第三三回(文政八年三月)
「なんてことだ……! なんてことを……! トヨスケ!!」
激高したシーボルトが登与助を殴りつけた。鼻が折れたのが大量の鼻血が流れるが彼はそのままその場に土下座した。その登与助を、シーボルトは手にした杖で散々に殴打。登与助は全身を丸めて嵐のようなその暴力に耐えた。シーボルトの怒りはそのまま登与助を殺さんばかりの勢いだったが、そのうち彼は杖を投げ捨てた。殴り疲れた彼が肩で息をし、登与助は亀のように身を丸めている。
「ああ、なんということだ!」
そこから先は母国語での罵詈雑言だった。シーボルトは登与助の迂闊さを、愚鈍さをあらん限りの語彙を使って罵っている。もちろんオランダ語を理解できない登与助にはその痛罵がさして堪えるはずもなく――さらに言えば、シーボルトが使っているのはオランダ語ではなくドイツ語だった。
やがてそれにも疲れたのか、あるいはその行為の非生産性に気付いたのか、彼は腕を組んで善後策を講じるべく思考を巡らせた。ときおり舌打ちし、また罵り言葉が口から洩れるのはどうしようもなかったが。登与助はそんなシーボルトを前に土下座したままである。
「先生、高橋様が……」
そこに門人の一人がやってきて彼にそう告げる。シーボルトはひときわ大きく舌打ちして「すぐに行く」と伝えた。
シーボルトが襖一枚隔てた隣室に移動、登与助はようやく顔を上げた。全身が痛み、骨が軋みを上げているが、大した怪我ではない。
「何をしているのだ、貴様は!」
そのとき響き渡る、襖の向こうの怒鳴り声。シーボルトから失態の説明を受けた「高橋様」とやらの声だろう、と登与助は推測する。
「貴様なんぞを信用したこの私が愚かだった……! どうするつもりだ!」
「もちろんすぐに取り戻す」
シーボルトが打てば響くように即答した。
「どうやってだ。貴様が自由に動けるわけではあるまい」
「その通りだ。だからあなたの力を貸してほしい」
いっそ感心するくらいに堂々とそう要求するシーボルトに「高橋様」は絶句したようだった。
「……貴様、よくもぬけぬけと」
「考えてみれてくれ、サクザエモン。私達は同じ船に乗っているのだ。この船が沈めば私もサクザエモンも溺れ死ぬ。そうならないためには力を合わせるしか方法がない」
自分達は一蓮托生だ、とシーボルトは言い、さらには尻拭いを自分に押し付けようというのだ。百の悪口雑言が口の中で渋滞し、彼は唸ることしかできなかった。
「相手はただの絵師で、町人だ。その必要があるのであれば斬ってでも……」
「判っている」
断ち切るような硬い口調がシーボルトにそれ以上を続けさせなかった。どうやら彼等はどんな手段を使ってでもそれを草生ル萌から取り戻すことに決めたらしい。
「ああ、申し訳ないことをしちまった。済まねえな、草生ル萌先生」
登与助は内心でそんな謝罪の言葉を達郎へと手向けた――暗い悦びにその口を歪めながら。
ここ数日、達郎は西洋画帳の模写に専念している。
あの侍からの連絡はなく、事態がどうなっているのか達郎の立場では知りようがなかった。仕方がないので達郎は今、自分にできることをやっている。
本来、西洋画帳と「武器・武具図帖」の模写は葛飾北斎やその門人と手分けしてやるはずだったことである。だが達郎はそうせず、全てを一人で模写するつもりでいて、実際にその作業の真っ最中だった。最悪の場合でも北斎を巻き込まず、全ての咎を自分一人で引き受けるためだ。門人を通じてその旨の連絡も入れており、北斎が山青堂へとやってきても直接会わずにお引き取りを願っていた。
「先生がお怒りでしたが……」
と左近が心配そうに言い、達郎もまた気落ちしたが仕方のないことと自分に言い聞かせる。この件が解決すれば誤解を解くこともできるだろう。
まず優先するべきは西洋画帳の模写だった。これを北斎に渡せたなら彼の絵のさらなる進化に大いに貢献することだろう。「武器・武具図帖」は……模写していいとも悪いとも、あの役人からは指示はなく、達郎にも判断はつかなかった。シーボルトを油断させるため、また仕事として引き受けた以上は模写しておいた方がいいかもしれない、という思いはあるが、その量があまりに多い。一人で模写をすることを思うと途方に暮れて億劫になるくらいで、また現実的に考えて手が回るとはちょっと考えられない。結局模写せずにそのまま返すことになりそうだが、役人ににらまれる理由もなくなるわけでそちらの方が望ましいと思われた。
