15.朝のひと時
「俺は子供か……」
エルミラに
アルムは自分でも考えられないほど早く眼が覚めてしまった。
当然昨日の寝つきが悪かったとか、朝に何かあるという事ではない。
今日が楽しみで早く起きてしまったのだとアルムは自覚していた。
アルムは身を起こすとすぐに支度する。
街でも散歩しようと思っての事だ。
ここに来てから二週間経っているというのに、未だに街を歩くのが不慣れなことをアルムは気にしていた。
学院から寮までの道くらいしか確実に歩ける場所が無い。
アルムはここで過ごす内に自分が方向音痴というやつなのではと気付き始めていた。
「森なら迷わないんだがなぁ……」
ぼやきながら制服に袖を通して部屋を出る。
廊下に出ると朝日が窓から差し込んでいて、窓から寮の前に通る道を見ればすでに忙しなく動く人がちらほらいる。
そんな営みを見ながらアルムは一階に降りる。
今日は学院とは逆のほうを見に行ってみようという小さな決心をしながら。
「おや?」
一階に降りると共有スペースにいた先客がアルムに気付く。
共有スペースはコーヒーの香りを漂わせており、見るとアルムと同じく制服を来た女子生徒がぽつんと座っていた。
その女子生徒は座っていてもわかる長身で切れ長の眼は涼し気で大人っぽい印象を受ける。
「この時間に人と会うとはね。こんな時間に起きるのは私くらいのものかと思っていたよ」
「どうも」
同じ寮に住んでいるのもあって何度か顔を合わせる同期生はいるが、この女子生徒とは初めてだ。
新入生といっても一まとめにされているわけではなく、基本は一クラス二十人の三クラスに分かれている。
座学の時間でも会っていないところを見ると別のクラスの人間だろう。
アルムは軽く会釈する。
自分も喉が渇いたので水を飲みに行こうとすると、その背中を呼び止められた。
「一緒にどうだい?」
「え?」
「コーヒーしかないがね」
「飲んだことがないが……」
少しこの香りには興味がそそられる。
もう一つの男女共同スペースである食堂に出向こうとしていたアルムの足は迷うことなく踵を返した。
「座っても?」
「ああ、どうぞ」
誘われるがまま女子生徒の対面に座る。
基本的にアルムは好奇心を抑えられる人間では無いのだ。
「"リニス・アーベント"だ、よろしく」
リニスと名乗った女子生徒はもう一つカップを出してコーヒーを注ぐ。
カップを取り出したところを見ると自分が使っているのも自前のカップのようだ。
「アルムです、よろしく」
「む? 家名は?」
「無いんだ。平民でな」
「という事は君が噂の平民か」
「そちらが不快であれば席を外すが?」
直接言われることは少ないが、学院内のカフェテリアでも先に一人で待っていると嫌な顔をする人間が何人かいたのをアルムは知っている。
否定はしない、というよりも当たり前の反応だとアルムは思っていた。
貴族達の庭に入り込んだたった一人の平民。そんなものは言ってしまえば異分子だ。
いつ自分達の庭を乱すとも限らない存在を嫌がるのは当然である。
だからこそ自然に受け入れているミスティ達に感謝していた。
「良くも悪くも魔法使いは実力主義だと私は思っている。オルリック家の長男を下した君を軽んじることはないよ」
実際には引き分けなのだと否定する間もなくアルムの前にカップが出される。
「少なくとも、この学院にいる間はね。外に出ればただの貴族と平民だから諦めてくれたまえ」
割り切った言葉を口にしながらリニスはニッコリと笑って手を差し出す。それは握手ではなく、飲むように促すものだった。
「いただきます」
怪しさすら感じる真っ黒な液体。
しかし、その液体から発せられる香りは引き寄せられるようで、立ち上る湯気は香ばしく、つい嗅ぎたくなってしまう。
少し眺めた後、アルムはカップに口を付けた。
「………苦い」
アルムは正直かつ短い感想を零す。その表情は感想通りの味だったことを表していて眉に皺が寄っていた。
リニスはその様子に何故か満足そうだ。
「それがいいんだ、お気に召さなかったかな?」
「せっかく貰ったとこ悪いがその通りだ。どうやら自分にわかる味ではないらしい。まずいわけではない」
「気を遣わなくていいよ、好みは思想と同じで千差万別さ」
リニスも自分のカップを口に運ぶ。
その所作の自然さがアルムとは違って好みで飲んでいることがわかる。
「リニスはいつもこの時間に?」
「気の向いた時にね。いつもは部屋なんだが、今日は開放的な場所で飲みたい気分だったんだ」
「何かあったのか?」
「これからあるんだ。自分で意識していたわけではないんだが、どうも身体は正直で違うことがあるとわかっているだけでいつもの習慣でもまた違う気分になるらしい」
