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87.惜しくない

「魔法には、人々の言い伝えや感情によって現実への影響力が積み重なっていくものがある。

人々の恐怖の蓄積、あるいは伝承の確立。例えその最後が敗北であったとしても、生き物の心に傷を残すというのは存在を残すということ。

それは永久に残る正しい魔法の在り方だ」


 指先がすうっと冷たくなった。

 黒い甲殻は鋼のような印象を与えつつも生物の質感を残し、赤黒い足は鋭く地に突き立てられているにも関わらず生物のしなやかさも持ち合わせている。

 ヤコウが唱えたそれは憎らしいほどに生物としての形を象って目の前に現れた。

 全身に元から刻まれていたような忌避感と胃の底から湧きあがる不快感が疎ましくも同居している。

 吐瀉物をまき散らしてでも逃げたい衝動にエルミラは駆られた。


「そなたらの国でも同じようなアプローチでこのような切り札を作っているであろう?

継承された歴史の積み重ねが現実への影響力を強固にする……確か……血統魔法と呼ぶらしいな?」


 百足の足が動く。

 ぞろぞろぞろぞろぞろ。

 木々を薙ぎ払い、動きの止まっているエルミラにその頭部が向く。

 鞭のような触角と牙のような顎肢。

 その奥に見える口がエルミラを捕食せんと突っ込んでくる。


「……っ!」


 逃げたい。

 逃げ出したい。

 だが、そんな衝動に反して体が動かない。

 諦めと恐怖に支配された体は足掻こうとすらさせてくれない。

 その巨大な怪物が現れた瞬間から、エルミラの精神は完全に呑まれていた。


「おおおおお!」


 そんなエルミラを助ける為にと一人の男が咆哮する。

 動かないエルミラを抱え、突進する頭部をかわす。


「る、ルクス……!」

女子(おなご)を庇うか、男児(だんじ)よのう」


 小さく震えるエルミラを自分の胸に抱きよせ、ルクスは百足の動きを注視する。

 その巨体にあるまじきスピードで頭部がぐるりとこちらを向く。

 ルクスとて恐怖が無いわけではない。

 事実、百足が動き出すまでエルミラと同じように逃げたい衝動に駆られていた。

 百足はただ存在するだけで呪詛を振りまいているようで、自身の動きも少しぎこちない。

 恐怖によって強張る筋肉で足がもつれそうだ。


 それでも――それでも、動けないなど言っていられない。

 大切な友人が震えている。

 一瞬見えた不安な瞳が離れない。

 馬車の中で明るさを振りまいてくれた友人の表情に、影が落ちている。

 そんなことあってはならない。

 彼女が震えているのなら、自分がやるべきことがただ立ち尽くすことなはずがない。

 ルクスは自身を奮い立たせ、手を掲げる。

 その手には雫のような黄色の魔力。

 今自分がやるべきは恐怖という邪魔者に刃を突き立て、冷静に努めること。

 そして、友人の為に戦う事だと確信して――!


「【雷光の巨人(アルビオン)】!!」


 山に美しい旋律が響く。

 それは夕陽に照らされる歴史の合唱。

 天に捧げた黄色の魔力は渦となる。


「ほう……」


 渦から現れたるは、相対する百足に負けず劣らずの巨大さを誇る雷の巨人。

 その体には雷の甲冑、手には雷の剣。

 その巨躯に雷という血液を流し、呪いの怪物に立ち塞がるように地に降りる。


 "ゴオオオオオオオオオオオ!!"


 巨人の咆哮とともに雷の魔力が放たれる。

 雷撃を受けた百足はしなやかに、そして力強く体を起こした。

 巨人は雷の剣を、百足は刃の如き無数の足を敵へと向ける。

 雷光の巨人と神殺しの百足。

 二種の怪物は一つの山に顕現した――!


