2話 どこにでもいる男
白亜のマンションというほどに豪華な建物ではない。だが、通りかかる者が新築で瀟洒なマンションだと思い、家を手に入れるならこれくらいならローンを組めば買えるかと、多少裕福な人ならば買えそうなマンションがあった。
2LDKで、家族で住んでよし、独身が住んでも良し。受付ロビーには入る所でオートロック付きの自動ドアがあり、セキュリティ意識のそこそこ高いマンションだ。
そのマンションの一室に、独身の男がいた。カレンダーは土曜日を示し、今日が休みだとアピールするように、ベッド脇の目覚まし時計はお昼にそろそろ差し掛かろうとしている。
室内はポスターが貼ってあったり、ペットがいたり、観葉植物が飾られたり、本棚に本がずらりと並んでいたりと、その人となりをわからせるような特徴はなく、フローリングの床には絨毯が敷かれており、小さなテーブルがちょこんと配置されており、ノートパソコンが置かれている。部屋の隅に二段に分かれた戸棚があり、趣味嗜好を感じることのできない乱雑な種類の本が仕舞ってある。戸棚の上にテレビがあり、総じて言えば、無味無臭の簡素な部屋であった。
ベッドだけは少し豪華で寝心地の良さそうな低反発マットレスが敷かれており、ふかふかの羽根布団とオーダーメイドの枕が睡眠を大事にしているのだなと、辛うじて他者が思うくらいだ。プロファイリングをすれば、あまりの特徴のなさに心理学者は困惑してしまうだろう。
プロファイリングの結果はと聞かれれば、しっかりと掃除はしていますね、との一言くらいだろう。
「あぁ~、もう昼か」
もぞりと布団が蠢くと、男が起き上がる。眠そうに大きく口を開けて、頭をポリポリとかくと、目覚まし時計の時間を見て眉間に皺を寄せて、悔しそうにする。
「昼まで寝るのはお休みの醍醐味だが、午前中になにかできたかもと思うと微妙にモヤモヤするんだよな。学生時代はそんなことは欠片も思わなかったから、これも歳をとったということなのかね」
学生時代の頃は惰眠を貪ってもなんとも思わなかったんだよなと苦笑しつつ、目を覚まそうと部屋を出ると洗面台に向かう。
鏡に映る自分はもはや青年とは言われない。おっさんと呼ばれて良い歳だ。結婚するのが早かった人などは、子供の学費がと愚痴る年代。少しずつ体力は失われて、運動をしなけりゃなとは思うが、少しずつ増える体重に健康診断で引っかかるとどうしようと心配するだけで、運動をしないで終わる。
それもこれも仕事が忙しいのがいけない。政治が悪いと、最終的には政治のせいにすれば良いだろうと適当な考えをしつつ、蛇口を捻る。
キュッと音を立てて、蛇口から勢いよく水が出てくるので、掬うとパシャリと顔を洗う。冷たい水が心地良く、意識を覚醒させて、眠気を取り去っていく。
老後が心配だと思うにはまだ若く、それでもそろそろ結婚をしないとなとは思うが、自由になる金が無くなると嫌だと思う独身である。優雅な暮らしは独身貴族とは良く言ったものだと苦笑をしつつ、目を瞑るとパシャリパシャリと顔を洗い━━。
「ラン、ラン」
後ろから声が聞こえて、ギクリと身体を強張らせる。
「ラン? あの……ラン?」
聞き覚えのない声だ。そもそもここは俺しかいない。なのに、声が聞こえる。しかもその声音から予想するにまだ年若い少女の声だ。
遂にきたのだと、目を瞑り軽く深呼吸をして心を落ち着けようとするが、その心はなかなか落ち着かない。
なにせ遂に来たのだ。オカルト的な体験が!
