53.老婆
アリシアは今、救護院で手伝いをしていた。
修道院に救護院も併設されていることを知ったアリシアが、手伝いを申し出たのだ。
一夜の宿の礼のつもりだったが、思いのほか重宝されて、もう滞在して十日ほどになる。
当初は祖父母を頼ろうかと迷いもあったのに、今ではそんな気も失せていた。
(王太子殿下の婚約者なんて地位はいらないわ。道具のように扱われて、誰からも愛されないのは、いや。私は王妃陛下やお父様の道具じゃない)
追い詰められて初めて見えたアリシア自身の本音だ。
それに彼らにはマリアベルがいるのだから、アリシアがいなくなっても問題はないのだろう。
ただ、祖父母やサミュエル、ミランダ、ブライアンのことが心残りだ。
(ごめんなさい。私だけ逃げ出して。魔法の鏡まで覗いてくれたのに……)
いつか何かの形で償いをしたいと思う。
アリシアが物思いに沈みながらもせっせと床掃除に精をだしていると、修道女に声をかけられた。
「あなたが来てくれて助かるわ。掃除も手伝ってくれるし、そのうえ回復魔法を使えるなんてすごいわね」
「いえ、微弱な力ですから」
「でもここではなかなか薬も手に入らないのよ。助かっているわ」
「ありがとうございます」
アリシアはいつの間にか、しばらくここで暮していてもいいかなと思い始めていた。
初めての掃除や洗濯には戸惑うこともあるが、結構気に入っている。
無給だが食事は日に二回は出るので文句はない。
やることが多くて考える暇がなく、存外居心地がいい。
(下町の生活に慣れてから、商業ギルドに行くのもいいかもしれない……)
そんな矢先、救護院に頭を怪我した老婆が運ばれてきた。
アリシアは老婆に駆け寄り、体を支えて声をかけた。
「大丈夫ですか? どこかほかに痛むところはありますか?」
「とにかく頭がいたいんだよ」
老婆の言う通り、彼女は頭から血を流していた。
アリシアがすぐに止血をして、彼女の治療にあたる。
けがをした部分が頭だったので、かなり出血していたが、思ったほどひどい傷ではなかった。
アリシアが丁寧に老婆の顔に着いた血をぬぐう。
「ありがとう。めずらしいねえ、治癒魔法を使えるなんて。お嬢ちゃん、魔法学園の学生さん?」
「い、いえ、違います」
アリシアは慌ててかぶりを振った。
彼女はとっくに学園の制服は処分して、下町で買った服を着てフードを目深にかぶり顔を隠している。
「そう、訳ありなんだね。なら事情は聴かないよ。ここではそういうルールだからね」
老婆はほっこりとした笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「実はね。私の職業は占い師なんだ。でも私は本当のことしか言わないから、客からなぐられたってわけ」
「まあ、それは大変ですね」
下町には思いのほか占い師が多い。
なかには法外な値段をとる店もある。
それでも人の悩みの種は尽きなくて、占いに縋りつきたくなるのだろう。
「大変なものか、大変なのはあの客だ。そうだ。傷を治してくれた礼にお嬢ちゃんを占ってあげるよ」
「いえ、結構です」
「そうだね。礼はあんたの持っている、そのアミュレットでいいよ」
老婆はアリシアが懐の下に隠し持っているアミュレットの場所を正確に指さした。
「え? どうして」
「じゃあ、決まりだね」
びっくりするアリシアをよそに老婆が手に触れる。
その瞬間、老婆の手からからアリシアに魔力が流れこんできた。
(この人魔法使いだ! なぜこれほど魔力が強いのに、下町で占い師をやっているの?)
老婆が突然、アリシアの手をぎゅっと強く握る。
彼女の額にはいつの間にか脂汗が流れていた。
老婆はしばらくして、かっと目を見開いてアリシアを見る。
「嬢ちゃん。私が今から言うことをしっかりと聞くんだ。そのアミュレットでもおつりがくるよ。あんたのもとに今夜ある人物が訪ねてくる。その人物の心をなんとか開かせて、一緒に逃げな」
「はい?」
アリシアは意味が分からなくて首を傾げる。
「でなければ、嬢ちゃんもその人物も無残な死に方をする。まあ、その人物に嬢ちゃんがたいして思い入れがないのなら、一人で逃げるがいい。今よりましな死に方ができる」
こうやって脅すのが、インチキ占い師のやり口だと聞いたことがある。
「私は占ってくれとは、お願いしていません」
アリシアが抗議するものの、老婆は聞く耳を持たない。
「いや、やはりその人物と一緒に逃げたほうがいいな。その人物はのっぴきならない事情を抱えている。ことによってはけがを負っているかもしれん。だからすぐに帰りたがるがそこを説得しな。そして、ここから立ち去れ」
鬼気迫る老婆の表情にアリシアは一瞬気を飲まれた。
「はあ。たいへんな予言だったのに、お代がこれなんて安いもんだね」
老婆が、きらきらと光を反射する赤いアミュレットをアリシアの目の前でかざす。
いつの間にか老婆に、懐のアミュレットを奪われていた。
「あ! 私のアミュレット」
アリシアが奪い返そうとすると、老婆が意外に機敏な動作でよける。
「嬢ちゃん、信じていない顔だね。じゃあ、大サービスでもう一つ。あんたはこれから起こるはずの一つの未来を知っている。だから別の未来を切り開いたつもりでいた。だが、それは別の地獄に続いている。非業の死を迎えたくなければ、たとえ一人でも逃げだすことだ」
きっと老婆は、アリシアが訳ありで誰かに占ってもらったことがあるのだと判断したのだろう。
訳ありなのは確かだが、……旨い手だ。
だが、騙されているとはわかっていても聞かずにはいられない。
「では、私はその人物を説得して一緒に逃げれば幸せになれるの?」
老婆は静かに目を閉じる。
「嬢ちゃんがその人物に思い入れがあれば、束の間の幸せは訪れる。その先は霧に覆われている」
「え? どういうこと」
「未来図が変わっているのだ。どう変わるかは私には見えない。嬢ちゃんが逃げれば、この修道院は少なくとも被害を受けないで済む。ここは私のお気に入りでね。不幸を持ち込まないでおくれよ」
「不幸を持ち込む? 私がですか?」
アリシアは意味が分からなくて困惑した。
「では、再び会えることを。アリシア、傷の手当てをありがとう。お前に加護を」
耳元で老婆が囁いた。
アリシアは彼女に名乗った覚えはなくて、慌てて顔をあげると、老婆は消えていた。
しばらくぽかんとしていると修道女から声をかけられた。
「どうかした。アリシア」
「いま、なんだか、占い師を名乗る女性がここにいたのですが」
修道女はその話を聞いて微笑んだ。
「ふふふ、妖精が出たのね」
「妖精ですか?」
「時々気まぐれにここに運び込まれるのよ。あなたはどんな占いをしてもらったの。そして何を盗まれたのかしら?」
アリシアははっとなって、懐を探る。確実にアリシアのアミュレットはなくなっていた。やはり幻なんかではない。ましてや妖精なんてありえない。
「もしかして、スリですか?」
修道女はふふふと笑う。
「そう呼ぶ人もいるけれど、ここでは妖精のいたずらと呼んでいるわ」
「はあ……」
なんとも牧歌的だと思った。結局はスリだったのだろう。
「でも、バンシーという別名もあるから気を付けて。あなたはどんな恐ろしい未来を告げられたの?」
アリシアの背筋を悪寒が走った。