90.屋根の上
「……」
屋根の上からアルムは町を見渡す。
ワインを買った店の店主が言った通り、町はまだ騒がしい。
星の明かりでは足りない光を、ランプをそこかしこに置いて夜の町を照らしている。
仕事を終えた住民達が自分達の町のワインを飲んでいるのだろうか。
酒屋のほうでは騒ぐ声も聞こえてくる。
魔石があればもっと明瞭に町の光景を見れるだろうが、いくら観光が盛んだからといってそんなものが平民の町にあるはずもない。魔石は貴族ですら一部の家しか使えない高級品だ。
今日の朝、ラーディスにミレル湖に連れて行ってもらった後はアルムはずっと宿にいた。
ミレル湖は綺麗な湖ではあったが、内心それどころではなく、あまり印象は無い。
霊脈の調査をするシラツユが危害を加えられないように見張っていたくらいだ。
その調査もたった数分ほどで終わった。
湖に手を入れた後、湖をじっと見るだけで、それが終わるとシラツユはもう一度来ます、と切り上げたのである。
霊脈の事はアルムにはわからないが、調査とやらがそれで終わりなはずがない。
「やはりあれは気を遣われたんだろうな……」
ぽつりと呟く。
いくら鈍いアルムでもそれはわかっていた。
「ルクス……エルミラ……」
わかっている。
ただの土砂崩れならば魔法を使える二人がその程度で死ぬはずがない。
それでも、奥底でもしかしたらという不安が拭えない。
アルムにとって初めての感覚だった。
【
「大丈夫」
声に出して自分に言い聞かせる。
二人の魔法の技量は知っている。
例えトラブルがあったとしても上手く逃げてるに違いない。
エルミラがこの場にいればこんな情けない様子の自分を叱咤するだろう。
そんな事より護衛に集中しなさい、なんて声が容易に想像つく。
なら……胸に押し寄せる
今すぐ駆け付けたいと思っている自分がいる。
助けたいと思っている自分がいる。
今から行った所で何もできるはずがないというのに。
不安で浮足立っているのだろうか。
だとすれば……自分は一月前より弱い人間になってしまったのかもしれない。
「ショックだな……」
魔法使いになるべく故郷を出たというのに、心が弱くなっているのだとしたらとんだ間抜けだ。
魔法は使い手の精神力が影響する。
自分の心が弱くなっているのだとしたらそれは――夢から遠のいているという事ではないだろうか。
そこまで自分で考えて、アルムは肩を落とす。
魔法使いになる。それだけが自分がここにいる理由だというのに。
「あ、見つけました」
そんな哀愁漂うアルムの背中に声がかかる。
もうアルムには聞き慣れた声だ。
「ミスティ」
振り向くと、ミスティがひょこっと屋根の下から顔を出している。
その姿は悪戯好きの子供のようだった。
「よいしょ」
「危ないぞ」
屋根の上に登ってこようとするミスティ。
手を貸そうとアルムが立ち上がるが、その必要は全くなく、ミスティは軽々と屋根の上に登ってきた。
「鍛えていますからこれくらいはできますわ」
「そりゃそうか」
登ってきたミスティはそのままアルムの隣に座る。
一度立ち上がったアルムも同じようにして座った。
ミスティはいつもの制服姿ではなく、真っ白で袖にリボンがあしらわれた初めて見る服を着ている。
そのせいか、アルムの視線は瞬く間に隣に座るミスティに奪われた。
その姿は端から見れば固まっているようにも見える。
風に吹かれてさらさらと滑らかに髪が泳ぎ、星に照らされながら風を受けるその姿にアルムは感動に近いものを覚えた。
入浴後なのか、ミスティは石鹸の香りをさせている。
「……そんなにじっと見ないでくださいまし」
「ああ、すまない……そうだ、そうだった」
言われて、アルムの視線は不自然なほど前を向いた。
道中、人の事をじろじろ見るなと言われた事を思い出す。
