選外令嬢といわれた令嬢の選んだ生き方
ベインズ伯爵家、といえば建国以来続く古い家である。それくらいしか誇れるもののない家であった。
領地の大きさは大きくもなく小さくもなく、小麦や大麦などの穀物の生産をおこなっており他に特別目立った産業などはない。貧しくはないが富豪でもない、貴族として中の中、そういう家だ。
現ベインズ伯爵には四人の子どもがいる。跡取りである長男の下に長女、その下に双子の次女三女という四人兄妹だ。
長男には領地開発に伴う事業提携に関係しての政略結婚相手が決まったけれど、三人の令嬢の嫁入り先については領地に関係するような政略結婚はどうしても必要なことではなかった。
そのため娘たちが幸せに不自由なく暮らしていけるように、と当主が結婚相手を探した結果……当主が学生時代に仲良くしていた親友の息子との結婚話がもちあがったのだった。
当主の親友は二人おり令息は二人、ベインズ伯爵家には年頃の令嬢が三人。人数が足りないことはない。
「長女のエイダ十六歳、エイトケン女学院に通っている。次女のルナと三女のオリヴィア。二人は二卵性で容姿は似ていないが双子でね、どちらも十四歳だ。来年から貴族学院か女学院のどちらかに通うことになっているよ」
ある日ベインズ伯爵家で開かれたお茶会という名の顔合わせでありお見合いが開かれ、ベインズ伯爵は親友とその息子たちに三人の娘を紹介した。
三人の姉妹は全員が雰囲気は少し違うもののほどほど容姿が整っていて、貴族令嬢として必要なマナーをしっかり身に着けていた。どの娘を選んでも貴族家的には問題がない。
となれば、差がつくところは令嬢の人となりであり、令息との相性の良し悪しというところになる。
――売れ残るのは、私だろうな。
お茶会が始まり、二人の令息の顔を見た瞬間に、ベインズ伯爵家の次女であるルナはそう思った。
父親の親友の息子、という人物とは初めて顔を合わせ、彼らがどんな性格の人かなんて当然知らなかった。でも、なんとなくそう思ったのだ。そして、そういうルナの予感めいた感覚はいつも当たる。
長女のエイダは同じ年の侯爵令息と婚約を結んだ。
侯爵家の跡取りとして日々勉強に励む令息は、落ち着いた性格で読書が趣味という知的な長女エイダと話が合った。
侯爵家の領地は山岳地域で農業に適しておらず、ベインズ伯爵家で生産される穀物の取引を望んでいることから……当人たちの気持ちもあったが、半分は政略的な意味が含まれた婚約が結ばれた。
三女のオリヴィアは一つ年上の伯爵令息と婚約を結んだ。
令息の家は伯爵家ではあったけれど、先代に子爵から伯爵に陞爵されたばかりで歴史がない。下位貴族であった時間が長かったせいか、格式ばった部分は少なく本人は人との距離が近く表情も豊かだ。三女のオリヴィアは人前でのマナーはできているが、生来素直で元気で堅苦しいことが苦手なタイプだ、同じタイプの伯爵令息との相性はバッチリだった。
商会の運営で財を成して爵位を得た伯爵家の令息との縁談は、ベインズ領で採れる小麦や豆などの穀物の販売ルートが新たに開けるとして……こちらも半分くらいは政略の意味が含まれた婚約となった。
親友の息子と自分の娘の縁と領地の繁栄につながる縁が結ばれ、跡取りにもすでに立派な婚約者がいる。
ベインズ伯爵夫妻は安堵して喜び、この素晴らしい縁を神に感謝した。これ以上のご縁はないと。
しかし、伯爵夫妻は今回のお茶会で婚約に結びつかなかった次女ルナの存在を忘れたりはしなかった。お茶会が終わったテラスでルナに声をかける。
「今回は縁がなかったが、おまえにはきっと別の縁があるのだろう。まだ十四歳だしな。来年から通う学院できっと縁もある」
「……はい」
「おまえの兄と姉妹が結んだ縁があれば、我が家も領地も安泰だ。十分な縁が結べたからな。おまえは自由にしていい」
「そうね。ルナ、あなたは身分に関係なく、あなたが好きになった男性と結婚したらいいわ。あなたは兄弟たちから自由をプレゼントされたのよ。みんなに感謝しなくてはね」
自由。
ルナは両親からそういわれても返事ができなかった。特に嬉しいと思わなかったからだ。
