36.とある兄妹への救援
「何で……! 何で……!」
"モーキス"はドラーナで生まれ、十四年間暮らしてきた少年だ。
日の出より少し遅く起き、いつも通り家族四人で朝食を食べた。
今日のメニューはオートミールに羊乳のチーズ、そして好物である干し果実だ。
その後、牧羊犬のトンクスに餌をやり、二つ下の妹とともに放牧に出た。
羊は家族を養う大切な家畜だ。万が一にも襲われてはいけないと、この前魔獣が出たと聞いた地域を避けるルートをモクスは選んだ。
「お、お兄ちゃん!」
妹である"マレーネ"の不安そうな声が隣から上がる。
モーキスが肩越しに後ろを見れば、熊のような巨体がすぐそこに迫っていた。
巨体だけではない。その巨体の子供だろうか、自分と同じ背丈くらいの魔獣とその足元には兎のような魔獣が彼らを追ってきている。
魔獣の出た地域を避けたにも関わらず、この魔獣達に彼らは遭遇してしまった。追われたから移動したのか、元々この地域にいたのかはわからない。
こうなっては羊のことなど構ってはいられないが、羊は纏まって逃げたほうが生き残れると知っているのか固まって逃げている。
牧羊犬のトンクスが先導しているせいもあるかもしれない。
「ワン! ワンワン!」
先導していたトンクスが止まり、果敢にも魔獣に向かって吠え始める。
だが、勝敗は見えている。
トンクスは決して大きい犬ではない。羊ほどの大きさしかないただの牧羊犬なのだ。
それでも羊だけでなく、自分達を守ろうと威嚇してくれている。
しかし、魔獣達はトンクスの威嚇を意にも介さず、速度が緩むことはない。
自分はもう少し逃げられる。
だが、妹は限界だ。普通の十二歳の少女にしては走れているほうだが、モーキスでも町まで持つかわからない距離を少女が走破できるはずがない。
隣を必死に走る妹は呼吸は乱れ、今にも力尽きて足が緩んでしまいそうだ。泣いていないだけ強い子だと褒めてやりたい兄心が芽生える。
「くそっ……! くそっ……!」
だが、自分ではどうにもできない。
羊を守る為のクルーク(羊飼いの持つ杖)はあるが、あれらの魔獣に対抗できるようなものではない。
今では走るのに邪魔なくらいだが、これを手放しては追い付かれた時に抵抗することすらできなくなる。
せめて、せめて妹だけはとモーキスは模索する。
"ガアアア!"
後ろから聞こえる魔獣の声。
その声はすぐ後ろ。声の距離に気付いて後ろを向けば、自分と同じ背丈ほどの熊のような魔獣がすぐそこに迫っていた。
これ以上は逃げられない。
巨体はまだ距離があるが、これの相手をしていればすぐに追いつかれるだろう。
モーキスが妹をかばおうと速度を落とした瞬間。
「え……?」
その魔獣の横腹に人間が突き刺さる。
小さな雷鳴のような音とともに魔獣は横へと飛んだ。
「間に合った!」
息を切らし、黄色の何かを纏っている人間が自分達と追ってくる魔獣の間に立つ。
魔獣の横腹に突き刺さった人間が魔法使いだと、モーキスは理解した。
「大丈夫かい!?」
「あ、ああ……まだなんとか……」
「ほわぁ……」
魔法使いが魔法を使っているところを初めて見たモーキスは少し呆ける。
その隣にいるマリーネは不意に登場したルクスに顔を赤らめていた。
「よかった……無事で」
「ルクスさん」
続いて、水晶のように輝く鎧を纏ったミスティが駆け付ける。
ミスティは逃げていた二人を一瞥し、無事なのを確認した。
「このお二人をお願いします。小さいのをお願いしても?」
「ああ、任せてくれ」
追われていた二人を任せ、巨体に向かってミスティは飛び出す。
あの巨体こそが目下の脅威。
あれさえ何とかしてしまえば命の危険はほとんど無くなる
攻撃を仕掛けるでもなく、まずは標的を自分に向ける為にミスティはその巨体の目の前に立った。
「熊さんですわね」
巨体がミスティ目掛けてその剛腕を振るう。
鎌のような形状をした爪がミスティ目掛けて振り下ろされた。
「あら、案外か弱いこと」
しかし、その爪が鎧に突き刺さることはない。
ミスティの右腕にあたる部分を滑るように、鎧に傷を付けただけ。
腕を頭に振り下ろされる直前、ミスティは体を横にずらしてその衝撃をそらしていた。
そして一つ、巨体は異常に気付く。
"ガ……!? アアア!?"
