59.侵攻二日目8
すでに慣れた汚水とカビの臭い。篝火に照らされる壁の奇妙な紋様はいつも通り昨日とは違うものに変わっている。
相変わらず殺風景な空間だ。向かいの壁の端には臭いの元である汚水が流れる水路がある。
隣にある巨大な木の箱も最初は新しい木の匂いをさせていたが、いまやその匂いも消えていた。
中を開ければさらに異臭が追加されるだけだろう。
何せ中には死体が入っているのだから。
「ふふ……」
思わず笑みが零れる。
この冷たい床に腰を下ろしてどれだけの時間が経ったか俺にはわからない。
何も変わらず、ただ待つだけの時間だった。
しかし、今日はいつもと違う音がある。
幾度と伝わる地響きの音が、今日が終わりの日だと俺に伝えてくれたのだ。
どれだけ待ち望んだだろうか。この地響きは【
壁に固定したいくつもの篝火が音と共に揺れる度、これが幻聴ではない事を実感させてくれた。
退屈なここでの生活もついに終わりが来る。
つい、自分の意思と関係なく顔がにやけてしまうのも仕方ない。
俺は計画の成功を確信したのだ。
「……いかんな」
成功する前に笑うとは一体何たることか。
ここでの生活はやはり自分の精神を著しく消耗させているらしい。
今までならこんな気の緩みは無かったものの。
長期間の孤独など俺には関係がないと思っていたが、いざ過ごすとこんなにも影響が出ている。
道中を共にした同志と永遠の別れとなったせいもあるだろうか。
とはいえ、この計画が終われば同志四人は祖国へ帰るはずだ。
祖国は俺の死を悼むこともなく。
祖国は俺の死を悲しむこともなく。
俺という存在が生きた証など残っていない。
俺という魔法使いの名も別の者に引き継がれる。
祖国は計画の成功だけを喜び、計画の成功の為に犠牲になった者の為に泣く事も無い。
「だが、それでいい」
何故なら俺には確信がある。
四人が祖国へと帰った後、我々三十二人の仲間だけは悼んでくれると。
仲間だけは悲しんでくれると
仲間の記憶に俺という証が残る。
俺の持つ"トゴ"の名は、国の為にその身を捧げた偉大な魔法使いの席となる。
そして、仲間が泣く事だけは無い。
それだけで俺は充分だった。
共に祖国に身を捧げた仲間達に悲しんでもらえるならば、それは紛れもない贅沢だ。
「ああ……」
仲間達を思い出してしまったせいか、少し感傷に浸ってしまう。
どうしているだろうか。
今頃は皆、計画の大詰めの為に動いている頃合いだ。
「サニ……」
サニは比較的入った時期が浅いせいか敵を舐めてかかる癖がある。今頃街を駆けずり回っているであろうベラルタの憲兵相手に下手を打ってはいないだろうか。
とはいえ、腐っても我々の仲間……心配はないだろう。
「ニコ……」
ニコはサニをしっかりと導けているだろうか。奴は少し判断力に難があるが、その技術には才がある。自分より下の者をつけて成長すれば"ト"の名になるのは時間の問題だ。
「トナ……」
トナは一人異国の者の監視だったか……。我々の中で最も危険な任務かもしれないが、こればかりは信じるしかない。
任務で命を落としやすい我々の中でも高齢のベテランだ。上手く立ち回るだろう。
ルホル・プラホンが裏切りでもしない限りは問題ないはずだ。
やつは【
「トイ……」
トイは最も冷静だ。心配ないだろうが、慣れぬ地に加えて長期の任務は久しぶりだ。
慣れぬ環境とイレギュラーで足を掬われるかもしれぬ。
叶うならベラルタの街が破壊され始めたのを確認したら即刻離脱してもらいたい。
ここで無理にオウグス・ラヴァーギュやヴァン・アルベールを相手にして命を落とすには惜しい人材だ。
「今頃はベラルタで最後の役目を果たしているところか……」
……この独り言ももうやる必要は無いか。
長時間喋らないと人間は思ったように声が出なくなるそうだ。
いざという時、魔法を唱えられなくては護衛役である意味がない。
