第三五回(文政八年三月)
川原慶賀こと登与助がとぼとぼと道を歩いている。
「ああ、どうするかねぇ」
彼は途方に暮れたように独り言ちた。草生ル萌が江戸城の見取り図をまだ持ったままなのかどうかを調べるようシーボルトより命じられて今、山青堂へと向かっているところだった。だがもし草生ル萌がそれを持ったままならシーボルトは――登与助はその目論見を知っている。シーボルトと高橋景保の密談を、こっそり盗み聞きしていたのだ。聞くんじゃなかったと、大いに後悔する羽目になっているが。
登与助は達郎に対して含むものはあるものの「死んでしまえばいい」とまではさすがに考えていなかった。それにこの計画に関与したことが発覚したなら、最悪は登与助自身も打首獄門である。シーボルトにそこまで付き合う義理はなく、できるならここで逃げてしまいたい。だがそれが許されないこともまた嫌と言うほど判っていた。シーボルトや高橋景保は何も怖くはない。恐怖すべきは二人が動かそうとしている人物だった。
ああ、どうしよう、と重い足を片方ずつ両手で持ち上げて下ろすようにしてのろのろと歩き、それでもいずれは外神田へと到着する。今、登与助の前には山青堂の看板があった。登与助は店構えを見上げて今一度ため息をついた。望む情報をどうやって手に入れるか、道中延々と考えはしたものの結局良案が思いつかないままここまで来てしまったのだ。
「ああ、どうしたもんかねぇ」
「どうかしましたか?」
背後から声をかけられて登与助は飛び上がるほど驚いた。振り返ると、登与助の過敏な反応に目を丸くしている大柄な女性が一人。どうやら山青堂の者らしい。
「いえあのその、草生ル萌先生はご在宅でしょうか?」
「あいにく出かけておりますが」
そうですか、と登与助は露骨に胸を撫で下ろした。もし在宅だったなら、その後にどうするか全く考えていなかったのだ。
「私は長崎屋の使いの者なのですが、先生に画帳の描き写しをお願いしておりまして。それがどこまで進んだか様子をうかがいに」
「一冊目は写し終わって、二冊目にかかろうとしているところだったと思います」
「そうですか、三冊目は?」
持てる演技力を総動員し、登与助が何気なさを装いそう問う。店の女性は首を傾げた。
「これは写さなくていい、とあの人は言っていたような……」
「そうですかありがとうございますそれではこれで」
知りたいことを聞き出した登与助は次の瞬間にはアキレス腱が切れそうな勢いで踵を返して、
「どうか火事にはお気をつけて」
そう言い残して足早に立ち去っていった。女性は呆然とそれを見送るだけである。その横に一人の男が接近、彼女――左近がそちらへと顔を向けた。
「あの、これで良かったんですか?」
左近の問いに林蔵が「うむ」と頷く。それからかなりの時間両者の間を沈黙が支配し、
「あの……いつまでこれが続くんでしょうか」
左近のためらいがちの問いがそれを破った。
「さほど長くはない。近いうちに動くはずだ」
林蔵が自分自身に確認するようにそう言う。またそれは確信を持った断言であり――それが実証されたのはその日の夜のことである。
その夜、達郎はなかなか眠れないでいた。布団に入って横にはなっているが、目はずっと冴えたままだ。
日中にあったことは左近から教えてもらっている。そのときの林蔵の言葉も。近いうちに動くはず――それがどんな形となるのかは見当もつかないし、いつとも断言できない。だが達郎の第六感はそれを今夜だと判断しているようだった。
「……はあ」
布団から抜け出して後架に行き、その後中庭で空を見上げる。月の高さから判断して丑二つ、午前二時頃と思われた。どうにも眠れるように思えずそのままそこで立ち尽くし、何分かが経った頃。
「何奴だ!」
離れた場所から届く、鋭い誰何の声。さらには乱闘の音と――断末魔の悲鳴。達郎は襖を蹴破る勢いで家の中を走り抜けて表へと飛び出した。左右を見回し、通りの北側に何人もの人影を発見、そこへと向かって走り出す。
「馬鹿! 逃げろ!」
林蔵の怒声に達郎は急停止した。林蔵とその配下は真剣を抜いて何者かを威嚇していて、その敵対者は五人ほど。編み笠と手拭で顔を隠し、やはり真剣を抜いて林蔵達と対峙している。血を流して倒れ伏している一人は林蔵の配下だ。そして――火が燃え上がっている。
山青堂が入っている区画の北端に彼等が放火したのだ。さらには火を消そうとした林蔵達の邪魔をしている。まさかとは思うが、他に考えられなかった。証拠隠滅のために山青堂ごと江戸城の見取り図を焼いてしまおうとしているのだ!