またやってしまったと反省するが、今回に限ってはアルムにも少し釈然としないものがあった。
「……見るなというほうが難しい」
「なんですの?」
「いや、何でも」
ぼそっと呟いてみるが、面と向かって言う勇気はなかった。
「風が気持ちいですわね」
「ああ」
「明日がお祭りだからでしょうか、とても賑わっていらっしゃいますね」
「ああ。祭り前から浮かれてる」
「素敵な光景ですわ」
「そうだな」
「それで……」
短い雑談を交わして、
「そんな素敵な光景を前に、何を悩んでいらっしゃいますの?」
ミスティが本題を切り出す。
ミスティのほうを再び向くと、お見通しですと言わんばかりの瞳と目が合った。
「俺はやっぱりわかりやすいのか?」
「ええ、それはもう」
尋ねるアルムにミスティは微笑む。
この笑顔からは逃げられない。
逃げようという気も起きないのだが。
「その……」
だからか、今考えていた事をアルムは話した。
今すぐルクスとエルミラのところに駆け付けたいと思っていること。
助けたいと思っていること。
一月前はこんな事を思わなかったのに、今こんな事を思っているのは心が弱くなってしまったんじゃないか。
心が弱くなっているのなら、魔法使いから遠のいているのではないかという不安までも。
弱音にも聞こえるアルムの吐露を、ミスティはしっかり相槌を打ちながら最後まで聞いていた。
「なるほど……アルムの心配なさっていることはわかりましたが……」
ミスティはそうですね、と呟きながら首を傾ける。
やがてアルムのほうを向くと。
「昨日のシラツユさんの話を聞いてどう思いましたか?」
「シラツユの……?」
話というのは生き別れた兄がいるという話だろう。
消息を絶った兄がいると聞いてどう思ったかをミスティは尋ねていた。
自分の悩みとどう関係しているかはわからなかったが、アルムは素直に質問に答える。
「会わせて、やりたいなと思った」
話を聞いた時に確かに訪れた衝動。
会わせてやれたらどんなにいいだろうかと思わずにはいられなかった。
「それは心の弱さですか?」
「え?」
「シラツユさんとお兄様を会わせたいと願ったのも心の弱さでしょうか」
問われて、アルムは固まる。
シラツユの事を聞いてそう思った際にはそんな事は思わなかった。
「誰かを助けたい、何とかしてあげたいと考えるのはアルムにとって弱さなのですか?」
「いや、シラツユの話の時とは違う。ルクスとエルミラを助けたいと思ったのは……その、二人がいなくなるのが恐かったんだと思う。一月前はこんな事無かったのに」
「そうですね、私もお二人がいなくなるのが恐いです」
「ミスティも?」
「はい。という事は……」
ミスティは自分を指差す。
「アルムの話からすると私も魔法使いから遠のいているのでしょうか」
言われてアルムは動揺する。
慌てているのか、アルムはわたわたと何をしたいのかわからない手の動きを繰り返した。
「い、いや、違う。ミスティは俺とは違う」
「どう違うのですか? 私とアルムは今同じく友人が失うのが恐いです。なら私も心の弱い人間という事になりますでしょう?」
そんなつもりは、ない。
だが、否定する材料が無かった。
まさか自分の考えが他人にまで及ぶと思っていなかったから。
「そう……なってしまうのか……」
弱々しい声とともにアルムの手の動きが止まる。
力の抜けた手はそのまま体を支えるように屋根に置かれた。
「はい。アルムから見た私は今魔法使いから遠のいていますか?」
「いや……」
「私もアルムが魔法使いから遠のいているとは思えません」
ミスティはそのままアルムの手に自分の手を重ねた。
「何かを失うのが恐いのは当たり前です。誰だって恐いんです、そうならない為に人は何とかしようと考えるんです。助けたいと、救いたいと」
「誰だって……」