男は無趣味というわけではなく、その趣味のほとんどが物質的なものではなかった。今や電子の時代。ゲームはもちろんのこと、漫画や小説、お気に入りのゲーム実況者の投稿サイト━━そして世にも奇妙な体験集。
ワクワクと胸踊らせて、昼間だから自分が死ぬとか悲惨な目に遭うものではなく、ちょっとした不思議な体験となるだろうと根拠なく思いながら、口元を緩ませて勢いよく振り返る。
僅かに水に濡れた髪が額に当たり、涼しい風が頬に当たる。
「なんだ誰もいないじゃ……いるな」
男の予想では誰もいないはずだった。少女の声が聞こえて振り返ったら誰もいなかった。少し怖かったよと、会社のネタにできる程度だと考えていた。少女だと少し性癖とかが変だと噂されるかもしれないので、美女のおどろおどろしい声にしとくかとまで考えていた。
甘かった。眼の前には少女が立っていた。年若い少女で髪の色がピンクブロンドとでも言うのだろうか、コスプレできているのだろうかと思うが、色合いからして自然にはないはずなのに、やけに自然な色合いで染めたようには見えない。
残念なことに、僅かに髪は傷んでおり滑らかさはないが、それでも背中まで伸ばしており、穏やかで優しそうな瞳は桜色で、すっとした鼻梁と小さな唇、小顔で顔立ちはとても可愛らしい。肌も白く、まだ少女の幼さを持ちつつもあと数年で美貌が花開くだろうと思わせる美少女であった。
「えっと、ラン?」
ランって誰だろうと思いつつ、美少女が立っていることにまず警戒し、未成年者略取誘拐罪とかにならないかなと保身を考えつつ、美少女の後ろに見える光景に目を疑う。
そこはビルであった。ビルと言っても廃ビルと言ってよく、コンクリート打ちっぱなしの通路にひび割れた壁、蛍光灯は外されて寂しさを感じさせる天井、通路には小さなコンクリート片が転がり、泥で汚れている。廃墟探検とかに喜ばれそうだなと、場違い感丸出しで呑気なことを考えてしまった。
「ごめんなさい、なにか考え事ですか? 邪魔をしてしまったでしょうか?」
俺の視線を受けて、僅かに肩を縮こませると心配しているように、少し恐れているように、少女はおずおずと見上げてくる。
やけにへりくだるんだなと思いつつ、この態度は演技で、わざとか弱さをアピールしているんだなと苦笑してしまう。この子は自分の美貌を自覚していて、その美貌を最大限に利用するべく演技をしている。長年社会人をしてきた男にとっては小娘の演技など簡単に見抜けた。
男の苦笑を見て、少女はいつもと様子が違うと焦った顔になると、裾を引っ張って誤魔化そうとしてきた。
「ねぇ、本当にどうしたの?」
可愛らしい少女だなと思いつつも、高校生くらいなので、警察を呼ばれると確実に捕まるなと、捕まらなくても、社会的に終わりそうだと、またも斜め上の思考をする男に、黙っていると勘違いし、頬を膨らませて、不機嫌そうな顔でいじらしそうに唇を尖らせる少女。
演技はどうやら二段階目に移ったらしいと、今度は微かに笑ってしまう。構ってもらえなくて寂しいと、いじらしそうに不機嫌そうな美少女だ。ここまで可愛らしい少女がそんな態度をとれば、本来はそこでご機嫌とりでもするのだろう。
だが、男の琴線に触れることはなく、それどころか笑って吹き出しそうになる始末だった。他人の心の機微がわかるのに、態度がまったく斜め上の女性からもてない男であった。
男がモテない理由を体現していると、遂に声を荒げて軽く腕を叩いてきた。ポカポカといった感じだ。世界の男性の夢トップテンに入るかもなと、あくまでも態度を変えない男に少女が苛立ちを見せて言う。
「もうっ、なんで珍しく顔を洗っているのですか?」
なにかとてつもなく酷いことを言われた。珍しくってなんだよ、俺は毎日顔を洗ってるよと、憤慨しながらも、美少女のあざとかわいく怒る姿に、少し目の保養をしながら、鏡を見る。
どんだけ汚いんだよと思っていたら、鏡が変だった。まぁ、廃墟ビルの光景からある程度予想してはいたが、曇っておりヒビも入っている。