貴族の娘として生まれた以上、領地と領民のための結婚をするものだ。祖父母はそういっていたし、両親も領地を巡る水路工事の関係で結ばれた政略結婚だったはず。兄も姉も妹も、大なり小なり領地が豊かに、便利に、安全になるための意味がある婚約を結んだ。
自分も当然そうあるべきだと思っていた、それが貴族令嬢の責務だと。けれど、突然両親によってその梯子を外されてしまったような気持ちになる。
ルナにとっては『自由にしていい』は『どうでもいい』といわれているように聞こえた。
おまえは貴族の令息に選ばれなかった、役に立たない。だから好きにしたらいい、どうでもいいから。
「そうだな、女学院では新しい出会いもないだろうから、おまえは貴族学院に通うようにしなさい。そこで好きな結婚相手を見つけて結婚するように」
「そうね、そうしなさい。きっと素敵な男性と出会えるわ」
長女と三女の婚約式の準備で忙しくなるといってベインズ伯爵夫妻はテラスから去り、ルナは一人残された。長女と三女は婚約者となった令息と庭を散策しているらしい。
「……自由? 自由ってなんだろう」
十五歳になったら貴族学院か女学院に通って、十八歳になるまでに家が決めた相手と婚約をして、学院卒業と同時にその人を結婚する。それ以外の道を考えたことのなかったルナは、突然与えられた『自由』に戸惑っていた。
**
貴族に生まれた者は爵位、性別に関係なく十五歳から十八歳までの三年間を学院に通って学ぶことが義務付けられている。通う学院は複数あるが、ルナは当初姉が通っている女学院に入学するつもりでいたのだけれど、「女学院に行ったら出会いなどない。出会いを得るためには共学の学校だろう!」と両親にいわれるまま貴族学院イースト校に入学した。
双子の妹オリヴィアも同じく女学院に入学予定であったのを変更し、貴族学院イースト校に入学した。「婚約者と同じ学校に通いたいの!」、「彼と一緒に登下校したいから」、「婚約者と学生時代の思い出がほしいの」というなんともピンク色な理由で。
イースト校はベインズ伯爵邸から馬車で二十分ほどの距離がある。ルナは毎日一人、伯爵家の馬車に乗って学院に通う。
「ルナ嬢もご一緒しませんか? オリヴィアとは姉妹ですし、将来私たちは義理の姉弟になるのですから遠慮はいりませんよ」
などと入学当初はオリヴィアの婚約者である伯爵令息が声をかけてきたけれど、お断りした。
婚約者の背後で自分を睨みつける妹が『断りなさいよ』と目で訴えていたし、そもそも妹の婚約者と三人で同じ馬車に乗っての登下校なんて、余程の理由がない限り嫌だった。二人の仲は見ているだけでうんざりするような甘さだったから。
どう見ても二人は相思相愛で、誰かが入り込む隙はない。だというのにオリヴィアは何故かルナに婚約者を取られるのでは? という妄想をしているときがあって、無意味にけん制してくる。
ルナにとって伯爵令息は〝妹の婚約者〟でしかないので、正直にいって妹の妄想はとても迷惑だ。
「面倒くさい」
大きな吐息と共に、ルナは素直な気持ちをこっそりと吐き出していた。
* 〇 *
貴族学院イースト校に入学したルナは自分を覆っていた殻が壊れ、その先に世界が広がっていくのを感じた。
自分の中には、貴族の娘として生まれたのだから家の決めた相手と結婚するのだ、という一つの道しか存在していなかったことを理解したのだ。
学院の同級生や先輩には生まれも性別も関係なく、ルナには思いもつかなかった道を歩もうとしている人がいる。
王宮文官を目指している者、王宮で王族に仕える侍女を目指している者、医師を目指している者、学者を目指している者……ルナは驚き、感心した。
貴族の娘として政略結婚するものだと思っていたけれど、別の道もある。そういえば以前父がいっていた「自由にしていい」と。それは結婚相手を好きに選んでいいという意味だったと思うけれど、結婚などしなくても問題はないということにならないだろうか?
どんな相手と結婚してもいいというのなら、結婚などしなくてもいいのでは?
