作家と絵師

作者: 左右

 そのことに気づいたのは担当宛に原稿をメールし、テレビを付けた時だった。

 画面の中に見ようとしていた愉快な一家の姿はなく、代わりによく知らないタレントの姿があった。そこでようやく今日が土曜日であると理解した。

 次の仕事の取りかかりは月曜日からのスケジュールだったので、明日一日はぽっかりと予定が空いた形になる。

 締め切りにも追われず、全く予定のない日曜日はずいぶん久しぶりで、おそらく十年ぶりだと思う。

 つまり、作家としてデビューして以来初めてのことだった。



 降って湧いた休日をどう過ごそうか考えるため、テレビを消して机に戻る。

 最近行けていなかった映画でも見に行くか、それとも大きな本屋に行ってぶらぶらしようか。世間から出かけることへの抵抗感が減っている間に、あてどなく散歩をするという楽しみを思い出すのも良いかもしれない。

 そんなことを考えながら手持ち無沙汰で机の上の資料を整理する。すると、机の上に紛れ込んでいたハガキが一枚滑り落ちる。床に落ちる前に慌てて受け止めた。

 手の中に収まったのは個展の案内だ。案内状の目立つところに描かれたキャラクターには見覚えがある。見覚えどころか、およそ忘れることは出来ないだろう。何しろ十年ばかり頭の中に同居して貰っているのだから。


 個展を開いたのは自分のデビュー作からシリーズを通してイラストを担当しているイラストレーターだった。ハガキに添えられた一筆の文字にもずいぶんと見慣れた。今もキャラクターのラフ画は机の近くに貼っているし。


『お時間が合えば、ぜひお越し下さい』


 少し丸みを帯びた読みやすい文字は、かの人の絵柄に通じるものがある。デザイン案として送られてくるラフによく綴られている文字は、その走り書きも含めたデザインかのように作品によく馴染んでいる。

 自分が驚くほどの悪筆であることを差し引いても良い字だと感じた。


 そういえば個展を開く際にコメントを寄せて欲しいと担当に言われて言葉を捻り出しもしていた。

 印税だけで飯を食えて居られる程度に知名度を得たらしいペンネームで、そもそもこの名前の船出を共にした方の助けになるならば、これほどに当然なこともなかった。


 頭の中の住人の言動を写すわけではない、世間が作家としての自分をかくあらんと求められている姿をなぞるように適した言葉を探すのは変な汗をかくような気持ちになって、できればもうしたくないと思ったことも思い出す。まぁ、そんなことをしなければならない機会なぞ、それこそ、この人が個展を開くとかくらいのものだろうが。


 視線を滑らせてそのハガキを眺めていると、開催期間に目が止まる。波線の右端に縫い止められた日付は明日のものだった。いくつかの事柄が天秤にかけられ、揺らぐことなく結論が出る。

 明日の予定が決まった。



 お越し下さいと書いて貰ってはいるものの、自分の訪問を知らせるにはさすがに直前過ぎるので諦めた。ただの一観覧者として個展を楽しむことにして、明日への準備を開始する。何しろへんぴな片田舎に居を構えているものだから、個展の開催地に赴くにも予定を立てる必要がある。


 田舎では時刻表というものは生命線だ。融通の効かない時刻表と共に予定を組み立てて、大まかに予定を立てる。個展に立ち寄ってその前後で昼食と本屋巡りをしよう。休日らしい休日になりそうで胸が弾む。


 そこに来て、ふと個展にはかの人も来られているかもしれないと思い当たる。であれば、挨拶をすべきだろうか。いや、しかし、向こうも誰とも知らぬ人に挨拶されても困るだろう。何しろ私は、もう十年の付き合いともなるそのイラストレーターと顔を合わせたことがないのだから。


 やりとりは全て担当編集を挟んだもので、仕事以外のやり取りなど、年に一度年賀状を出版社経由で送ることくらいか。それだって定型文が印刷されたハガキに一筆添える程度のもので、およそやり取りらしいやり取りなど無いのだ。


 こちらも向こうが分からぬし、向こうだってこちらが分からない。受付の方に頼んで個展を開かれている先生を教えてもらうというのも手だろうが、もし居なかったならば受付の方とも気まずい雰囲気になるだろうし、居たとしても何を話せばいいのかてんで見当がつかない。生来人付き合いが得意な方でもないわけで。