「……わかるよ」
今日の自分にそのまま当てはまっていて大きく頷く。
自分も今日それで起きる時間が大幅に早くなった口だ。
理由はさておきだが。
「それでも習慣自体が変わることはない。私はこうしていつも通りコーヒーを飲んでいる、君のようなゲストが来てもね」
アルムにはリニスがいつも通りにコーヒーを飲んでいるかはわからない。
しかし、自分のカップを取り出し、コーヒーを注ぎ、優雅に飲むその姿こそが彼女の習慣であることと彼女がこの習慣を楽しんでいることの証明だった。
「邪魔じゃなかったか?」
「邪魔なものか、私が誘ったんだ」
「そうだが……あれだ、何と言ったか……」
「社交辞令?」
「そう、それだ」
言葉をそのまま受け止める事が当たり前なアルムには慣れない言葉だが、そういうのがあるのは最近学んだ。
何がそういった建前の言葉かどうかわからないので結局意味はないのだが。
「そんな事は無い。ただ……そう、ここのような広い場所に来ると思いの外私は寂しかったのかもしれないな」
「寂しい?」
「ああ、だから普段は一人の時間に君を誘ったのかもしれない」
リニスは窓の外を眺めながらまたカップに口を付ける。
窓の外には寮長が管理しているガーデンがある。それは一目で趣味の域だとわかる出来栄えで、その見栄えは決してよくない。
それでも普段見る事のないものをリニスは慈しむように眺めていた。
昨日エルミラと過ごしたのとは違う静寂が流れる。
初対面の二人が同じ席で過ごすには長い。気まずさがあってもおかしくないこの静寂にアルムは妙な心地よさを感じる。
エルミラと一緒の時のような二人の間にある人間関係がそうさせているのではない。こんな静けさを悪くないと思える二人の心情がそうさせているようだった。
いつの間にか、アルムに街を散歩しようという気は無くなっていた。
「……悪かった、リニスの好きな味がわからない人間で」
「ん? 急にどうしたんだい?」
「いや、どうせなら味のわかる人間のほうがこの時間を良くできたのかなと思ったんだ。俺じゃない人間ならこの味が理解できたのかもしれない」
アルムもこのゆったりとした時間を良しとしていたが、この時間は悪くないからこそ、リニスの習慣であるこの味を共有できないことを少し残念に思い始めていた。
「理解なんて出来なくていいのさ。言っただろう? 好みや思想は千差万別だ。私には私の、君には君の好みや思想がある。それは押し付け合うものではなく歩み寄るものだ。
だからこそ私は君にコーヒーを勧めたが、この味を理解してほしいと思っていたわけじゃない。同じ時間を過ごしてほしかったから勧めたんだ」
「ああ」
「それに君が苦手だと言ったところで私の好みが変わるわけじゃない。変わりなく私にとってこのコーヒーは美味なものだ」
そう言ってカップに注がれていたコーヒーをリニスは飲み干した。
「気分が変わるのも、嗜好を共有できないゲストも悪くない。改めて私はこうしている私が好きなのだと実感できる。これからも私はこうして朝を過ごすのだとね」
アルムにコーヒーを促した時のようなわざとらしい笑顔ではなく、自然な微笑みをリニスは見せる。
朝日を浴びたその姿は絵に描いたように美しいものだった。
「おお……」
「何だね、そのわざとらしい感嘆は……」
「いや、リニスはかっこいいな」
アルムの正直な感想がリニスに突き刺さる。
事前にコーヒーの感想を正直に言っているせいか、からかっているわけではないと嫌でもわかってしまう。
居た堪れなくなったのか、リニスは立ち上がった。
「初対面の君にこんな事を話してしまうとは思わなった……いや、初対面だからこそか」
「もういくのか?」
「ああ、朝は二杯だけと決めててね。今のが二杯目だ」
「すまん、カップは洗って返す」
リニスはトレイにカップやポットを載せているが、アルムはまだ注がれたコーヒーを飲み切っていない。
香りはいいのだが、味は苦手で会話の無い間もどうにも進まなかったのだ。
「君にあげるよ。元々予備で高いものでもない。いつか私のようにコーヒーを飲む時が来たら使ってやってくれ」
「いいのか? 美味と思える日が来るかはわからんが……」
「その時はそのカップはお役御免だということだね」
そう言ってトレイを持ちながらリニスは立ち上がる。
「それじゃあアルム。また学院かここで」
「ああ、ありがとうリニス」
女子寮に戻っていくリニスの背中を見送ってアルムはもう一度コーヒーにチャレンジする。
少し時間が経ったせいかすでにコーヒーから湯気は上がっていない。
「苦いな……」
冷めても苦いのは変わらない。
それでもアルムは最後までこのコーヒーを飲み切った。