「火事だ! 火事だ! 放火魔だ!」
江戸時代にはない言葉を使ってしまったので「火付けだ!」と言い直してくり返し怒鳴る。「早く逃げろ!」と叫びながら達郎は山青堂内へと取って返し、「武器・武具図帖」や見取り図の入った風呂敷包みを胸に出して再び外へと飛び出そうとし、
「兄さん!」
「今はダメだ! 少しだけ待て!」
慌てて起き出して今にも外に逃げようとしているお内達を店内に止めて、達郎は外へと駆け出した。そのまま林蔵達へ、それと対峙している襲撃者へと急接近し、
「見ろ! こっちだ! ここにある!」
風呂敷包みを高々と掲げて彼等へと示す。そして背を向けて全力疾走、襲撃者の何人かが自分を追ってくるのを背中で感じながら達郎は必死に大地を蹴った。
元の時代と比較すれば歩く機会は格段に増えて――移動手段は実質的に徒歩だけだ――以前よりもはるかに健脚となっていることだろう。だがそれは襲撃者も同じで、さらには達郎は文筆業。戦闘が本職の侍とフィジカルで張り合ったところでかなうはずがない。死に対する恐怖をドーピングとして全力疾走を続け、それでも五分ほどが物理的な限界だった。
「はあ…はあ…はあ…」
足を止めてしまった達郎が酸素を貪り、その達郎を三人の襲撃者が包囲する。彼等もまた肩で息をしているが達郎を串刺しにすることくらいはわけもないだろう。多少なりとも酸素を補給しもう一度逃げ出すことは不可能ではないが、逃げ切ることはほとんど不可能だった。すぐに追いつかれて剣の一振りで斬り捨てられるのは間違いない。
「……くそっ!」
達郎は持っていた風呂敷包みを襲撃者の一人に向かって力任せに投げ付けた。空中で風呂敷がほどけて中身が分離し、桐箱は地面に落ちて、
「何?」
栓をした徳利が襲撃者の一人の身体に当たって砕け、彼の上半身は中身の液体で濡れた。ここまでは上手くいったがここからどうするか――達郎がそう考えているとその液体に火が点いてその男の上半身が燃え上がった。達郎は目を丸くするがそれも一瞬未満だ。慌てて火を消そうとする襲撃者を尻目にして達郎は再び遁走する。
徳利の中に入っていたのは行灯に使う菜種油で、要するに達郎は護身用の火炎瓶を用意していたのだ。ただ問題は点火の方法で、散々頭を悩ましたが妙案などなく火打石で何とかするしかないと結論付けていた。あの男が勝手に燃え上がったのは放火に使用した火種を持ったままにしていたからに違いなく、達郎にとっては奇跡のような僥倖だが別の見方をすればただの自業自得というものだった。
だがそれでも、稼げた時間はわずかでしかなく、達郎が延命できたのもほんの数分に過ぎなかった。達郎に追いつき、その背中に迫った襲撃者が袈裟懸けに刀を振るう。地面に倒れて転がってぎりぎりでそれを避ける達郎。何とか生命をつなぐも完全に足が止まってしまい、立ち上がろうとするが真剣を構えた襲撃者は目の前だった。
座り込んだ達郎の前に侍が立ち、真剣を上段に降り上げる。逃げる道も、防ぐ方法も、立ち向かう手段も何もない。反射的に腕を交差して目を瞑る達郎へと、その首へとめがけて、その侍が確殺の剣を振り下ろし――
「よけろ!」
声と同時に放たれる石つぶてが襲撃者の後頭部を直撃する。その衝撃と、達郎が身をひねったことが重なり、剣の切っ先は達郎をかすめることなくただ地面を削った。
「くそっ、何奴!」
「そりゃこっちの台詞だろう」
襲撃者は達郎よりも先に、突如攻撃してきた第三者――新橋を殺すべく剣を振るった。だが石つぶては肉体よりも精神にダメージを与えたらしい。怒りに囚われた力任せの剣は男の身体を振り回し、彼はたたらを踏んでその上半身が泳いだ。剣の切っ先は新橋の薄皮も切れず、着物を薙いだだけである。剣を振り切って隙だらけとなったその襲撃者に、新橋が剣を振り下ろす。延髄に剣が叩き込まれ、その男は悶絶して倒れ伏した。