「そして……誰かを助けたい、救いたいという気持ちは誰かから受け取るものです」
「誰か、から?」
「はい。アルムは誰かに救われたことはありませんか?」
ある。
それだけは何の迷いもなく答えることができる。
自分を育ててくれたシスター。
狩りを教わり、獲った命を受け止める責任とその命に対する感謝を教わった。生き物が生きる上で大切な事を教えてくれた育ての親。
そしてもう一人――ある日カレッラに来た長い杖を持ち、フードを被った来訪者。
世界に否定されていて。
世界に馬鹿にされていた。
自分の惨めさに向き合ってくれた一人の魔法使い。
十年間、自分を出来損ないと呼び続けてくれた自らが師匠と呼ぶ恩人が。
「誰かに救われたから、あなたは誰かを救いたいと思うのです。自分を救ってくれた人の優しさを次の人に繋げる為に、誰かにお裾分けする為に。そうして救われた人がまた別の人を救っていく。そうやって人は思い出に優しさを残し続けるんです。
そうした繋がりが、誰かを救いたいという気持ちを生み続けるんです。
あなたは今それに気付いただけ……心が弱くなったなんてとんでもない。むしろ逆ですわ」
夜に靡く髪。
天にも届く優しい声。
星よりも明るい微笑み。
触れる手のぬくもりは心を溶かすように温かい。
その姿はアルムにとって天啓を与える女神のようで。
じっと見るのはいけないと言われたのに今度こそ目が離せない。
今この時、自分はどうしようもなく見惚れていたのだと、アルムは気付けないでいた。
「あなたの心は決して弱くなんてなっていません。今のあなたは大切なものが増えて、知って、一月前のあなたより優しいだけ。そしてそんなあなたならきっと……明日のアルムは今日よりも優しいアルムになっていますわ」
「――っ」
声が出なかった。
にこっと笑うミスティをただ見つめることしかできない
不安に思う自分、助けたいと思う自分、そして過去に救われた自分。
生きていた時間全てを肯定された気がした。
そしてそんなあなたならきっと、そんな信頼めいた言葉を貰ってこれ以上……自分が
「若輩の身で少し偉そうだったでしょうか……?」
「そんな事無い。すごく軽くなった……ミスティのおかげだ」
「お役に立てたようで何よりですわ」
「ミスティはいいやつだな」
「ありがとうございます」
アルムの表情は晴れる。
心なしかさっきよりも視界が広く、体も軽い。
さっきまで悩んでいた自分が嘘みたいに、胸に押し寄せる何かが自分の背中を押すようだった。
「さあ、戻りましょう」
ミスティはアルムの隣でゆっくりと立ち上がる。
重なっていた二人の手は離れた。
しかし、アルムは立ち上がる様子は無い。
「……少し」
「はい?」
「……もう少し、ここにいないか」
「……え?」
アルムはつい口走る。
言った本人ですら何故こんな事を言ってしまったのかわかっていない。
それが故郷を離れる際にも感じた、名残惜しさだと、アルムはいつか知る事ができるだろうか。
言われたミスティも不意打ちだったのか、豆鉄砲を食らったように目を丸くさせていた。
「いや、子供みたいだな……忘れてくれ。戻ろうか」
アルムが自分の言葉に呆れながら立ち上がると、立ち上がったアルムと入れ替わるかのように、ミスティはぺたんと座りなおした。
「……ミスティ?」
「どうやら、私も子供だったようです」
「……そうか、ミスティもか」
「はい」
「ありがとう」
「ふふ、何がでしょう?」
「いや……」
ミスティの優しさに甘えて再びアルムも座りなおす。
何か特別な事を話すわけでもない。
何か物珍しいものを見ているわけでもない。
どちらからも肩を寄せ合うことなどできはしないが、二人は同じ場所にいた。
狙ったわけじゃないのですが、クリスマスにそういう空気のお話を更新です。
何も知らなかった少年は徐々に影響を受けていくことになります。