何かをする際、または思考する際に短くでもいいから何か言葉を口にしろと言われたが、これが中々馬鹿にできない。
確かに最初は馬鹿らしかったが、今では孤独を紛らわす習慣のようにもなっている。
「おかしなものだ」
……やらなくてもいいと思っていても出てしまうものだな。
「また近くなった……」
そこで気付く。体力の消耗を防ぐ為に今までじっとしていた体が妙にそわそわしている事に。
ははは、笑ってしまう。
まだかまだかと俺の体が待ちかねているのか。
まるで子供のようではないか。
久しぶりに違う感覚をその身に味わっているのと、計画の成功を前にして柄にもなく興奮しているのかもしれない。
ここに着いてからずっと孤独に、そしてこの場所に耐えてきたのだ。
心が沸き立つくらいの自由は許されるはず。
「水はまだ余裕があるな」
運び込む時には辛かった二十近くの水筒も今では二つだけ。
ここまでくれば喉の渇きを潤すのはそこの汚水でもいいのだが、今日という喜ばしい日にそんな節制をする必要は無い。
どちらにせよベラルタが破壊される時にここも破壊される。
ならばこれくらいの贅沢は許される。
自分を律し、ここまで食料と水を節約していたが、最後くらいは気にせず飲ませてもらおう。
「保存食料もまだある……我ながらよく残したものだ」
干し肉もまだ二枚ある。
これにかぶりつき、そして水筒の水を一気に飲む。
昨日まで干し肉の端をちまちまと噛み、蓋に水を注いで飲んでいた男とは思えん行為だ。
だがこれも最後の晩餐というやつである。
手持ちにあるもので遠慮なく贅沢をさせてもらう。
「む……」
ふと、今回の計画の要が入っている木の箱が目に入る。
この木の箱には今回の計画の要……スクリル・ウートルザの死体が入っている。
【
マナリルを攻め落とす為の計画の要。
全てはこの死体がベラルタにあることで成立する。
【
「ふむ……」
まぁ、死体とはいってもその姿は言ってしまえばミイラだ。
それなりの不気味さで、その偉大な功績に相応しい容貌は失われている。
普段ならこんな事は考えないが……祖国の計画の要になったこの死体にも何か報酬をやらねばならないと思ったのだ。
何より、隣で残りを気にせず、俺だけが贅沢をしては居心地が悪い。
死体とはいえ、こんな所で長く共にしていたのだ。
最後に俺だけでも何か供えてやらねばなるまい。
とはいっても干し肉しかないが、これが今できる最大限の供え物だ。
「――!」
む……?
今地響きに混じって他の音が聞こえたような……?
いや、そんなはずはない。
今までも地上からの音は全く聞こえなかった。
ここで聞こえる音は汚水の流れる音と灯りの火が燃える音だけ。
だからこそこの地響きに胸を躍らせているのだから。
「はぁ……! はぁ……!」
いや、違う。
気のせいではない。
いつもは聞こえない音がもう一つある。
どこからだ……? どこか……!
「な……に……?」
見回した先にいるのはベラルタ魔法学院の制服。
いつの間にか同じ広場にいたそいつとの距離は百メートルも無い。
俺の聞いた音はそいつが息を切らしながら呼吸している音だ。
一瞬……内通者の生徒かと思った。
思ったが……だが違う!
その容姿は知らない! その顔は知らない!
その顔は内通者のリニス・アーベントのものではない――!
「見つけた……! 見つけたよエルミラ……!」
そいつの瞳がこちらを見た。
その瞳には銀色に光る魔力を宿している。
「か……な……!」
驚愕のあまり声が出ない。
目の前にいるこいつは馬鹿なのか。
何故こんな所にベラルタ魔法学院の生徒がいる?
「こいつを……こいつを倒せばいいんだね!!」
「なぜ……なぜここに来れる!?」
ここはあのマナリルの地下通路。
話を聞けば誰もが近付かない危険区域。
ここは……ここは――!
入れば終わりの魔法迷宮――