問題は、江戸城の見取り図だった。
「一体どんなご用だったんですか?」
あの役人――幕府の調査官の尋問後、お内と左近がそろって達郎に詰め寄り、それを問い質した。達郎としては事実をほぼありのままに説明するしかない。出島の商館長に模写を依頼された図帖が御禁制の代物だったこと。それを調査する役人の指示で返却せずに持ったままでいること、等。
「何をしているんですか、不用心すぎます」
お内がその迂闊さを叱責、達郎は「面目ない」と首をすくめるしかない。
「でも潤筆料が金百五十って話だったから」
「それなら仕方ないですね」
ドリルのような勢いで手の平を返すお内に左近がずっこけそうになった。
「……でもお役人様に預かっていろと言われたのならそうするしかありませんし」
左近の言葉にお内も「そうですね」と頷き、この話はそれで終わった。指示に従っている以上は悪いことにならなない、そう考えているのだろう。達郎もまた同じように判断するに違いなかった――江戸城の見取り図さえここになければ。
お内や左近に対して秘密にしたことを間違いだとは思わない。仮に時間が巻き戻ったとしても、何度でも同じ判断をすることだろう。だが、あの役人に対して(結果的に)沈黙を守る形となったのが果たして正解だったのか、達郎には未だに判らない。今からでも遅くないから、次に連絡があったときに正直に打ち明けるべきではないのか……そんな迷いを抱いている。
シーボルトがどうやってこれを手に入れたのか、そしてどうしてこれが達郎の手に渡ったのか。前者については知識不足のため正解が得られないものとし、後者は「単なる手違いだろう」と結論付けてそれ以上考察しなかった。もっとも推測を進めたところで、
「草生ル萌に嫉妬した川原慶賀が嫌がらせのためにそれを紛れ込ませたのだ」
という正解には絶対にたどり着けはしなかっただろうが。
知らない間にスパイ活動に引きずり込まれて日本を裏切る羽目になりそれを強いたシーボルトに対する意趣返しの意味もあるとか、仮に全てが露見しても「自分は何も知らなかった、ただ言われるままに絵を描いていただけ」と知らぬ存ぜぬを決め込んでそれで追及を免れるつもりでいるとか、やはり一番大きいのは「まるで路傍の石のように目もくれず、自分を踏み付けにした草生ル萌に思い知らせてやりたい」という理由だとか、そんなことが達郎に判るはずもない。
達郎は彼を虚仮にし、軽侮し、踏みつけにした等とは夢にも思っていない。が、逆に言えばその事実こそが達郎にとって「川原慶賀」が路傍の石も同然という、何よりの証拠だった。あのとき話をした登与助と川原慶賀が同一であると、その確証すら未だないくらいなのだから。
もし元の時代で多少なりとも川原慶賀について調べ、その絵を見たことがあるなら、そして登与助がその川原慶賀だと判っていたなら、あのときの話もまた違ったものとなっていたかもしれない。「シーボルトの記録係」として万物をありのままに描くことだけを求められ、それすらも満足にできたとは言い難く、結局「シーボルトの記録係」としての名前しか歴史に残さなかった男――それに対して草生ル萌は浮世絵の新機軸を打ち出し、自分の名を冠する新たな絵を生み出した天才絵師。その名が歴史に特筆されることは確実だった。もちろん登与助が百年後二百年後の自分の評価を知るはずもないが、「川原慶賀」が二流の町絵師として歴史に埋もれていく名前だということは嫌と言うほど判っている。
一方の達郎は、自分が羨望され、嫉妬される立場だということをいまいち実感していなかった。もちろん自分が高い名声を得ていることは知っているが「所詮は借り物」という冷めた感覚があり、他人にとってもそうだという無意識の思いがあったのだ。
そんなすれ違いの結果がこの有様なわけだが、それはともかくとしておこう。「思い知らせてやりたい」という登与助の一念は最後まで、その一欠片すらも、達郎に届きはしなかったのだから。