そして、自分の顔が変だった。というか、どこにでもいる平凡な疲れたおっさんではなく、とてつもなく人相が悪くなってる。
茶色の髪はドレッドヘアーで、肌も少し焼けている。無精髭が少し生えており、顔全体は角張っており、目つきは鋭いというか、荒くれ者の凶悪な目つきだ。身体も筋肉質で鍛えられており、着込んでいるやけにゴツくて、防弾服みたいな硬い服がよく似合っている。
悪党である。偏見かもしれないが、悪党だ。しかも取り巻きと一緒に悪さを働く小悪党のやられ役に見えた。いや、この顔はどこかで見たことがあるような……。
汗臭く不潔な感じで、たしかに珍しく顔を洗っていると驚かれるだろうなぁと、男はまじまじと鏡を見て、右手をあげて、左手をあげて、ウィンクをしてみる。バチコンといった音が聞こえるようなウィンクに、自分でやっておいて似合わないなと苦笑して━━。
「ブハッ、これランピーチ・コーザじゃねーか。ぷははは」
吹き出して笑ってしまった。
誰だか気づいたのだ。これ、俺のやっていたゲーム『パウダーオブエレメント』じゃねーか。
オープンワールドゲームで、高度な演算システムの乗った世界で今年一番売れたオフラインTPSRPGゲームだ。
探索者になるも良し、生産者になるも良し、国を建国するも良し、あらゆる行動が許されており、自動生成のクエストが発生し、何度遊んでも飽きないとの触れ込み。あくまでも触れ込みだったけど。なんと主人公ではなく、オリジナルキャラを作り遊ぶこともできた。
クリアしたからと言って、ありがちなステータスなどの周回引き継ぎなどはなく、毎回最初からなのだが、やるたびにストーリーが変化したやつ。
とはいえ、メインストーリーはあり、普通は特殊能力を持つ主人公でメインストーリーを中心に遊ぶのだ。その場合は主人公専用のストーリーで、ボリュームもあり、主人公はオリジナルキャラとは違うチートな能力を保有しているので、ストーリーを楽しめる凄いゲームだった。
ようするにオリジナルキャラも結局はメインストーリーの重要なイベントだけはやることになり、主人公たちと同様にクリアすることとなる。自由度が高いと言いつつ、クリアは設定されており、主人公専用のイベントがごっそり抜けているだけの、ぶっちゃけオリジナルキャラはオマケのようなもので、皆は2周目以降でオリジナルキャラを作り遊ぶのが多かった。
そこで、この男は序盤で結構な頻度で出会う━━。
小悪党だった。主人公の金を奪おうと、または配下に入れようとして殺される役。放置したら意外と強くなったり悪党の集団に成り上がったりするキャラだ。
ランピーチ・コーザだった。
なぜ覚えているかというと、5周くらいゲームをやっていて記憶していたからである。
なるほどなるほどと笑い続け、後ろの少女が突然笑い始めた男の様子を見ておろおろと慌てふためく。その瞳は冷たく計算するものであり、この人大丈夫かしらとの歳に似合わない計算高さも見せていた。
鏡の端でその姿を目にしても驚くことはなく、笑い続けてしまう。
「あー、そっかそっか」
顔を洗っていたら、異世界に転生しました。なんてことあるわけがない。ということは指し示す真実は一つ。
「俺、まだ寝てるのか」
これは夢だろう。よくあるのだ。リアルすぎる夢が。
目覚まし時計の音に起きて、顔を洗って飯を食べ、スーツを着て、さて出勤という所で目が覚める。リアルすぎて、一瞬夢だとは思えず混乱する時があるのだ。
ゾンビゲームをやり込んでいた時は何度警察署で探索する夢を見たか。ラストは銃弾が尽きゾンビに噛まれて死ぬので寝不足気味だった。
今度はランピーチ・コーザとなったと。『パウダーオブエレメント』をやり込みすぎたらしい。
「ラン?」
「あぁ、すまねぇな。少し寝ぼけていたようだ」
声を掛ける少女の声が心配から不審な声音に変わるので、ニヤニヤと笑いながら振り向く。
こんなにリアルな夢ならば、楽しまないと損だろう。
「ランピーチ・コーザ様になにかようか?」
ノリノリで男はランピーチ・コーザとなるのであった。