ルナは第二学年から始まる専門教育の選択に、〝文官〟になるための授業を取ろうと決めた。
外国語や自国と他国の歴史、速記や美しい文字の書き方など自分ができることを増やすような授業を選択し、次々と修める。それはルナにとって自信に繋がり、達成感を得て満足するという心地よさに繋がって、ルナは学ぶことに夢中になっていった。
**
学院の生徒主催のお茶会。主に貴族家当主の妻として女主人になる女子生徒たちが、お茶会や音楽会などの催し物を開催するための練習の場、授業の一環として開かれるものだ。
あくまで生徒が開催しているもので、多少のミスがあっても大丈夫。大人になってから「学院で初めて催したお茶会でこんな失敗を~」といってウフフ、オホホと笑って終わりになる。
ただし、失敗は許されるけれど開催するための手順は本番となにも変わらない。
お茶会や音楽会、詩歌鑑賞会など、それぞれにテーマを決めそれに見合った飾りつけや茶器、お菓子、茶葉を人数分手配。もちろん招待状も正式な書式に則って書かれる。
将来は伯爵夫人になることが決まっているオリヴィアから招待状を差し出されたルナは、「いかなきゃダメ? 勉強したいんだけど」と言葉にする前に「絶対、来てよね。主催の兄弟と婚約者が欠席するとか、あり得ないんだから。私に恥をかかせる気なの?」とやたら迫力のある力強い笑顔で言われてしまい、「わかった」としか言えなくなった。
将来は文官として働き、どこかのタイミングで貴族籍からも抜いて貰おう(兄嫁が家に入ったときに小姑である自分がいては兄にも兄嫁にも申し訳がない)と思っていたため、ルナはお茶会や夜会のマナー講座は最低限しか履修していなかった。そのため、ほとんど生徒主催のお茶会や音楽会などのお誘いはなかったし、それで問題ないと思っていたのだ。
「絶対来てよね! 私、頑張ったんだから」
オリヴィアはそういって、美しい装飾がされた招待状をルナの手に押し付けた。
近い将来、姉が侯爵家に嫁ぎ、妹は伯爵家に嫁ぎ、実家は伯爵家。将来貴族籍を抜ければ夜会は逃げられても、お茶会は参加必須なこともこの先あるかもしれない。ならば、お茶会の経験は積んでおいた方がいい、そう思い直したのも事実だった。
オリヴィアとクラスメイト三人が主催で開催されたお茶会は、季節を楽しむというテーマだった。
冬らしく、架空の雪の国が舞台になっている〝雪の国の王子と渡り鳥〟という童話がモチーフに選ばれていた。
童話の内容に沿った飾り付けも凝っていて綺麗だし、渡り鳥が王子に運んで来た果物であるりんごを使った飲み物とお菓子は可愛らしく、茶器には全て渡り鳥が描かれている。
ルナが手にしたりんご果汁とカラフルなゼリーを使ったカクテルは、甘いけれど後味がさっぱりしている。こってりした味のものが苦手なルナは素直に美味しいと感じた。
壁を背にしながらカクテルを飲み、楽しそうに話しに花を咲かせる生徒たちを眺める。
今回は一年生が主催したお茶会ということで、参加者は一年生と二年生が圧倒的に多い。主催する側も参加する側も慣れていないせいか、逆に和やかな雰囲気になっていて参加者たちも気楽にお茶と会話を楽しんでいるように見えた。
――みんな楽しんでる。お茶会は成功してるよ、オリヴィア。良かったね。
婚約者である伯爵令息にも褒められたのだろう、頬を桃色に染めて恥ずかしそうに笑うオリヴィアは可愛らしい。きっと婚約者も惚れ直していることだろう。
ルナは空になったグラスを返却すると、そっと会場出口の方に足を向けた。
「いやぁ、可愛いよなぁ」
「本当に。婚約者がもういるなんて、それが残念でならないよ」
「全くだ」
会場の隅に集まっている令息たちの会話が耳に届く。
「このお茶会も良い雰囲気だし、きっと結婚して家に入ってくれたら……こういう穏やかな雰囲気の家庭にしてくれるんじゃないかって想像するよ」
「わかる。うちは父と母の関係は冷え切ってるからさ、家の中も冷え冷えなんだよね。だから、こういう優しい雰囲気の出せる令嬢がいいって思うんだ」
なるほどね、ルナは納得した。
催される会の雰囲気は、主催する人の考えや人となりが繁栄されることが多い。本人が優しい雰囲気の令嬢の開くお茶会はやはり優しい雰囲気が感じられるし、知的な雰囲気の令嬢が開くお茶会は隅々まで配慮が行き届いていて背筋が伸びる雰囲気がする。
オリヴィアやその友人たちは、優しく楽しい子たちなのでお茶会もその雰囲気が出ていて……それに惹かれる令息の気持ちも理解出来た。
「オリヴィア嬢は無理だが、アガサ嬢はまだ婚約者がいないらしいよ」