「ドレンさん!!」

「はいぃ!!」


 百足の意識が顕現した巨人へと向けられた隙に、ルクスは後ろに下がっていたドレンの名を呼ぶ。


「なんじゃと……?」


 馬は嘶き、手綱は握られ、蹄は地を蹴った。

 ヴァレノの魔法によって足をとられなかった最後の一頭がドレンを乗せて走る。

 隠れながらドレンはチャンスを窺っていた。

 残った最後の足である馬を宥め、馬車と繋がる紐を外し、百足に恐怖しながらも残り続けたのだ。

 【雷光の巨人(アルビオン)】によって百足が隠れるこの瞬間こそが今相手が見せるであろう最大の隙。

 エルミラを抱えるルクスの下に馬は走り、ルクスは半ば放り投げる形でエルミラをドレンに託す。


「エルミラと一緒に下山を!!」

「馬車の二人は!」

「諦めます! 早く逃げてベラルタへ!!」

「わかりましたぁ!」


 自分しか頼れぬ中ルクスは決断する。

 マキビとナナの情報源としての価値。

 百足の怪物を出現させたヤコウへの危険度。

 二つを天秤にかけた時、間違いなく後者の伝達のほうが重要だという事は間違いない。

 今恐れるべきは情報源の二人を奪還される事ではない。

 もっとも恐れるべきはこの場で自分を含めた全員が殺され、ヤコウの存在を知る者がここで途切れる事。

 だからこそ、ヤコウの魔法を目の当たりにしたどちらかが生還しなければいけない。

 この百足は現れるだけで周囲を呪う異形。

 その使い手を野放しにするのは危険すぎる。


「ルクス! 待って! ルクス!!」

「駄目です! 走るんです今は!!」


 馬の嘶きと駆ける音は遠くなっていく。

 ヤコウの魔法を目の当たりにしたドレンとエルミラはこのまま逃げられるだろう。

 可能性があるとすればヴァレノが追った場合のみ。

 だが、その可能性は無い。


「追いますか?」

「いや、追えぬよ。さっき言ったじゃろう、そなたではあの女子(おなご)も辛いと。

この男に庇われてからあの女子(おなご)は平静を取り戻していた。追いかけてもしそなたが敗北すればこちらは損しかない。

今の儂では流石にこの巨人を一撫でというわけにもいくまい。追えるようになったとして……追いつく頃にはベラルタの警戒網に入るじゃろうて」


 そう、追えない。

 この場でのヴァレノの価値は高いがゆえに、ヤコウはそんなリスクを冒さないとルクスは確信していた。


「これはやられたな。まさかあの隠れてる者がここで動くとは思わんかったのう」

「ヤコウ様の魔法を見てあんなに迅速に動ける平民は珍しいですね」

「たまにああいうのがいるな。自身の誇りだけで動ける大馬鹿者じゃが……儂は嫌いではない。追い詰めるとまた違う鳴き方をするからのう」


 まぁ、逃げられたんじゃがな、と付け足してヤコウは笑う。

 ヤコウは自身の魔法である百足と同じくらいのサイズである【雷光の巨人(アルビオン)】の出現にも全く動揺はない。

 今自分が出し抜かれた事にすら楽しみを見出しているようで、戦況が変わるなどとは微塵も思っていない。

 一頻り笑って、ヤコウは再びルクスの方に目を向けた。


「さて、見事な手際と言えるが……そなたの命が考慮されとらんな?」

「そうだね」


 そんな事は言われなくてもよくわかってる。

 百足と巨人が睨み合う中、夕陽が山に落ちていく。

 訪れる夜の時間。

 だが、夜になってもなおこの場に闇は訪れない。

 巨大な百足と相対する【雷光の巨人(アルビオン)】の雷が辺りを照らす。


「そなたらの立場で後々の事を考えるのなら……女子(おなご)を犠牲にそなたが逃げたほうがよいと思うが?」

「いや、断言するけど……それだけはない」

「何故?」


 ヤコウは首を傾げ、心底わからないと言いたげに尋ねた。

 ルクスは当然のようにこう答える。


「僕は、"魔法使い"になるからだ……!」


 その様相に普段の穏健な姿はない。

 覚悟を決めた、人の姿がそこにはある。

 ヤコウはそんなルクスに興味を無くしたように、


「……つまらんな」


 鼻を鳴らして吐き捨てた。さっき笑っていた者と同一人物とは思えないほど冷めた顔で。

 決してこいつと交わることはない。

 互いに互いを決定づけた瞬間だった。


「いいや、つまらなくなんて無いさ」


 後やる事は一つだけ。

 全力の足止めだ。この大百足相手ではどこまで保つかわからない。


「『鳴神ノ爪(なるかみのつめ)』」


 ……違う。

 足止めではまるで死ぬ前提で残ったような言い方だ。

 そんな生易しい覚悟でここに残ったんじゃない。


「"疑似獣化"」


 助ける。生きる。

 そして、その為にここで倒す。

 最初から負けると考え戦う者に勝利など訪れるはずもない――!


「『招来(しょうらい)雷獣(らいじゅう)鳴神(なるかみ)』!」


 先に唱えた雷獣の爪にあたかも雷が落ちたかのような轟音と光が迸る。

 爪だけだった雷の魔力はルクスの体を侵食していく。

 腕、胴、足、そして顔までも。

 ルクスの体全体を魔力が包み、雷獣はここに完成する。

 手は前足に、足は後ろ足に、四足から伸びる鋭い爪は地面を削った。

 顔に現れた顎と牙は敵の喉元を狙うべく唸り、その体が纏っている魔力の形はまさに獣だった。

 獣化魔法。

 今のルクスの姿は四つ足の雷。

 その輝きは見た者に黄金の毛並みを彷彿とさせる。

 瞳は獲物とすべき相手を捉えて離さない。

 闇夜に輝くその姿は警告のように辺りに雷の魔力を撒く。


「惜しいな……摘み取るのが本当に惜しい……」

「僕は惜しくない」

二回更新無理でした……

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