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第一回




 周囲には背丈よりも高い草むらが生い茂り、足元は泥濘だ。もう何メートルか進めばそこはもう川岸ではなく川の中である。川幅は何十メートルもあり、滔々と水を湛えている。

 達郎は草むらから首を伸ばして追手の様子をうかがった。追手は二人。粗末な着物を着、ちょんまげを結った男達だ。そのうちの一人が自分のいる方向へと目を向け、達郎は慌てて身を屈めた。追手が近づいているような気がして、少しでも遠ざかろうとより川の方へと踏み込む。くるぶしまで水に浸かってしまいスニーカーの中に水が流れ込み、達郎は顔をしかめた。

 草を踏み分ける足音が聞こえ、次第にそれが大きくなる。達郎はその場にしゃがみ込んで身を丸めた。スニーカーだけでなくジーンズの尻も水浸しになるが、今は些末事だ。息を殺し、震える身体を抑え、追手に見つからないことをただひたすら神様に祈り続けた。その願いが聞き届けられたのか、追手は達郎のすぐそばを横切り、やがて遠ざかっていく。


「……はあー」


 彼等が充分に離れたことを確認の上で達郎は全身から脱力し、大きく息を吐き出した。


「よかった、見つからなかった」


 安堵し、神様に感謝しようとして、「しまった、こんなことに願い事を使ってしまうなんて」と舌打ちする。どうせなら元の時代に帰ることを願って、それ叶えてもらえば……いや、そもそも今、こんな目に遭っていること自体が神様のせいなら祈るだけ無駄なのでは? 達郎の思考はとりとめのないものとなるが、彼は頭を振って一旦それをリセットした。


「一体なんだってこんなことに……」


 この四〇時間に何十回と発せられた疑問を彼は改めて何者かに問う。達郎が今いるのは墨田川の岸辺であり、は推定二百何十年か過去の江戸時代後期だった。何故こんなことになったのか、達郎は順を追って確認する。

 彼の主観で約五〇時間前、二〇二一年一二月二九日午前。占部達郎うらべ・たつろうは東京を訪れていた。

 彼は京都在住の二一歳、大学生。文学部日本文学科で近世日本文学ゼミを専攻しており、今回の東京遠征は卒論執筆のための現地取材が目的のまず半分。もう半分はコミックマーケットに参加することだった。

 曲亭馬琴を卒論の題材としている彼は東京に着いてまず、文京区茗荷谷の深光寺を訪問した。深光寺には曲亭馬琴のお墓があり、達郎はお参りをする。


「無事卒論が完成して卒業できますように。あと、ちゃんと就職ができますように……真っ当でブラックでない会社に。あと、できれば漫画家になりたいです。小説家でも構いません」


 達郎は両手を合わせて長い時間熱心に祈るが、泉下の馬琴も「自分に祈られても」と多分困ったことだろう。

 その後に東京メトロ丸ノ内線とJR山手線を乗り継いで向かうのは、秋葉原。秋葉原には曲亭馬琴が一八年間居住していた居住跡がある。そこも目的地の一つだが、残っているのは案内の看板だけである。秋葉原では同人ショップやゲームショップをはしごし、実際のところこのために東京まで来たようなものだった。

 その後、達郎はつくばエクスプレス線で浅草に移動。雷門や浅草寺を観光し、そこから歩いて吉原へと向かう。吉原と言えば江戸最大の歓楽地。江戸後期の文化の中でも大きな存在感を放っており、達郎としては見過ごすわけにはいかない場所だった。

 今日でも風俗店・夜の店が少なくはなく、どことなく江戸の残り香が感じられた。もっともそんな店にはキャッチされないよう素通りだが。


「吉原と山谷ってこんなに近かったのか」


 山谷のドヤ街を通り抜けて旧日光街道へ。宿泊先は南千住駅近くの安ホテルであり、歩いてそこへと向かった。ホテルに入って一休みし、日が沈んで時刻は一九時過ぎ。達郎は夕食を食べるためにホテルを出、南千住駅方面へと足を運んだ。