 今度は随分と長く天秤が揺らいだ後で、当初の予定通り私は一観覧者として過ごそうと決めた。



 となれば逆に不安になった。私は悪目立ちすることなくきちんと一観覧者に擬態せねばならない。万が一にでも後から私の正体がバレた際に、かの人に要らぬ心配などをかけてはならない。

 十年来、いかに他人の意表をつくかということに注力してきた頭はこんな時に全く役に立ちそうもなかった。次々に浮かんでくる奇人変人らしい振る舞いから思考を振り払い、せめてもの抵抗として身だしなみだけは整えることにした。



 遠足前の子供のように浮き足立ったまま床につき、目覚まし時計より先に目覚める。用意していた、かつてマネキンごと購入した衣装に身を包み、昨晩磨いた靴を履き、午前の早い時間から家を出る。どこからどう見ても浮かれているし、自分でも否定できない。

 念のためにハガキを持って出かけた。向かったのはいいものの目的地の仔細を忘れて辿り着けなかったなどという恥ずかしい(そしてこのポンコツの脳みそでは度々起こる)笑い話を回避したかったからだ。


 電車を乗り継ぎ、喧騒に満ちた駅に降り立つ。やたらと多い出入り口がどう繋がっているのかいまだに自信はないが、葉書に書かれていた通りの方角から出ればなんとか目的の通りに向かうことができた。頭の中で何度も道順を反芻していたのは、少なからず緊張していたのだろう。


 個展の場所は思って居たよりもこぢんまりとした建物だった。ガラス張りの光を多く取り込むような設計の建物に控えめにポスターと立て看板があった。最終日だからということもあるのかポツポツと人が入っているのが見えた。

 ポスターの右上によく知るキャラクターの姿もある。当たり前のようにその子に目が留まった。いつからか私の頭の中に住み着いたそのキャラクターは、当初非常に曖昧模糊とした形をしていたはずなのに、今ではもう私の中ですらその姿で現れる。この世に生み出したのは私だが、形を与えたのはあの人と言えるだろう。

 立ち止まってしばし眺めて、我が子に励まされるように受付に向かった。


 受付で笑顔と共にパンフレットを受け取り、挙動不審ではありながら、まだ世間一般的な「お上りさん」で受け入れられる程度に落ち着きつつ、個展へと足を踏み入れた。

 目が向くのは、やはり付き合いの長いキャラクターだが、そのコーナーにはポツポツと人が入っているのが見えた。面映さとむず痒さを覚えて後回しにすることにする。


 踵を返して、人気の少ない、そして展示数も少ないコーナーに向かう。そこに飾られている絵に私は足を止める。ドキリと胸が跳ねた。かつて湧き上がった思いの足跡が飛来する。


 そこにあるのは美しい風景画だ。現実のものともファンタジーだとも断言できない奇妙な人懐こさと神々しさを内包した景色の中で光の表現が目を引く。


 私はその絵を見たことがあった。かつて、かの人が私の仕事を引き受けてくださると言われた時に見に行ったのだ。かの人の描くものを。


 当時はキャラクターのラフは受け取っていて、その時点で素晴らしかったが、色塗りなどはどのような仕上がりになるのだろうと、絵画素人が分からないなりに興味をそそられて、かの人のイラストが掲載されているサイトを見に行った。


 そして、愕然とした。かの人の作品は美しい風景画ばかりでキャラクターめいた人物画は一つもなかったのだ。


 開けども開けども現れる美しい景色に私は魅了された。この世界がどこまでも続いてほしいと願った。

 そして、最後の絵を舐めるように見た後に、今日も見たあのイラストがここに並ぶことを想像して胸が引き裂かれるような気持ちになった。


 こんなに美しいものを描く人に人間を描かせてしまった。

 浮かんだのはその罪悪感。


 かの人の世界は完成されていた。そこに異物を産み出させてしまった。そんな傲慢な自意識が心を責め、そして同時にどうしようもない優越感を与えていた。

 私があの人の世界を壊した。であれば、その責は、筆で応えねばならぬだろう。

 かつての私が筆を握り続けた使命感の一つが時を超えて胸に飛来した。


 私のデビュー作が有難いことに世間に受け入れられてから、あの人の描くモノに所謂キャラクターが増えた。自惚れを承知で言えば、私たちは一緒に『見つかった』。今ではあの人といえば独特な色彩感覚を生かしたポップなキャラクター造形と言われるだろう。