「彼女は……子爵家の長女だったっけ? いいかもな」
噂話をしている令息たちには婚約者がいない、らしい。ならば、話しを持って行くこともありだろう。ルナは令息たちを避けながら出口に向かった。
「ああ、そういえばオリヴィア嬢には双子の姉妹がいるとか。姉妹の方は婚約者がいないって聞いたよ?」
話題が自分に向けられ、思わず足が止まった。
「え? あー、あの選外令嬢だろ?」
ギクッと心が震えて、ルナはこっそりと近くの柱影に入る。
「……」
これで令息たちの目に入ることなく、話しを聞くことができる。
彼らの話を耳にするべきではないと思う自分と、聞きたいと思う自分がいて……後悔するとわかっていながらも後者に軍配があがった結果だった。
「えっと、確か……ルナ・ベインズ嬢だよね。オリヴィア嬢の双子の姉妹」
「そう。でもって、ベインズ家で開かれたお見合い会で選ばれなかった、選外令嬢さ」
「選外って言いすぎじゃないか? だって、お見合い相手の令息は最初から二人でベインズ家の姉妹は三人。ひとりは婚約しないって、確定だったじゃないか」
そうなのだ。ルナの父の親友は二人で子息は一人ずつ。ルナは三人姉妹なのだから、単純な引き算でひとりは婚約しないことになる。
「そうなんだけど、そうじゃないんだよ」
「どういうこと?」
「俺の姉がお茶会で聞いたっていうんだけどさ。実のところ幾ら父親同士が親友であってもその子どもは別だろう? お見合い目的で例のお茶会は開かれたわけだが、当人同士の気持ちが優先されるものだったんだってよ」
「え、じゃあ……婚約は絶対じゃなかったってこと?」
「そういうこと。誰も婚約しないとか、一組だけ婚約したとか、そういうことも十分ある話だったらしいんだよ」
「それじゃあ……」
「ルナ嬢は普通に選ばれなかったってわけ。性格が合わなかったのか、容姿が気に入らなかったのか、他になにか気に入らないことがあったのかは知らないよ? でも、彼女は普通に侯爵令息にも伯爵令息にも選ばれなかったんだよ」
はぁー、そうだったんだ、という納得する言葉の後に、オリヴィアと双子のはずなのにパッとしない容姿だとか、オリヴィアのように明るくもなければ可愛らしくなくて全然似てないだとか、地味で無口でがり勉だとか、性格が悪そうだとか、意地が悪そうだとか、ああいうタイプが裏で男関係が激しいんだとか、だから令息たちに選ばれなかったんだという言葉が続いた。
世間でルナ・ベインズという伯爵令嬢がどう思われているか、その一面を知ることができた……のだけれど、どうにも胸が痛い。目元が熱くなってきて、涙が零れそうになる。
これ以上この場にいて、彼らの話を聞いていても意味がない。わかっているのに、ルナは足が竦んで一歩が踏み出せずにいた。
「……失礼」
小さな、囁くような声と共に大きな手がルナの手首を掴み、素早く出口へと歩き出した。大きくて熱い手だ。
「え……」
先ほどまで一歩も動かなかった足が嘘のように動き出し、ルナは自分の手首を掴む一人の令息の後を追いかけるように会場を後にしたのだった。
引っ張られるように廊下を進み、お茶会の会場から遠く離れた小さな休憩所にまでやって来てからようやく足が止まった。
「あ、あの……」
ルナが声をかけるとようやく熱い手から解放されて、ここまで連れて来た張本人が振り返る。淡い茶色の髪に海のように深い青色をした瞳が申し訳なさそうに伏せられた。
ブレザーについた校章の色から、ルナより一学年上の先輩である。
「突然申し訳ありませんでした。あの場にあなたが居て良いようには思えませんでしたので、お声がけすることもなく強引に連れ出してしまいました」
「……いえ、ありがとうございます。私もあの場から離れなくては、そう思っていたのですがどうしてか足が動かなかったのです。ですから、連れ出してくださったこと感謝します。ありがとうございました」
深くお辞儀をし、お礼を述べるとルナは自分の教室に戻ろうと先輩に背中を向けた。
「あのっ」
「はい?」
「……先ほどの言葉、あなたが気になさることはなにもないと思います。彼らは憶測で好き勝手に話しているだけですから」
「お気遣い、ありがとうございます」
ルナは歩き出した。助けてくれた令息に名前を聞くこともしなかったし、向こうがルナの名前を聞いて来ることも再度引き留められることもないままだった。
**
ルナはあれから一層勉学に打ち込み、文官の登用試験に優秀な成績で合格した。もしも登用試験が不合格だったのなら、侍女としての採用試験に挑むつもりでいたのだけれど、気持ちだけで終わって安心した。