「……こ、殺したんですか」
「いや」
と新橋は鞘に入ったままの剣を軽く振る。鋭器で斬ったのではなく鈍器で殴ったわけだが、頭部を気絶するほど殴打されたのだ。そのまま死ぬことも充分あり得る話で、新橋も「大丈夫かな」とちょっと心配そうだった。その新橋は着流しの肩の部分を切られて素肌が見えていて、そこには女の生首の刺青が掘られている。
「――」
「ほれ、忘れ物だぜ」
その刺青に気を取られていた達郎に新橋が何かを手渡す。反射的に受け取ってから気付いた。それが西洋画帳、「武器・武具図帖」、それに江戸城の見取り図であることに。
「いいんですか、俺が持っていて」
誰にも渡さないとばかりにそれをかき抱き、そう問う達郎。朝になったら、達郎は誰が何と言おうとその三冊をシーボルトに叩き返すつもりだった。それで処罰されようと、打首にすると脅されようと知ったことではない。こんな襲撃がくり返されるくらいなら牢屋に放り込まれる方がずっとマシである。
「ああ、構わねえよ」
新橋は手を振り、軽い口調でそう言う。達郎は彼に不審の目を向けた。
「どういうことですか」
「お目当てが釣れたからな」
そう言って新橋がある方向へと視線を向け、達郎もまたそれに続いた。見ると、その場にやってきた何人かの中間が倒れた襲撃者を拘束している。おそらくこの中間は新橋の家の奉公人なのだろう。
この襲撃者の一団――彼等がシーボルトの依頼で山青堂に放火し、達郎を殺そうとしたのは間違いない。問題は彼等が何者なのか、ということだ。高橋景保の手の者……とはなかなか考えにくかった。前回の、上野近くで遭遇した襲撃者とは覚悟も殺意も桁違いだ。このレベルの襲撃者を動かせるなら最初からそうしていればいい。
おそらくは高橋景保よりも上位で、人殺しを厭わない兵を五人も即座に用意できて……あるいはどこかの大名なのかもしれないと思うが、達郎に推測できるのはそこまでだった。だが別の角度からその正体に近付くことは不可能ではないだろう。
達郎が山青堂への帰路に就き、新橋がそれに同行する。自分の安全が確保されたなら次に心配となるのは山青堂の方、お内や左近や右京の方だ。達郎は小走りで元来た道を引き返し、新橋がそれに同行した。
走ること一〇分足らず。達郎が山青堂の前に戻ってくると、店の周囲には大勢の人間が集まっている。そこにお内達三人の姿を確認して心底安堵し、次に火事が鎮火している様子にさらに安心した。
「ああ、良かった……」
力の抜けた達郎がその場にしゃがみ込む。その達郎に気付いたお内達が、ついで林蔵が駆け寄ってきた。
「どこに行っていたんですか、兄さん!」
「いや、ごめん。色々あって」
本当に「色々あった」としか言いようがなく、それでも詰め寄るお内や左近に達郎は窮した。一方、
「ご助力、かたじけない」
「いいってことよ」
堅苦しい態度の林蔵に対して新橋は軽薄な振る舞いで、また林蔵は彼に対して複雑な感情を抱いている様子だった。一方の新橋はどうとも思っていないようだったが。
「それじゃあな」
達郎を送り届けた新橋がそれだけを言って立ち去ろうとした。達郎はその背中に礼を言う。
「ありがとうございます――遠山様」
新橋がちらりと振り返って意外そうな顔を向けるがそれも長い時間ではない。彼は背を向けたまま手を振り、そのまま遠ざかっていった。
「どこであの方の素性を?」
「半分以上当てずっぽうです」
不審そうな林蔵の問いに達郎はそう韜晦する。遠山金四郎景元――後の北町奉行で、大岡越前と並ぶ名奉行。言わずと知れた、「遠山の金さん」その人である。