意にかけられた声に、私は素っ頓狂な声を上げて無様な反応を返すことしかできなかった。


 顔を上げてみれば、そこにいるのは四つ上の兄だった。どうやら、いつまで経っても出てこない私を見てこいとでもいわれて送り込まれたのだろう。何故なら、痺れきった膝が相当な時間の経過を教えてくれていたからだ。


 「あ、ああ……いや、何か顔についてた気がしたから、虫でも入り込んだかと不安になって」


 「あー……あるある。たまに口とか半開きのあると不安になるよな。腐らねぇし卵植えられたり食われたりしねぇだけで、入り込むことはあるからなぁ」


 咄嗟に口をついた言い訳は、どうやら上手く兄を誤魔化してくれたらしい。兄も口を開いた死者を見て、似たような不安を覚えたことがあったようだ。


 「で、入ってた?」


 「いや、いなかった……」


 「そりゃよかったな。口からムカデ出てくる光景は中々ショッキングだぜ。一生見ずに済むなら、そっちのが幸せだよな」


 さらっと凄いことをいう兄。それは実体験か又聞きか、どちらか気になるが聞くのはやめておくとしよう。あんまり精神衛生によくなさそうだ。


 「しかしお前、この御簾どうしたんだよ」


 「柱が腐ってるみたいでさ。フックごと抜け落ちてた」


 「はぁ、マジかよ……まぁ、この死人蔵も立て替えて長いらしいしな。柱の一本や二本は駄目になるか」


 痺れた脚がマシになるよう、時間稼ぎがてら会話を引き延ばす。兄貴に言われて引き上げるまで、私は生きた心地がしなかった…………。








 恥ずかしい話だが、私は一七年も生きていながら恋をしたことがない。有り体に言って、女の子を好きになったことがないのだ。


 性欲は普通にあるし、まぁ恋愛という行為の意味も分からないことはない。一種の精神活動の形だとか、性欲の別形態とか斜に構えた見方をするほどスレても精神的一四歳でもないし。


 事実、金がある家のお坊ちゃまということで頭が緩い女が寄って来ることもあるので、おままごとみたいなものだが男女交際というのもしたことがある。


 しかし、肉体関係まで結んでおいてなんだが、私は彼女に何の興味も覚えなかった。本当に、何となくでオッケーしただけのことだったのだ。


 彼女は、私の淡泊な態度と、思っていたより小遣いを貰っていなかった事に興味を喪ったのか直ぐに離れていった。それが返って有り難いと感じてしまった辺り、本当に興味が無かったのだと分かる。


 はたして、恋とは何であろうか?


 私が愛でる書物を紐解くに、恋愛感情とは、主に相手に並々ならぬ関心を抱くと共に気分の高揚を覚え、対象のことを深く知りたくなり、己を受け入れて欲しいと望むようになることであるとか。


 「つまりこれは恋なのでは?」


 私は死人蔵の座敷の壁に背を預けた状態で座り込みながら、ぼそりと呟いていた。


 時刻は一九時を回ったころ。流石に日が長くなり始める六月とはいえ、とうに日は沈んで周囲は夜闇に覆い隠されている。


 それは、この死人蔵も例外ではなく、明かりとして持ち込んだ燭台がなければ何も見えないことだろう。


 普段施錠されているここに、私は衝動に駆られて入り込んでいた。鍵は、爺様から葬儀の間までに誰かを通しても恥ずかしくないよう整えておけといわれ、預かっているので何の苦労も無い。


 流石に夜中に入り込んでいるのを見つかれば何を言われるか分からないが、日も落ちた後に墓所へ近づく物好きは居ないので心配は無用だ。


 何だってそんな無茶をしでかしたのかといえば、先ほどの発言に依るものだ。なぜだか、彼女の事が頭から離れなかったのである。


 おかしな話だとは思う。何百年も前に死んだ人間に魅入られ、死人ばかりが横たわる蔵に日が沈んでから訪れるなど。まるで陳腐な猟奇ホラーの怪人ではないか。


 しかし、どうしても止められなかったのだ。あの伏せられた瞳に。微かに開いた唇に。恐ろしく白い肌に私は魅入られていた。彼女のことをもっと知りたくて、側に居たくてたまらなくなったのだ。