ベインズ伯爵家の双子姉妹が貴族学院イースト校を卒業した年の初夏、長女のエイダが婚約者と婚姻し侯爵家に嫁いでいった。同じ年の秋、オリヴィアが婚約者と婚姻して伯爵家に嫁いでいき、ルナはベインズ伯爵邸を出て王宮にある文官寮の一室へと移り住んだ。
長女と三女が無事に嫁いでいき、次は長男の結婚だと支度を始めたときに父親である伯爵は言った。
「ルナ、おまえの結婚はどうなっているんだ? 来年にはブライアンが結婚して婚約者が我が家にやって来るんだが……おまえはいつまでここにいるつもりだ?」
出ていけ、そう言われているのだと思ったルナは「申し訳ありません」とだけ返事をして、急ぎ手続きを取ると二日後には文官寮へと入ったのだ。
伯爵は突然家を出て行ってしまった次女の行動に対して、妻に「そんなつもりじゃなかったんだ、出ていけなんて言ってない。ただ、あの子にだって結婚を約束した恋人の一人や二人いるのだろう? その相手との結婚がどうなっているのか、いつ挨拶に来るのか。ルナがいつまで家にいてくれるのか、それを知りたかっただけなんだ」と言い訳をしたが、ルナの耳には届かなかった。
ルナに結婚を約束した相手など、それ以前に恋人と呼べる存在がなかったことが長男の口から伝えられ、「ルナに相手がいないなんて思いもしなかったんだ! だって、あの子は美しいし勉強もできる落ち着いたいい子だから!」と夫妻が後悔したのはそのしばらく後のことだったが、それもまたルナの知らぬところでの出来事だったし、彼女の耳に入ることもなかった。
**
ルナが文官として王宮に勤め、五年が過ぎた。
外国語に明るいこと、書く文字がとても美しいこと、常に落ち着いて行動がとれること、などが評価されて、ルナは文書課に配属されていた。主には会議の書記を務めている。会議の内容を速記で書き取り、後ほど美しく清書するのだ。
外国籍の官僚との会議も問題なくこなせるため、書記として指名されることも増えている。それはルナにとっての誇りであり、文官としてここにいて良いのだという安心に繋がっていた。
ルナもすでに二十三歳となり、貴族令嬢としては嫁ぐ機会を失った者、と認識される年齢となった。けれど、与えられる誇りと自信がルナを支えている。
この五年の間に兄が婚約者であった侯爵令嬢を妻に迎えて二児の父となり、そろそろ爵位を継ぐのだという話を姉と妹から聞いたルナは「そうなんだ」という素っ気ない言葉を返す。兄が爵位を継いだタイミングで自分の籍を抜いて貰おうかな、そう考えた。
兄嫁はベインズ伯爵家と同じくらい歴史のある侯爵家の三女であった人で、〝貴族の令嬢に生まれた以上、他家に嫁ぎ跡取りを生み育てることが使命〟という考えを持っている。高位貴族にはよくある考えだから、特別不思議はない。
兄嫁は姉と妹とは大変仲良く親戚付き合いをしているらしいけれど、ルナに対する当たりはかなり強い。結婚もせず、文官として働いているルナを〝貴族令嬢とはいえない〟と家族である認めることをしない。
兄や両親は、嫁とルナとの間で苦しい思いをしていることもうすうすわかっている。ルナ自身も兄嫁と仲良くできる自信はない、問答無用で嫌ってくるのだから歩み寄りは難しい。
「貴族籍がないと、今後の仕事に差し障りがあるでしょうか?」
他の文官たちが帰宅し、上司と二人になったところでルナはそう切り出した。
「いや、特別問題はないよ? すでにキミには実績もあるしね。……っていうか、突然どうしたの?」
「問題がないのならば、家を出ようかと思いまして」
「もう家は出てるじゃないか」
「そういう意味ではなくて、ベインズ家の籍から抜けようかと思っているのです」
「なぜ、と聞いても?」
ルナの上司はペンを置き、話しを聞く体勢に入る。
男運は全くないけれど、同性の友人と上司には恵まれた、そう思いながらルナは今置かれた自分の立場と兄嫁との関係などをすっかり話してしまった。
「……そういう理由で籍から離れようかと。もしも平民籍になったことで、万が一にも仕事に不都合がでてはいけないと思い、事前に確認しようと思った次第です」
語り終わるまでの十数分、上司は相槌をするだけでじっとルナの話を聞いていた。
「……質問してもいいかい?」
「どうぞ」
「キミへの結婚申し込みはどうなっているんだ?」
「姉妹の婚約が調った後、私は自由にするようにと父からは言われております。しばらく前に兄に確認をしたのですが、学生時代も文官として出仕するようになってからも過去一度も私宛てに婚約の申し込みや、それに準ずるお茶会などのお誘いはないそうです」
