39.静寂の山
山に入ればそこは一面森だった。
季節のせいもあって草木は生い茂り、木々は花を咲かせている。
それは山の周りに広がる平原とはまた違う自然の宝庫。
マナリルはもう温かくなる季節だが、森に入ってみればまだ肌寒い。
森の外では穏やかな風も森の中では冷気を感じさせる。
町長が言ったように森は普段人間を迎え入れていないのか、自然は手つかずのままそこにあった。
自然は魔力の宝庫だ。町が近くにあれど、魔力を糧とする魔獣にとってこの場所が暮らしやすいという事が一目でわかる。
そんな人に侵されていないであろう神聖な場所に訪れたのは不釣り合いな白い制服を着た三人。
木々のヴェールをかいくぐり、その三人の人間は前に進んでいた。
しっかりとした足音を一番前に、後ろの頼り無さそうな足音が二つ続いていく。
「きゃ!」
「おっと」
その足音の一つが足を滑らせる。
澄んだ悲鳴が森に響いた。
「大丈夫か?」
「も、申し訳ありません、アルム……」
「いや、仕方ない。ベネッタは大丈夫か?」
「な、なんとかー……」
転びそうになったミスティをしっかりとアルムは支える。
その後ろには疲弊しているベネッタが続く。
「普段歩くような場所と違って斜面だからな。ちゃんと膝を上げて小さく歩くんだ、足の裏全体で地面を踏むようにするといいぞ」
「不甲斐ないですわ、雪なら慣れているのですけど……」
「慣れてない割には早いほうだ。息も切らしていないし、足下にさえ気を付けてれば問題ないと思うぞ」
ミスティの手をとりながら再び前に。
山に慣れているアルムはここまでの道を軽々と登っており、葉で閉ざされている森を両手で払いのけ二人の道を作っている。
そのアルムの先導ありとはいえミスティはよく付いてこれているほうだ。
「はぁ……はぁ……! 嫌味かなアルムくん……」
「あ、すまん……」
ミスティを褒めた後ろから非難の声が飛んでくる。
同じ時間歩いていてすでに息を切らしているベネッタの声だ。
それでも遅れないだけベネッタは頑張っている。
ベネッタが付いてこれているのもあってアルムはさほど速度を落としていない。
「休憩するか?」
「う、ううん、もうちょいで、多分、何とかなると思うから……」
息も切れ切れだというのにベネッタはもう少しと休憩しようとしない。
アルムにとっては序の口とはいえすでに結構な高さを登っている。
カレッラの山と比べて斜面が緩やかでアルムにとっては上りやすい部類に入るとはえいえ、初めての二人にとっては大変だ。
葉の隙間からは平原とドラーナの町がかすかに見えていた。葉の屋根が無ければさぞ眺めもいいだろう。
何がもう少しなのかわからないアルムにはベネッタが無理をしているようで少し不安だった。
「なら、おぶろうか?」
せめて負担を軽くしようと、ベネッタにとって魅力的な提案がアルムの口から飛び出る。
その提案にベネッタは俯きがちだった顔を上げた。
ベネッタの顔は救いの神が舞い降りたかのように輝いている。
「はっ……」
提案を受け入れようとベネッタが頷きかけたその時。
差し伸べられた手を本当にとっていいのか。一瞬の引っ掛かりがベネッタの頭に思考が駆け巡らせた。
"おんぶされる。密着する。アルムくんは男の人。
……そして、私は汗をかいている"
連想ゲームのようにベネッタの脳内に次々と今の状況が浮かび上がっていく。
脳内が出した結論をベネッタは口にした。
「え、遠慮……! します……!」
断腸の思いでベネッタはアルムの提案を断った。
そのベネッタに迫力を感じたのかアルムは少し声が詰まる。
「そ、そうか」
「無理しないでくださいね、ベネッタ」
「うん……」
ミスティの労わる声を耳にしながら、ベネッタはアルムの背中を名残惜しそうに見つめる。
これでよかった。これでよかったのだと自分を納得させる。
異性に汗の匂いを嗅がれるかもと考えるといかに疲れているとはいえ恥ずかしい。
しかもアルムが悪意がないとはいえ遠慮なく匂いを嗅ぐことは、馬車でのミスティの香水についてのやり取りでベネッタは知ってしまっている。
そんな人の背中に乗りでもしたら確実だ。確実に汗の匂いを嗅がれてしまう。
乙女の端くれとしてこの提案を受け入れるわけにはいかなかった。
そしてまた三人は少しずつ登っていく。
先程ミスティが足元を滑らせたからか慎重に。アルムも付いてくる二人の様子を頻繁に確認しながら進んでいった。
二十分ほど歩いた辺りで、ベネッタは辺りを見回し始める。
「うん、ここら辺で、いいかな……」
そう言いながらベネッタは足を止めた。
それに続いてアルムとミスティも足を止めて周りを見渡す。
見渡すが、何か変わったものがあるわけでもない。丁度山の中腹より下あたりだろうか。
この山はさほど大きくないとはいえ、二百メートルくらいは軽く登っている。
初めての登山で山道も無く足場が悪い為、普通なら結構な重労働だ。
「じゃあ少し休憩しよう」
「そうですね、ベネッタの息が整ったらベネッタの案を聞きましょう」
アルムは近くの木に寄りかかり、ミスティとベネッタは近くにあった岩に腰を下ろす。
座り心地の悪い岩でも歩き続けた足にはありがたい休息地だった。
「あのねー、二人がおかしい、の……ボク、そんな体力、ないわけじゃないのに…」
途切れ途切れで本人も言っている通り、決してベネッタの体力が無いというわけではない。
ここまで登っても登る前と大して変わらないアルムとミスティがおかしいのだ。
特にミスティはベネッタよりも小柄にも関わらず、まだ余裕そうだ。
「俺は当然として、ミスティは何でだ?」
「生まれが雪が多い場所だというのもあるかもしれませんが、一番はやはり普段の鍛錬でしょうか?