 そして、その感情と衝動を世間一般では恋と言うらしい。


 つまり私は、死人である少女に一目惚れしたということになるのだろうか。


 「いやぁ、これはホラーだ」


 自分の存在を俯瞰してみると、酷いホラーである。夜な夜な死人に這い寄り、睦言を呟くとか完全にハリウッドB級ホラーの世界ではないか。レンタルビデオ屋のホラーコーナーでブックエンド代わりに使われていそうな陳腐さではないか。


 だが、そんな自分を否定しきれないほど、私は彼女に惹かれていたのだ。


 「……桔梗ちゃん、か。可愛らしい名前だ」


 桔梗はキキョウ科の紫色をした五角形の愛らしい花を付ける植物だ。そして、彼女の名前である。それは、部屋の片隅に置いてあった文机の上に安置された別録に記されていた。


 これは故人の略歴を書いた、人生の履歴書のようなもの。後世の人間が、どんな人間であったかを知れるように遺された物である。


 盆の儀式に故人の戒名やら何やらが必要だったりするので、作られるようになった物だろう。


 そして、当然のように随分と昔に書かれたそれは、現代日本語の書式では無い。知識がない人間からすれば、墨色の虫がのたくっているようにしか見えぬことだろう。


 達筆で現代人なら読むのに苦労する、というより読めそうもない、古い綴りの本を読めるのは、私が古い名家の人間として相応の教育を受けたからだ。


 やらされている時は、果たしてこれが何の役に立つのかと思ったが、今では厳しく躾けてくれた祖母に感謝である。これで一目惚れした相手の事を知れるのなら、大いに苦労した価値があろうというもの。


 本来なら、直接話しかけて聞くべきなのだろうが、如何せん彼女の舌が踊ることはないので不可能だ。できることなら、きっと美しかったであろう声も聞いてみたいものであるが。


 「文化六年十月二十日没……えーと……文化というと江戸後期……中期だっけか?」


 詳しくは覚えていないが、たしかそれくらいのはずだ。一八〇〇年くらいのことだろう。ということは、二〇〇年以上前……代にして大体七代前の人物ということになる。


 実際に生きていたとしたら、随分と年上だ。軽い読み物に出てくるような、不思議パゥワーで数百年生きている人物レベルだな。


 「五女……末娘か、シンパシーを感じるね」


 古くてかさつくが、流石に次の瞬間に崩壊するほどでもないページをめくり、少し苦労しつつも内容を読み解く。読めるのとすらすら読めるの間には、割と大きな隔たりがあるのである。


 記されている内容は生地や係累、同胞の名前から簡単な略歴程度の物で、末娘として生まれた彼女は、長崎の大店へ女中に行っていたらしい。


 当時からしたら良くある話だ。大店で修行しつつ花嫁としての技能を仕込み、適当な年齢になったら嫁に出す。今と違って自由恋愛など無い世界なので、商家の娘としては順当な人生であろう。