「…………わかった。では、キミ自身は結婚についてどう考えている? 結婚する気はあるかい?」
「今までそのようなお相手がおりませんでしたので、私は結婚せずに文官として引退するときまで勤め上げるものだと考えておりましたけれど、そうですね……随分と結婚に適した年齢を過ぎてしまっている私でも良い、と望んで下さる方がもしもいらっしゃるのならば前向きに検討したいと思います」
「相手に望むことはあるかい?」
「……酒乱であるとか、暴力的であるとか、すでに奥様が大勢いらっしゃるとか、そういう一般的に非常識とされるところがなければ問題ありません。後妻を望んでいられるとか、すでに跡取りの子息がいらしても私は気にしません」
恋や愛に憧れたのはまだルナが幼かった頃の話だ。自分に対する世間の評価を知った後は勉学一筋で、淡い恋との遭遇もなかった。結婚のことなど、そういう相手がいないのだから想像することもないまま今を迎えている。
貴族令嬢は十八歳から二十歳までに結婚することが一般的といわれるこの国で、婚約者もおらず二十三歳になっているルナでもいい、そういう相手はいないだろうと思っての発言だった。
「よし、では除籍は少し待つがいい。貴族籍があった方がよいかもしれないからな」
上司は「私からの連絡を待て、それまで勝手な行動はとるなよ」そう言って、ルナを文書課の事務所に残して急ぎ出て行ってしまった。
「どういう、ことなんでしょ?」
取り残されたルナは一人、首を傾げて呟く。当然それに答えをくれる者などおらず、自身の机を片付けてから寮へと戻ったのだった。
**
「どういう、ことなのでしょうか?」
最近流行りだという貴族御用達のカフェへ上司に連れられてやって来ると、個室に案内された。豪華だが落ち着いた雰囲気の個室では、ひとりの令息が待っていた。
「自分を妻にと望む者がいるならば、前向きに検討するといったのはキミだろう?」
「そう、ですけど……」
ルナにとっては青天の霹靂だ。自分を妻に望む人などいない、そういう前提で話しをしたのだから。
「彼はアレクシス・ワイズ。ワイズ侯爵家の次男だ」
青年は立ち上がると、貴族令息らしく優雅に一礼した。
「アレクシス・ワイズと申します、ベインズ伯爵令嬢」
「……ルナ・ベインズでございます」
「……」
「……」
シンッと室内が静まり返る。言葉が続かない。ただ二人で棒のように突っ立っているだけ。
上司のハァーという大きなため息が聞こえ「ええい、今時の若い者の癖に!」という大声が響いた。
* 〇 *
テーブルの上には爽やかな香りのする紅茶に、季節の果物を使った焼き菓子が並ぶ。カフェ自慢のお茶と一番人気だという菓子だった。
「若い者に任せようと思ったが、そうはいかぬようなのでな。仕方がない、私が説明しよう」
ルナの上司は紅茶で喉を潤すとそう宣言する。
「このアレクシスは先月まで隣国におった。貴族学院の第二学年が終わったと同時に留学し、そのままあちらの王宮で文官として働いていた。そうだな?」
「はい、留学先の学校で学友に恵まれまして、そのまま文官として働いていました」
聞けば学友に宰相子息がおり、侯爵家の生まれとはいえ次男であるアレクシスには嫡子の予備として使われなければ自立する道しかない立場である。このままこちらで働け、と誘われて宰相室で働いていたのだという。
「ワイズ侯爵家はアレクシスの兄が後を継ぎ、夫人は現在身籠っている。普通にいけばアレクシスの出番はない、はずだったのだが……事故が起きてな」
「それについては私が説明します。ワイズ侯爵家には直系の分家が幾つかあるのですが、その内の一つにバニスター子爵家があります。今は私の祖父の弟、大叔父が当主として治めているのですが……大叔父夫婦を残し、大叔父の家族が船の事故で皆亡くなってしまい跡を継ぐ者がいなくなってしまったのです」
「そこで、アレクシスに跡取りの話が回って来たというわけだ」
「はい。バニスター領は領地としては大きくありませんが、海に面していまして大きな港町が幾つもあり、外国からの航路上特に重要な街を有しています。外国からの船も多く、他国の王族や外交官が最初に足を踏み入れる街でもあって……その、バニスター子爵家の役目は簡単にできるものではありません」
ルナはなるほど、そうだろうと納得した。
この国に外国から入るルートは、馬車や最近開通したという鉄道を使う陸路、船を使う海路の二種類がある。海路で入るルートは、大きな港町が玄関口となるけれどバニスター子爵領にある街がその中の一つであり、貴人の利用が多いのだろう。