 駅の高架をくぐってさらに北に進んで何筋目かを右折する。確かこの辺に最近評判のラーメン屋があったはずなのだが……


「確かこの辺だったはず……」


 スマートフォンを取り出してGoogleマップで現在地とラーメン屋の場所を確認しようとし、


「え?」


 目の前で火花が散った。顔を上げると、一メートルも離れていない空中が帯電している。何もない空中で、蛇が身をひねるような紫電がいくつも発生している。まるで、目に見えない小さな積乱雲がすぐそこにあるかのようだ。そして鼻を突く刺激臭。トイレ用の酸性洗剤に似たそれは、おそらくその放電によって発生したオゾンの臭いだった。

 本能的に身の危険を感じた達郎が後退ろうとする。が、遅かった。


「――が」


 まるで雷電に全身を貫かれたような衝撃。膝が崩れ、前に倒れて両手を突いて、四つん這いの体勢となる。そのまま倒れ伏さなかったのはほとんど奇跡だった。肘が折れて地面に突き、額に泥がつくほどに頭が下がり、そのまま胃の中のものを全て吐き出す。固形物は残っておらずほとんど胃液だけである。

 吐くだけ吐いたら少しは気分がマシになり、達郎を身を起こした。ハンカチで口をぬぐい、胡乱な頭のまま周囲を見回し、


「え」


 周囲の状況が一変していた。舗装された道路がない。ガードレールがない。電柱がない。歩道がない。ビルや商店がない。民家がない。自動車がない。人工の灯りがない。暗闇の中でわずかに見えるのは田んぼと雑木林だけだ。稲の刈られた後の田んぼが目の前に広がっているが、どこまで続いているかは判然としなかった。

 一体どのくらいの時間呆然としていただろうか。地面に落ちていたスマートフォンを拾い上げて電話をかけようとしても圏外、Googleマップで現在地を確認しようとしても「あなたの位置を特定できませんでした」。これ以上バッテリーを消耗するのもまずいと判断し、スマートフォンはコートのポケットにしまった。

 目視以外で現在地を確認する方法がないが、それで判るのは今いるのが舗装されていない田んぼのあぜ道だということくらいだった。足元に道があるのでひとまずはそれに沿って歩き出す。少し歩くと太い道に行き当たった。両側二車線分くらいの太さがあって大型車の往来も問題なさそうだが舗装はされておらず、路面は土のままだ。達郎は今度はその道に沿って歩き続けた。南の方にわずかな灯りと、建物らしい影が見えたのでとりあえずはそちらへと向かう。


「一体何が……ここはどこだ?」


 道は舗装されていない土の道。周囲は田んぼか雑木林。街灯はなく、人影一つ見当たらない。


「何でこんなところに……何があったっていうんだ?」


 あのとき雷に撃たれて記憶が欠落したのだろうか? 記憶喪失になっている間にどこかに移動して、そこで記憶を取り戻したとか……いや、スマートフォンの時計を見る限りではそんな空白が入る余地はどこにもない。ほんの数分という達郎の体感そのままに時刻は経過している。それに身体に火傷も服に焦げた痕跡もなく、スマートフォンも無事である。地獄のような気持ち悪さと吐き気も今では嘘のようだ。あの衝撃が本当に雷によるものなのか、その点すらが疑問だった。

 出発点から二百メートルかそこらを歩いて、道の脇に何かがあるのを発見。ようやく手がかりを見つけたと、達郎はそれに歩み寄った。

 それは竹矢来、竹を組んで作られた柵であり、その内側に瓦葺の建物があった。その前庭のような場所に、何かが設置されている。達郎は柵に手をかけてその中を覗き込んで、


「ひぎぃっ……!」


 悲鳴を上げるのと衝撃のあまり息が止まったのはほとんど同時だった。人間がはりつけとなっている。男が磔柱に大の字に固定されている。男はとっくに絶命していながら恨み言を言いたげに口を開けて、顔をこちらに向けている。カラスについばまれたのか、その両眼窩は虚ろだった。何もない眼が達郎を見つめるかのようだ。腰を抜かした達郎がその場に座り込んで、その体勢のまま後退して逃げようとした。そのとき達郎に気付いたのか、二つの人影が接近してきた。


「なんだ、こいつ?」


「変な恰好しやがって」


 竹矢来の中から姿を見せたのは、ちょんまげに着物の男二人だ。二人とも袴をはかずに職人が履くような股引を履いている。さらにもう一人の男が奥から出てくるが、彼は羽織袴に二本差しと、典型的な侍の姿をしていた。股引の二人はその侍に奉公する中間(士分ではない奉公人)なのだろう。