 その頃から、家はそこそこの家だったようだし、そのままだったならば順風な人生を送ったのだろう。何処かの地主か大店の若旦那の所に嫁ぎ、跡継ぎを産んで家の縁を広げる。


 或いは、本妻は無理でも武家の妾くらいにはなれたのではなかろうか? 今から見ても結構な美人なのだ。世の男が、彼女を捨て置くとは考えづらい。


 しかし、そうは成らなかったのだ。だからこそ、彼女は別の家の死人蔵ではなく、我が家に若く美しい姿のままで横たわっているのである。


 蝋燭でぼんやりと照らし出され、白い肌に微かな赤みがさしていると、本当に眠っているように見える。おかしな所は、ただ呼吸で上下するはずの胸が動いていないことだけ。


 名を呼び、唇に触れれば起きるのではないかと思う。だが、不思議な事に……彼女は起きぬからこそ美しいと思う自分も心の中にいたのだ。


 はて、別段に公言するのが難しい性癖を持った覚えは、全くないのだが。


 まぁ、それはいいだろう。別に浅ましい獣欲を擽られた訳でもなければ、触れたいとか汚したいとか無粋なことを考えた訳ではないのだ。


 これはあれ、いわゆる清いお付き合い的な何かなのだから。


 暫く無心で読みふけった彼女のみじかな履歴には、当たり障りのないことが書かれていたのだが、ふと最後の方のページで私の手は止まった。


 「……一四歳で流産して死去?」


 それは、彼女の死因を記したページ。私と彼女が邂逅することとなった原因。喜ぶことは決してできないのに、彼女が此処で私の側で眠っているという原因を作るに至った忌まわしくも……何処か愛おしいページだ。


 死因は産褥によるもので、子供も死産であったと短い文章で簡潔に記してあった。あんまり触りたくない、という当時の人間の意志が透けて見えるような書き方だ。


 ただ、流産は一人ではできない。人間の構造上、それは普通のことであるのだが、どういう訳か彼女には、もう一人の製造責任者がいた形跡がないのである。


 さりとて、行きずりの関係だとか不貞によって、ということでもなかろう。もしそうだったら、こうも丁寧に葬られる筈が無い。


 臭い物に蓋、というのは今も昔も変わらないことだ。家の名誉を汚すような存在は“なかったもの”として扱われ、死人蔵に納められはしない。


 「ふむ……」


 無意識に頭を掻きながら、私は文章の羅列に指をやりながら思考を巡らせた。


 何となくだが、彼女に種を仕込んだ憎き相手――我ながらつまらない嫉妬である――の想像はつく。


 文章を読み解き、経歴から推察すると同時に時代小説などで得た知識を統合すれば、さほど難しい回答でもない。


 ただ、ふと考えてしまうのである。彼女の男性遍歴を無遠慮に推察するのは、よいことなのだろうかと。


 普通の婦女なら、そういった無粋な深入りは嫌うはずだ。誰だって元彼やら元カノと、何処で知り合って何してつきあって、何があって分かれたかなど事細かには知られたくあるまい。乙女であるなら、尚更だ。


 当時の女性は髪を結うのが基本だ。大人の女性なら尚更で、割と良い家柄なら気を遣っただろう。にもかかわらず、髪を伸ばし始めたばかりというのは、彼女がまだ結婚を控えていなかったからなのだろう。


 つまりは乙女なのである。乙女の経歴を勝手に探るのは、これ以上ないほど無思慮で無分別な行為。今ならソーシャルなネットワークで仲間内に空気が読めない奴として晒され、クラスで総スカンを食らっても文句を言えないレベルのやらかしだ。


 そんな相手に嫌われるようなことをするのは、如何なものだろうか……。


 ふと、真剣に考えて気付いた。


 彼女は死者ではないかと。


 死者は喜びはしないし、悲しみもしない。笑うこともなければ泣くこともせず、休みの日にオシャレしてデートにでかけもしない。


 ただただ黙し、そっと目を閉じて死人蔵に横たわるだけである。


 外界からのあらゆる呼びかけに沈黙を以て答え、変わることなく死者としてありつづける。それが彼女だ。


 たとい私が勝手な精神行動をしようが、それこそ胸を揉もうが彼女は傷つかないだろう。そんな事を考えたり感じたりする、精神が遙か時の向こう側で霧散してしまっているのだから。