子爵と子爵夫人は街の治安を維持し、貴人の歓待をし、王都へ陸路で向かう準備を整えなくてはならない。
「アレクシス自身は海外生活も長く、言葉にもマナーにも不自由はない。だからといって、アレクシス一人では役目をこなすことは出来ない、夫人にも役目を担って貰うことになる。アレクシスは現在二十四歳で、彼と年頃の合う未婚の令嬢で外国語とマナーに明るいとなると……いなくてな」
貴族の結婚では十歳程度の年の差など、あってないようなものと扱われる。アレクシスは現在二十四歳、十四歳の令嬢では夫人としての外国語やマナーが危うい、三十四歳の令嬢では跡取り出産のことで不安が出てくるとなると、なるほど丁度いい相手がいない。
「そこで、ルナ、キミだ。歴史あるベインズ伯爵家の次女としてマナーは完璧だし、貴族学院では女子としてはトップの成績で卒業した才女だ。文官試験も上位合格であったし、実務経験もある。年の頃も……一つ下で丁度いい。キミしかいない」
アレクシスの年齢に釣り合う未婚の令嬢で、マナーはともかく外国語という重要ポイントがある以上、ルナに話が来たことは自然なことだろう。
そこに愛だの恋だのという感情が伴わないことを除けば、ルナはアレクシスの結婚相手として完璧な令嬢だ。
「ベインズ伯爵令嬢は、王宮文書課で活躍されていると聞きました。外国からの要人を含めた会議でも、問題なく書記を務めることができるし、会話も問題ないと」
「はい」
「……役目ありきの婚姻、であることは否定しません。我々の間には恋情も家族の情もまだありませんが、これから育むことはできるし育みたいと思っています。ですから、その、私と共にバニスター領へ行っていただけませんか?」
テーブルに額がくっ付くのではないか、と思うほど深くアレクシスは頭を下げた。
「ルナ、キミにとっても悪い話じゃないと私は思うよ。伯爵家の次女として、アレクシス・バニスター子爵に嫁ぐんだ。今までキミが必死に学んで来たことが、文官として積んだ経験が、領地で生かされるだろう」
今は確かに、ルナとアレクシスの間に恋情、愛情などの〝情〟と呼ばれる気持ちは、ゴマの一粒ほどもない。あるのは、バニスター子爵家の役目を共にこなすという在る意味での政略的な思惑だ。
ルナには世の中に溢れている、愛や恋がわからない。あれは物語や舞台演劇の中にあるものという認識だ、だから〝情〟がないことはあまり気にならなかった。相手もそれを認めている。
認めてはいるものの、今はない〝情〟をこの先共に育むことをしようと言ってくれている所が好感触だった。下手に自分を愛するだのと言われる方が、嘘っぽい。
「わかりました。私がどこまでお役に立てるのかはわかりませんが、精一杯務めさせていただきます」
勢いよく顔をあげたアレクシスは安堵したように笑い、上司は腕を組んで首を大きく縦に振る。その様子を見ていたら、上司の言うとおり、自分にとって良い話だと心から思っている自分がいて……ルナも自然に笑みが浮かんでいた。
**
成人した当人たちがすでに納得していることもあって、ワイズ侯爵家からベインズ伯爵家に正式な婚約申し込みが入ったあと、過去に見ないような速さで二人の婚約は調えられた。
ワイズ公爵家の次男アレクシスとベインズ伯爵家の次女ルナの結婚は、二人の年齢や結婚後は子爵となること、子爵家のお役目の大変さを考えると特に僻まれたり妬まれたりすることもなく済んだ。外国での滞在歴が長く自国での立場の弱い侯爵家次男と、選外令嬢と呼ばれ婚期を逃していた伯爵家の次女の結婚など、どうでもよかったのだろう。世間の納得と無関心で認められたようにルナには思える。
双方の両親と、兄弟とその伴侶たちから(兄嫁を除いて)は「よかった」「幸せに」と祝福して貰えたし、バニスター子爵夫妻からも祝福と歓迎する内容の手紙を貰って満足してしまったのだ。だから、関係の薄い人や関係のない人たちの視線など気にならなかったともいえる。
アレクシスの大叔父で現子爵の年齢や引継ぎのこともあり、二人は婚約後慌ただしく荷物を纏めてバニスター子爵領へと旅立った。
二泊三日の道のりを馬車で走り、二人はバニスター子爵領へと到着する。「この峠を抜けると、バニスター領で一番大きな港があるルルピスという街ですよ」と御者が教えてくれ、街が一望できるという場所で馬車を止めた。
バニスターでの生活は今までとは全く違う。貴族令嬢としての生活でも、文官としての生活でもない未知の世界だ。だからこれから二人で子爵夫妻から教えを受ける、ことはルナも承知している。精一杯の努力をするつもりだし、婚約者との関係も円満になるよう歩み寄り理解するつもりだ。