「どうする、どうすればいい。何が正解なんだ」
この江戸城の見取り図をどうするべきか、達郎はひたすら思い悩んでいる。悩みながらも機械的に手を動かして西洋画帳を描き写した。普段ならこんな人力コピー作業、すぐに飽きて嫌気がさすだろうが、今だけは懊悩する時間を無駄にせずに済んでいる。
「……ともかく、俺一人で考えていたって埒が明かない。誰かに相談するべきなんじゃないか?」
でも誰に相談するべきか? その人選でまた悩む理由が増え、達郎の頭は煮詰まるばかりだった。そこに、襖の外からかけられるお内の声。
「兄さん、越前屋さんが来られていますよ」
為永春水が、と顔を上げた達郎は、
「中に通してくれ、すぐに行く!」
久々に弾んだ声でそう答えた。
それから少しの時間を経て、中庭。今、そこで達郎と春水の二人が佇んでいる。
「今日は何かご用件が?」
「いえ、特に用事はないんですが、まあご機嫌伺いで」
と笑顔で曖昧なことを言う春水。達郎は深く考えず「それは好都合」と内心で指を鳴らした。
「いや、実は今少しばかり厄介な話に巻き込まれていまして、誰か知恵を貸してくれる人はいないかと途方に暮れていたところだったんですが……」
「なるほど、渡りに船ですか」
と春水はニヤリとした。
「不肖、この越前屋は世間の荒波にもまれ、それなりの苦労をしてきたという自負があります。山崎屋さんとは違ったものの見方から手助けできることがあるかもしれません」
「いや、ですが下手にこんなことに巻き込んで為永さんに迷惑をかけることになっても……」
「何を水臭いことをおっしゃる! あたしと山崎屋さんの仲じゃないですか!」
お芝居のように大仰な春水の言葉に達郎はひそかにほくそ笑みつつ、
「そこまで言ってれるなら」
とためらいながらも(そう装いながら)事情を説明した。その内容はお内や左近にしたものと同じだが、二人には隠していたことを付け加えた。
「それで、こんなものが一緒に入っていたことをあの役人には言いそびれてしまって」
江戸城の見取り図を取り出してその中身を見せる達郎。それが何なのかを理解すると、春水は即座に踵を返した。
「申し訳ない、用事を思い出しましたので今日はこれで」
が、達郎はそれを許さず彼の帯を後ろから鷲掴みにする。
「俺と為永さんの仲でしょう!」
「限度ってものがあるでしょうが!」
春水はそのまま逃げようとし、引き留める達郎と綱引き状態となった。
「そもそも相談する相手が間違ってます! あたしじゃ大した力にはなれませんし、士分の柳亭先生あたりに相談した方が」
「でも、あの人を巻き込んで処罰を受けることになったらまずいですし」
「あたしだったらいいんですか!」
春水の噛みつくような物言いに達郎は「そういうわけじゃ」と曖昧に笑ってごまかした。
だが実際、この一件に巻き込んで迷惑をかけるなら柳亭種彦ではなく為永春水の方だ、と達郎は思っている。種彦には無役でも士分としての身分と立場があり、この一件に巻き込んでそれを失わせるようなことになったなら達郎にはどうにも償いようがない。それに対して春水はただの町人だ。失って困るような立場はなく、その損害が金銭的なものであるのなら達郎でも補填できることだった。それに、お人好しの種彦は一度かかわったなら抜き差しならないところまで付き合ってしまいそうなイメージがある。それに対して春水は危なくなったらドライに達郎を見捨てて、最悪の場合でも自分だけは処罰を免れるよう上手く立ち回ってくれそうな、ある意味の「信頼感」があった。それに何より、
「相手が誰でも迷惑をかけたいわけじゃない、最悪でも咎を受けるのは俺だけです。でも、一人で考え込んでも堂々巡りになるだけだし、知恵も足りない。それを補ってくれるだけでいいんです!」
特に不足しているのはこの時代の常識で、春水に一番期待しているのもその点だった。春水は難しい顔で唸り、腕を組む。だがもう逃げ出そうとはしなかった。
「……相談に乗るくらいしかできませんよ? それだって安くはありませんからね」
しぶしぶながらそう言う春水に達郎は深々と頭を下げ、心からの感謝をささげた。
「ありがとうございます! 今度青林堂で合巻を出しますから!」
「本当ですか!? 絶対ですよ!」