「不審なやつ……異人か?」


 侍が胡乱な目を向け、顎で達郎を指し示して「おい」と二人に何かを指示する。次の瞬間、発条のように立ち上がった達郎が脱兎のごとく逃げ出した。侍が「待て!」と呼び止めるが待つわけがない。中間の一人が竹矢来の中から出てきて追いかけてきて、達郎は雑木林に飛び込んででたらめに走り回った。何度も転んで全身泥まみれになりながらもそのたびに起き上がって走り続け、


「……まいた?」


 逃げ切ったのか、途中で中間が諦めたのかは判らないが、追跡者の気配はなくなっている。それでも達郎は木陰に身を隠し、必死に身体を縮め、短い呼吸をくり返して酸素を貪った。心臓は破れんばかりであり、肺は裂けんばかり。わずか数分の全力疾走で足は棒のようであり、いつの間にかジーンズが何箇所か破れて脛に傷ができている。冬の冷気が肺と脛を針で刺すかのようだが、今だけはそれが心地よかった。

 夜の帳はとうに降りていて、雲は厚く月も出ておらず、周囲は完全な真っ暗闇だ。達郎が身にしているのは黒いコートなのでこの暗闇の中で、ライトもなしに見つけ出すのはほとんど不可能だろう。それでも念のために、防寒の意味もあり、体育座りの姿勢となってジーンズの足を全部コートの中に入れてしまう。

 ……そうやって、おそらく一〇分くらいは身体を休めることができただろう。全身の筋肉への酸素補給に追われていた血流がようやく脳へも回されるようになり、


「一体何がどうなって……」


 自分の身に何が起こっているのかを考えられるようになってきた。もっとも、その答えはとっくに出ているのだが。


「――タイムスリップ」


 すぐ先から水の流れる音と、水の匂いがしている。おそらくそれは墨田川だ。先ほどまで達郎が歩いていたのは日光街道で、磔刑となった男や侍がいたあの場所は小塚原刑場。JR南千住駅のすぐ目の前には小塚原刑場跡が史跡として残っている。

 江戸幕府が刑場を設置するにあたって「見せしめの効果が高い」という理由で選んだのが主要街道沿い、江戸の出入口というべき場所だった。その南の一方が東海道沿いに設置された鈴ヶ森刑場、北のもう一方が日光街道沿いの小塚原刑場である。小塚原に刑場が存在したのは江戸の初期から明治の初期まで。斬首刑が日本で廃止となったのは実に明治一三年。だが明治に入っていれば刑場を担当する役人も洋装となっているだろうから、「今」は江戸初期から幕末までのどこかだと思われた。


「何の参考にもならねーな、おい」


 と自分に突っ込みを入れる達郎。実際それは二〇〇年以上の幅がある、推測としては何の意味も成しはしないものだった。もっとも、年月日単位で「今」が判ったところでそれが現状改善に寄与するかはまた別問題だが。


「……おい、ちょっと待て。洒落にならんぞ」


 ぱらぱらと雨粒がコートを打つ。顔が青ざめるのは寒さのためだけではなかった。どこか雨宿りのできる場所に、とも考えるが、月も星も雨雲に隠されて周囲は完全無欠の暗闇だ。下手に動けば墨田川やその支流に転落することも考えられた。

 迷っている間に雨はさらに強くなり、もう身動きの取りようもなかった。大木の梢が多少なりとも傘代わりになったのは不幸中の幸いかもしれない。達郎はコートのフードを深々とかぶり、足を抱えて可能な限り身体を丸めた。コートはポリエステル製の綿入りで撥水性も防寒性も高い。だがそれでもその一夜は達郎にとって過酷なものとなった。雨は夜半まで降り続けることとなる。






「……洒落にならん。死ぬ。死んでしまう」


 達郎が覚えるその危機感は、誇張でも何でもなく今の現実そのままだった。達郎は二一年の人生の中で最大最悪の生命の危機に直面している。

 達郎が江戸時代にタイムスリップしてから既に四日目、約五九時間が経過している。今こうして朝日を見上げるのも三回目だ。この間彼はずっと、雑木林の片隅で野宿を続けている。