 よしんば魂があったところで、それはもう涅槃でも天国でも輪廻でもいいけれど、とっくに還元されて存在しないのだろう。


 つまり、前提として気を遣う相手がいないのだ。


 すべての弔いは生者が死者に対して納得をするためのものだと、この年になれば十分理解できる。死者は笑わないし、泣かないし、起こらない。


 そんなのはもう、元気だった曾祖母が静かに私室で顔に布をかけられて横たわる以前から知ってる。認識としても、そんな祖母を見てむしろ強まっただけだ。


 なのに……私は、彼女に嫌われたくないと思ってしまっているのだ。


 おかしな話ではないか。嫌うどころか不快に感じることすらない死体に対し、こんな感情を抱くだなんて。そして、認識してなおも気を遣おうと考え続けるのだ。最早病気ではなかろうか。


 ……いや、恋は病だと世間ではいうのか。つまり、私の想いはある意味正常なのかもしれない。


 そうだな、ああ、きっとそうだ。これは多分、恋なのだろう。恋をしたことのない私がする、初めての恋なのだ。


 「ふむ……なるほど、悪くないな」


 理解した途端に合点がいった。やっぱり私は恋をしていたのだ。そう考えるなら、夜中に抜け出して死人蔵に来たり、応えてくれるはずもない相手に必死になるのも頷ける。


 これが恋するという感情。焦がれるという想いなのか。世の人が惹かれ、望み、物語にするのも分かろうというもの。なるほど、これはいいものだ。


 一人で納得し、大きな満足感に陶酔していた私だが、ふとしたことで意識を現実に引っ張り戻された。懐に呑んでいた携帯電話が俄に震えを帯びたのである。


 取り出してみてみると、学友からのメールであった。折角良い気分だったのを邪魔されて、少し機嫌を害されるも学生は孤立しては生きていけぬもの。仕方なしに本分を読み、返事をすることに。


 メールは、合コンのお誘いであった。知人が中学時代の伝手を使い、近所の女子校の学生と渡りを付けたそうな。綺麗どころが四~五人集まるとかで、私にもお鉢が回ってきたらしい。


 普段なら、面倒だと思いつつも義理もあるので参加しなければならないのだが……そんな義理を一つだけ無視しても、公然と許される理由が学生の中には一つある。


 恋だ。今、新しい恋をしているといえば、大抵のことは許されるのである。


 私は死によって人間は完結し、完成すると思っている。人は生きた物語だ。そして、物語は完結して始めて価値を持つ。


 だからこそ、私は彼女に惚れたのだろう。彼女はもう完結しており、一つの物語としてできあがっている。だからこそ、私は彼女という存在に触れ、物語のように愛でることができるのだ。


 違うのは、彼女が此処に横たわっており、私にはどうやっても中身には触れられないということだけ。本物の物語と違って、自分の本棚にしまい込んで大事にできないのは残念だが……仕方ないだろうさ。


 元来片思いとは辛い物と相場が決まっている。それなら、黙って受け入れるのが男の甲斐性であり、惚れた弱みだ。


 そういえば、キキョウの花言葉は誠実や永遠の愛、とかだったか。初恋の相手の名前が持つ花言葉までこれとは、随分と洒落の利いた話だことで。


 ちょっと臭いと思わないでもないが、これもまた巡り合わせかもしれないな。なら、私は精々、彼女の名前に背かないよう、一途に恋愛をしてみるまでだ。


 「はじめまして、桔梗さん。私の名前は……」


 私は眠る彼女に傍らに跪き、小さく自己紹介をする。触れられなくても、応えられなくてもいい。恋とは対価を求めるものではないから、これでいいのである。


 揺らめく蝋燭の火に照らされた彼女の顔は、相変わらず美しい。不変で不朽で無情で……だからこそ麗しい。


 だが、それがいい。彼女がいてくれて良かった。彼女がいてくれたからこそ、恋を知ることができたのだから。


 そして、私はメールに好きな人ができたから、義理を通したいので欠席するとだけ記して返事とした…………。

 お題は、死体とのラブコメ。大事なのは、あくまで死体とラブコメしているのであって、死体の持ち主であり人格を持つ幽霊とではないこと。お題の主は、主人公が見た幻覚という体でいいのなら幽霊も可としましたが、ストレートに行こうと思い純愛物になりました。