食いつかんばかりに言い募る春水に達郎は精神的に何歩か後退するが、前言を撤回したりはしなかった。
「しかしそれにしても……」
知恵を貸してくれることにはなったものの、春水が即座に何か素晴らしいアイディアを出してくれるわけではない。彼は首をひねるも、長い時間唸り続けるばかりだった。
「この見取り図のことは、黙っていて間違いなかったと思いますよ? お役人にこんなことが知られたらどんな目に遭うか判ったもんじゃありません」
「そうですか」
と半分安堵して頷きながらも、達郎はもう半分の不安と納得しがたい思いを抱いている。今かからでも遅くないから次に連絡があったときに白状するべきではないかと。
「いっそこれを燃やしてしまえば」
「いや、さすがにそれは止めた方がいい」
春水が慌ててそれを制止し、達郎もすぐに思い直した。もとよりただの思い付きで、本気でそうしようと考えていたわけではない。
「確かに何があるか判らないし、一件落着するまでは持っているしかないかな」
「それしかないでしょうな」
春水は他人事のようにそう言って肩をすくめた。
「正直、あたしの手に負える話じゃありませんなぁ。相談だけでもやはり士分の方でないと」
「でも、話が判ってそれなりの立場の士分なんて」
そこで達郎はある人物のことを思い出し、
「そう言えば以前花見で会った新橋さん、あの人はどうですか?」
「いや、あの方は」
と春水はちょっと困った顔となった。
「確かにあの旦那なら悪いようにはしないだろうと思いますが、あいにく家の名前もどこに住んでいるかも知らないんですよねぇ。たまにふらっと会いに来て飯をたかっていくくらいで」
そうですか、と達郎は肩を落とした。
……その後も長々だらだらと相談は続くが大して実のある結論は出ず、やがて日差しは傾いて夕方となる。
「もうこんな時間ですか。そろそろお暇をしませんと」
「そうですか。長い時間引き留めて済みません」
見送りがてら気分転換に散歩でもしようかと、達郎は店を出て春水と連れ立って歩き出した。春水と世間話や相談の続きをしているうちに思ったよりも遠くまで来てしまった。場所は上野に近い。
「そろそろ引き返さないと。それじゃこれで」
と春水と別れようとしたその瞬間、二人は何者かに包囲された。相手は編み笠を深くかぶった侍が三人。彼等は剣を抜き、その切っ先を達郎と春水に向けている。道は大きな寺院の土塀に沿って続いている場所で、他に人影はなかった――今、この瞬間は。それがいつまで続くかは保証の限りではないが。
「……何事ですか」
「オランダ人から預かったものがあるだろう。それをよこせ」
達郎は足を震わせながらも春水をかばうようにその三人の前に立った。そして両手を上げて戦意がないことを表す。
「渡します。でもここにはないから店に戻らないと」
「取りに行ってこい。それまで後ろの男は預かる」
人質にするという宣告に春水は気絶しそうになった。
「待ってください、この人は無関係……」
「預かるのは店の者でも構わんのだぞ」
襲撃者はそう言って抜身の刀を誇示するように軽く振った。達郎は唇を噛み締め、
「俺に着いて店まで来てください、預かっているものは全部渡します。ため――関係ない人は巻き込まないでください」
声を震わせながらも強硬な姿勢の達郎に、襲撃者達は困惑したように顔を見合わせた。が、それも長い時間ではない。その中のリーダーと見られる男が「いいだろう」と頷き、達郎はひとまず安堵した。必要以上にことを荒立てたくないのは彼等も同じで、また彼等には時間も選択の余地もろくにないのだと、このときの達郎に判ることではない。
「おっと、そいつはちょっと困るかな」
突然割り込んでくる、その場の誰のものでもない声。襲撃者が一斉に後ろを振り返った瞬間、何者かがそのうちの一人を投げ飛ばした。そのまま彼は疾風のように一同の中に飛び込み、達郎達をかばうように襲撃者の前に立ち塞がる。
「貴様、何奴!」
「さて、なんと名乗った方がいいかねぇ。この場合」
飄々とうそぶくその男の名を、達郎は呆然と呟くように呼ぶ。
「新橋さん……」
突然現れて達郎達を守る新橋は、まるでヒーローのような太々しい笑みを一同へと示していた。