 幸い雨は初日の夜以降は降っていないが、それでも吹きさらしの屋外で冬の夜を過ごすのは泣きたくなるほど辛かった。せめて一晩くらいはどこかの民家か農家に泊めてもらえないかとずっと考えている。だが、


「この格好……どうやっても怪しまれるよな」


 今の達郎が身にしているのはコートとジーンズとスニーカー。コートの下はフリースの上着とハイネックシャツ。その下はヒートテックの長袖シャツ。防寒装備としては万全であり、だからこそ野宿も何とか耐えられたのだが、江戸時代の人間に見られて怪しまれないはずがなかった。

 眼鏡は金属フレーム。幕末なら真鍮製の眼鏡フレームが存在するが、これほどまでに細く軽量の金属フレームはこの時代にはあり得ない。外見には無頓着なので節約のために長いこと散髪に行っておらず、男としては長い髪を後ろで括っている。高い位置で結えば小さなちょんまげにはなるだろうが、それが何になるという話だった。


「奉行所かどこかに捕まったなら……」


 自白偏重はこの国の司法の伝統であり宿痾だ。達郎の服装や話し方から外国の間諜スパイと疑われるかもしれず――実際刑場のあの侍には疑われていた――そうなったらもう最後だ。拷問してでもお奉行様の筋書き通りの自白をしゃべらされ、伝馬町の牢屋敷送りとなる。

 牢屋敷の中は役人ですらその権限が及ばない、囚人による完全自治の世界である。囚人が増えて牢屋が狭くなると目障りな者を私刑で殺してしまって牢屋を広くする。金さえあれば何かと便宜を図ってもらえるがなければ最底辺を這いつくばるしかない。まさに「地獄の沙汰も金次第」を地で行く場所だった。

 仮に間諜だと疑われずに済んだとしても、達郎は戸籍――人別帳への記載がない。無宿人はやはり牢屋敷送りか、あるいは佐渡の金山へと送られるか。もし「今」が一七九〇年以降なら、運が良ければ佃島の人足寄場送りとなって、油搾りなどをすることになるかもしれない。

 「鬼平犯科帳」で知られる長谷川平蔵が石川島(佃島)に「加役方人足寄場」を設立したのは寛政二年(一七九〇年)。無宿者や軽犯罪者を三年間収容して職業訓練を施し、無事に勤め上げると就職の斡旋や支度金の給付をしてもらえたりしたという。ただしその環境や労働が過酷であることには変わりなく、またやがては初期の理念が失われて単に囚人に重労働をさせるだけの場所になったという。

 役人に捕まることを前提として、「今」が一八〇〇年前後であることに一縷の望みをかけて、この時代の人間と接触するか? だがちょっとでも運が悪ければ牢獄送り、さらには磔獄門さらし首。ほんの数百メートル先の、あの小塚原刑場で、今度は達郎が磔刑に処されて晒されることになるかもしれない。自分があの死体と同じ姿となる――その恐怖が達郎の行動を縛っていた。

 この時代の人間と接触どころか姿を見られることすら危険だと達郎は判断している。このため彼は日中は雑木林の木陰か岸辺の草むらの身を隠し、息をひそめていた。時折日光街道を通行する人々の様子を遠目に伺うが、遠すぎて判ることがほとんどない。だが思ったよりもずっと多い通行量、それに人々の服装と乏しい知識を突き合わせ、さらに雰囲気と勘と当てずっぽうで、「今」は江戸の後期だろうと思うことにした。洋装の通行者はただの一人も見かけず、少なくとも明治でないことは間違いない。

 まともな食事は二〇二一年の午前に摂ったのが最後だ。この時代の金など持っているはずがなく、そもそも現地住民の前に姿を出せない。だから達郎が動けるのは未明だけ。農家の軒先で作られていた干し柿を盗んで飢えをしのぎ、井戸の水を勝手に飲んで渇きをいやしている。水はうがいだけにして可能な限り飲まないよう気を付けていたのだが、それでも食あたりを起こしてしまった。