けれど……上手くできるだろうか、取返しのつかないミスをしてしまったらどうしよう? そう思うとこれから向き合うだろう現実に緊張し不安にもなって、恐怖で押しつぶされそうだ。
足が竦んで、扉の開いた馬車から動けない。
「……ルナ」
アレックスの手がルナの手首を掴み力強く引き寄せられたと思った瞬間には、ルナの体は馬車の外へと引っ張り出されていた。
車外に出たルナの目の前に広がったのは、遠くに見える大きな港と大きさも色や形も様々な船、大勢の作業員や船員たちが荷下ろしなどに精を出す姿、にゃあにゃあと猫のような声でなく不思議な白い鳥と、淡い茶色の髪を揺らした笑顔の婚約者。
「あの時も……学院で開かれたお茶会でも、キミは心無い言葉に動けなくなっていたね」
「……え」
思い当たるのは、双子の妹オリヴィアと友人たちが開いた冬のお茶会だ。〝雪の国の王子と渡り鳥〟という童話がモチーフの可愛らしい催しだった。
お茶会自体は楽しめたし、オリヴィアが初めて開いた学院でのお茶会が成功してよかったと思ったのだけれど、そのときにルナは自分が同世代の令息たちにどう思われているのかを知ったのだ。それはルナにとっては苦しく悲しい内容で、そのショックで動けなくなった。
動けなくなった自分を助けてくれたのが一学年上に在籍している令息だったことも、令息たちの言葉を「気にしなくていい」と言ってくれたことも覚えている。
「もしかして、あのお茶会で……」
「そう、あのとき私たちは会って少しだけど話しをしていたんだ。覚えていてくれてよかった」
「……アレクシス様が、あのときの」
婚約者は頷いた。
「きっと私たちはこれから何度も困った状況に立たされる、慣れないうちはなおさらだろう。怖くなって、困ってしまって一歩が踏み出せなくなることもあるかもしれない。けれど大丈夫、あのときのように私がキミの手を引くよ」
「アレクシス様」
「その代わり、私が一歩を踏み出せなくなっていたら、キミは側にいて私に声をかけてくれるかい? 私の手を握ってくれるかい? そうしたら、私はきっとキミの手を引いて踏み出せると思うから」
アレクシスの大きな手に握られている手首が熱い。あのときも、ルナは熱いと感じたことを思いだす。あの熱さが、縮こまった自分の心を解してくれたようにも思う。
この人となら燃えるような恋心を持つことはなくても、穏やかな愛情を抱き伴侶として支え合い、助け合って家族になれる……そうしっかりと思い、感じた。
「はい、勿論です」
ルナはアレクシスの手に自分の手を重ね、アレクシスを真正面に見つめて頷いた。やはり、アレクシスの手はとても熱い。
「ありがとう。一緒に歩んでいこう」
再び峠の下に見える港町ルルピスを視界に入れる。先ほど見たときよりも、活気に満ちて輝いていて……同時に穏やかな雰囲気に見えた。
それはルナの心構えの差によって見え方が変わったのだろうけれど、その心構えの変化はきっとルナにとって良い変化だっただろう。
* 〇 *
二年後、バニスター子爵は兄の孫息子夫婦にその爵位を譲り、引退した。
二十代の半ばだという若き子爵夫妻は、お役目を果たすために結ばれた夫婦だという話であったが、仲睦まじい様子に領民の誰もが喜んだ。領主夫妻の幸福は領民の幸福に繋がる。
自分が幸せでなければ、他人の幸せなど願えないのだから。
若き子爵夫妻は周囲に見守られ助けられながらも、立派に外国からやって来る要人を歓待して見せた。大きな失敗をしたという話は聞こえてない。
歓待を受けた要人たちは皆口を揃えて「とても良くしていただいた。穏やかな気持ちで寛いで、船旅の疲れはあっと言う間にとれてしまったよ。陸路の旅の準備もぬかりなくして貰った、お陰でここまでの旅は快適であったよ」と言って満足そうに笑うばかり。
その様子に国王陛下と宰相を始め、王都で外交を担当する文官たちは安堵すると同時に誇らしい気持ちになった。
若きバニスター子爵夫妻は二人の子どもにも恵まれて、後継に職務を託して引退するまでの四十年という時間を領民たちと穏やかに暮らし、ルルピスの街にやって来る要人貴人の歓待という職務を夫婦揃って堅実に果たし続けた。
夫妻は職務を担うために引き合わされ、お互いを碌に知らないまま一年間の婚約期間を経て結婚した。けれど、夫妻の間には誰の目にも明らかな絆と信頼と愛情があった……という。
お読み下さりありがとうございます。
少しでも楽しんで頂けましたのなら幸いです。