 あの日の私が感じた通り、私はあの人のキャリアに一つの楔を打った。


 翻って今、私はきちんと書けているのだろうか。

 十年、共に駆け抜けてきたと思う。

 その時の書ける全力を持って書いてきたと自信を持って言おう。それでも、それがこの人の努力に報いるものになっているのか。それは分からなかった。

 私と組んでいなければ、もっと高みに行っていたかもしれない。もっと書きたいものを自由に書けていたのではないか。そんな不安は常にあった。


 世間というものは既知を求める。己が定める枠に収まるものを良しとする。私とかの人は共に『見つかった』。だからこそ、あの人は私と近しい形の枠を求められてきた。本来のあの人自身の描いていたものとは異なる形に。私が好きになった絵とは異なるものを求められることになってしまった。


 その風景画は相変わらず美しかった。素晴らしかった。時間を忘れて見入ってしまうほど。

 それなのにここを眺める人はこんなにも少ない。

 何故ならば、それは「らしくない」からだ。私が作ってしまったかの人らしさにこれはハマらない。

 声を上げてなんで素敵なんだと叫びたくなった。多くの人に見て欲しかった。だが、そんな事は出来ない。それは奇人変人の振る舞いそのものだ。

 それこそ、あの人の世界を壊す事だ。一度目ですらこうして立っていることが辛いのに、二度目はごめんだった。


 しばらくして、人が近づいてきた。知らない人だった。


「あの、すみません、もしかして」


 その人は私のペンネームを小さな声で呼んだ。


「え」

「あ、すみません、私は」


 その人はまた小さな声でかの人の名前を名乗った。


「え、あ、は、初めまして」

「初めまして」


 柔らかく微笑んだ顔が何度も見た私の心の中に焼きついた子たちの笑顔と重なった。私も辿々しく名乗ると、その人はほっとしたように笑った。


「良かった。あの、お名前を見て、もしかしてと思って」


 そう言われて確かペンネームではなく本名で書いたはずなのにと目を瞬かせると、その人ははにかんで説明をする。


「文字が、同じだと思って。合っていてよかったです」


 脳裏に己の悪筆が浮かぶ。確かに癖が強い悪筆は見間違えはしにくいかもしれない。だが、この人が私の字を覚えていた。見てすぐに分かるほどに、ということに驚きが隠しきれない。

 ふっと妄想が浮かぶ。毎年取り交わす年賀状。そこに小さく、それでも少しは丁寧に書こうと努力した歪な文字を、そこに並んだ言葉の羅列を、この人が丁寧になぞるように眺めては机に向かう様。

 私の机の上にかの人のラフが飾ってあるように、この人の机の上に私の年賀状が置いてある景色を。


「昔、私の風景画が好きだっておっしゃってくださったので、背中を見てもしかしてと思ったんです。ありがとうございます、見てくださって」


 その人は頭を下げた。私は慌てて己も頭を下げた。書いたか、そんなこと、書いた気もする。自問自答。十年も経てば最初の頃に書いたメッセージなんて覚えていない。でも、この人は覚えていたんだな、と思った。


「あの、宜しければ、見ていただきたい絵がありまして」

「な、何なりと」

「こちらにどうぞ」


 穏やかな声音でかの人は言い、私は挙動不審のまま後をついていく。


「こちらです」


 そこに飾ってあったのは一枚のキャンバス。

 美しい風景画の中に個性豊かなキャラクターたちが生き生きと描かれている。


「個展を開くにあたって描き下ろしました。先生、十年間ありがとうございました。……これからもよろしくお願いいたします」


 言葉は時に無力だ。

 たった一枚の絵で私の十年間の悩みは吹き飛ばされてしまった。

 私は結局この人の世界を壊すことなどできなかったのだと分かった。

 見惚れたかつての風景画がさらに力を増して魅力的になり、そこに人物があることで時間と奥行きが生まれていた。

 全てを飲み込んだ新たな世界がそこにあった。

 深呼吸をする。

 私はまた頑張らねばならない。これに負けぬよう、胸を張れるよう書かねば。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 絵の前で握手をする。十年来の戦友と、固く、固く。

 これからも共に進み続けるために。