休日と体調不良の日以外はトレーニングは欠かしません」
「ほえー……流石……」
素直に感心するベネッタだが、ミスティはどこか恥ずかし気に理由を明かす。
「実は褒められたものではないんですの。小柄なのが少しコンプレックスでトレーニングすれば変わるかと思ってやっていただけですから。見ての通り体型はあまり変わりませんでした」
「小柄だと嫌なのか?」
「小柄なのが嫌というよりは身近に姉がいたからでしょうか。日々大人の女性になっていく姉とあまり変わらない自分を比べて劣等感を抱いていたのです」
「そういうものか……」
「ちょっとわかるかもー……」
二人の反応を見てミスティは何かを紛らわすかのようにわざとらしい咳払いをする。
「何だかお恥ずかしい話をしてしましましたわね」
「そんな事は無い。ミスティの事を少し知れて嬉しかった」
「そ、そうでしょうか?」
「ああ、こんな話は普段しないからな」
「話す機会がございませんものね」
「姉がいたのも初めて知った。友人の新しい事を知るのは……何とも言えない喜びがある」
「私もアルムのお話が聞きたいですわ」
「いや、俺の話はつまらないぞ? ただ田舎生活を話すだけだ」
「あら、私は自分の事を話したというのに、アルムはご自分の事をお話ししない気ですの?」
「む……そう言われると何か卑怯な気がするな……」
「私が勝手に話したとはいえ私の話を聞いたのですから、アルムの話も私に聞かせてくださいまし」
「そうだな………。いや、やっぱり少し時間をくれ、比較的面白そうな話を選ぶ努力をする」
「ふふ、では楽しみにしていますわ」
悩み始めるアルムとそれを見て楽しそうに微笑むミスティ。
そして、話の何処からか無言になったベネッタは二人の様子を見つめていた。
しかし場の空気に我慢ができなくなったのか、やさぐれたような声でついに口を出す。
「……できれば、ボクがいないとこでいちゃいちゃしてくださいー」
「い、いちゃいちゃなどしていません!」
「いちゃいちゃ?」
ベネッタの声にミスティは顔を赤くするが、アルムは意味がわかっていないようで首を傾げた。
「ベネッタ、いちゃいちゃとは――」
「それは聞かなくてもいいんです!」
「あはは!」
意味を聞こうとするアルムをミスティは遮る。アルムはミスティに従い素直に引いた。
そのやりとりにベネッタはつい笑ってしまう。
「もう……ベネッタったら……」
「ごめんね? じゃあ、やろうかー」
ミスティを慌てさせて満足したのか、そう言ってベネッタは持ってきた水筒を一口飲む。
そして立ち上がって深呼吸をした。
「それで何をするんだ?」
町長の家の時からベネッタは何か案があるような様子だったが、詳細は着いてからと話してくれなかった。
改めて聞くと、ベネッタはその問いに直接答えを返さない。
「うん、本当は下手に見せないようにって言われてるんだけど、時間かけると町の人が危険に晒されちゃうしー……仕方ないかなーって」
「ん? どういう事だ?」
「見せないように……? ――まさか」
ミスティは理解したようで息を呑む。
ベネッタは左腕を前に掲げ、その手首から細い鎖に繋がれた十字架を垂らす。
鎖が鳴る音。
ベネッタの体に魔力が走る。
やがて掲げた十字架に銀色の光が灯った。
「【
静まり返った森に合唱が響く。
その声は風のように森を駆け巡る。
人を阻んでいたはずの森は今この瞬間だけ、そのヴェールを脱がされた。
「目が……!」
変化はベネッタの瞳に表れた。
普段の翡翠色の瞳を隠し現れた銀色の瞳。
そしてその瞳は何かを捉えるかのようにゆっくりと動いていた。
「血統魔法か……!」
「範囲内の魔力持ってる生き物を見れるってだけなんだけどねー……麓からだと上まで見渡せるかわかんなかったから一応登ったんだー。というか、アルムくん魔力でっか。こんなの初めて見た」
その瞳こそニードロスの血統魔法。
魔ある命を捕まえる銀の瞳。
木々を除き、この瞳の範囲内では例え魔力を閉ざしていてもその存在を隠すことはできない。
今回の依頼は町を襲う魔獣の討伐と原因の調査。
魔力ある生き物全てを見通す事ができるこの血統魔法ならば、魔獣達がいかに不自然な動きをしようともその動きを掴むことができる。
「……え?」
ベネッタの表情が変わる。
その表情は驚愕のように見えた。
「ねぇ、アルムくん……ミスティとルクスくんが倒した魔獣って本当に山に住んでる魔獣なの?」
ベネッタは自分の瞳に映る光景を見てアルムに確認を取る。
アルムは確信を持って頷いた。
「ああ、間違いない。カレッラの近くの山にもよくいるからな。何故だ?」
アルムの言葉を聞いて銀の瞳がきょろきょろと動く。
しかし、映るものに変わりはなかった。
何が映っているのか、ベネッタはそのまま二人に伝える。
「……いない」
「何?」
「この山にはいない。魔獣なんていないよ、いるのは……ボク達だけ……」
「え……」
「そ、そんな馬鹿な……!」
ベネッタの瞳に映るのは二つ。アルムとミスティの二人の魔力のみ。
森は自然豊かな魔力の宝庫。
手つかずの自然の中、木々以外の魔力ある命はこの山には一つとして存在していなかった。