振り下ろした腕に痛みが走る。
この時期に、この場所ではありえない剃刀のような裂く冷気。
自らの爪と指に痛みが走り、霜が降りていた。
「では、こちらの番ですわ」
巨体に笑いかけ、お返しといわんばかりに攻撃された右腕で掌底を打つ。
顔などには届くわけもなく、狙いは巨体の胸付近。
その華奢な体の掌底で巨体が動じるわけがない。
しかし――
"ガ……! アアアアア!"
その部分に同じ痛みが走る。
掌底の威力など虫が止まった程度のもの。その肉体になんらダメージはない。
だが、逃れられない痛みが巨体の胸に走っている。
寒い。痛い。寒い。痛い。
二度触れて、体の中には走るような痛みと冷気。
魔獣は目の前の小柄な生き物が"冬"を連れてきたのだと錯覚した。
「あら?」
怯えるように、巨体はミスティから逃げるように背を向ける。
この生き物には勝てない。
たった数手で本能がそう告げていた。
巨体は本能に従って、すぐさま逃走し始める。
「逃がしませんわ」
それをミスティが見過ごすはずはない。
今回の依頼は原因の調査も含まれている。襲ってくる魔獣を逃がせば原因の究明が難しくなるかもしれない。
まして逃げる巨体は魔獣の群れを統率していたように見えた。この巨体こそが原因の可能性もなくはない。
それを調べる為にもこの巨体を逃がすわけにはいかなかった。
「『
ミスティの右腕からあらたな魔法が放たれる。
唱えると共に現れたのは球体のような水。
現れると同時にその水は形を変えて、生き物のように逃げる巨体に纏わりついた。
"ガ……ア……!"
そしてその水は巨体を締め付ける。
巨体はもがくものの、水を捉えることができなければ、その場所から即座に離れられる速度がその巨体にあるわけでもない。
そしてこの水を操っているであろう冬を連れてきた生き物に再び立ち向かう選択肢はとっくに消えている。
水はやがて顔を覆い、策の無い巨体はそのまま意識を手放した。
「殺しはしませんのでご安心を」
水はそのまま巨体を拘束する。
そして巨体を対処したミスティの背中に一つの拍手が送られた。
「お見事」
「あら、ルクスさんもいつの間に」
ミスティが振り返れば、ルクスの足元には痺れている小型の魔獣達。
正確に言えば、ルクスはただ立っていただけだ。ただし、雷属性の魔法を纏ったまま。
そんなルクスに飛び掛かってきた魔獣が勝手に痺れたのだった。
後ろの二人に怪我はなく、ルクスにも傷一つ無い。分かれて対処したのはやはり正解だったようだ。
「すっげ……」
「綺麗……」
自分達を追ってきた魔獣がなすすべも無く倒れた光景を見てモーキスとマレーネはただただ呆然とする。
だが、やがて助かった実感が沸いたのか、マレーネは兄の顔を見た。
「お兄ちゃん……私達助かった……?」
「ああ、そうだ……そうだよ! 助かったんだ! 魔法使いが助けに……あれ?」
妹の言葉でモーキスもようやく喜びが表情に出る。
そして、ようやく二人が制服を着ていることに気が付いた。
「ベラルタ魔法学院から来たルクス・オルリックだ」
「同じくミスティ・トランス・カエシウスと申します」
「もうじき僕らの仲間も来る。そしたら詳しい話を聞かせてくれないか?」
魔法を解除し、地面に腰を落ち着けているモーキスとマレーネにルクスは視線を合わせる。
二人はただその言葉に頷いた。