 ひどい下痢となり、ポケットティッシュは持っていたが数は限られていたのでハンカチで尻を拭ってそれを水路で洗って何度も使う。ただでさえ減る一方の体力が著しく損なわれ、追い打ちをかけるようにして熱を出した。こんな体調で冬に野宿をしていれば風邪を引くのは当然以前の話である。


「やばい……前にインフルエンザになったときよりもしんどい」


 そのときは医者にタミフルを処方してもらい、栄養のあるものを食べて暖かな布団の中でひたすら寝て過ごし、それでも完治まで二日かかったのだ。まともにものが食えず、水すらろくに飲めず、布団の中どころか吹きさらしの屋外にいる他なく、横にもなれずに膝を抱えて身体を丸めることしかできない。達郎が若く健康な成人男子だからまだ生きているのであり、そうでなければとっくに生命を落としていても何の不思議もなかった。

 オタク気質でスポーツは苦手な達郎だが重労働の、肉体労働のアルバイトを大学入学以来ずっと続けており、そこで体力を培っていたことも生き延びている理由の一つだろう。だがそれにも限度はあり、達郎の限界はもう目前――具体的には明日の朝日が拝めるかどうか、だった。


「どうする、どうすればいい」


 考える時間だけはいくらでもあり、せいぜいできるのは考えることくらいだ。そして達郎は考え続けている、現状打破の方策を。

 最善は元の時代に帰ることである。江戸時代にタイムスリップ!は夢があっていいかもしれないが何の準備も心構えもなしでは樽に詰め込まれて海に流されるのと大差ない。ロビンソン・クルーソーにでもなった方がまだマシなくらいだ。問題はどうするかだが……タイムスリップは完全に自然災害同然であり、元の時代への帰還も運を天に任せる他ない。だがその確率を高めることくらいはできるだろう。


「そもそも何で、違う時代の同じ場所に出るんだよって話だよな」


 達郎がタイムスリップする直前にいた場所と、JR南千住駅。タイムスリップした直後にいた場所と、小塚原刑場。両者の位置関係が同じだとするなら――GPSがあるわけでもないので確たる証拠はないが、両者は同じだと達郎の感覚が断言している――達郎がタイムスリップする直前にいた場所と直後にいた場所は、時間軸が違うだけで全く同一の場所である。だが、それは何故なのか?

 達郎が時空に空いた穴を通り抜けてタイムスリップしたのなら、「時空の穴」とやらが全く同じ場所にあるのはおかしな話ではないか? 地球は時速一七〇〇キロメートルで自転しており、時速一〇万キロメートルで公転しているのだから。さらに銀河系自体が回転しており、銀河の中心に対する太陽系の公転速度は秒速二三〇キロメートル。さらには天の川銀河は宇宙の果てへと向かって秒速六〇〇キロメートルの速度で移動している。

 仮に「時空の穴」が宇宙空間の絶対軸に対して固定されたものだとするなら、タイムスリップする前とした後の位置関係は半光年くらいは離れた場所となるはずである……二百何十年という時間を遡行することを思えば誤差みたいものかもしれないが。

 だが現実には、達郎は時間軸が違うだけで全く同一の場所に放り出されている。ならば「時空の穴」、つまりは空間に空いた穴が慣性によって自転・公転をし、地面にへばりつくようにして宇宙を移動していることになる……それもまた不思議で、不自然な話のように思えないだろうか? 喩えるなら壁に空いた穴がテーブルや椅子の位置に応じて移動しているようなものではないか。

 そもそも「時空の穴」が門のように、ずっとこの場所にあったと考えることが間違いなのではないか? こんな街道のすぐ側に、または東京二三区内にタイムスリップできる場所がずっと存在していたなら、神隠しが頻発したりタイムスリッパーが歴史に登場したりと、とっくに大騒ぎとなっているはずである。だからたまたま「時空の穴」が開いた瞬間に達郎がすぐ近くにいて、運悪くそれに呑み込まれてしまった、と考えるべきだろう。

 異星人のUFOが地中深くに埋まっているのか、あるいはマイクロブラックホールが閉じ込められた隕石でも落ちてきたのか。ともかく何らかの拍子でその「何か」が起動してしまい、二百数十年前への「時空の穴」が開けられた……おそらくそれはこの時代からこちら側にあったと考えるべきだ。時間軸の違う二つの「それ」が何かの理由で一つにつながり、「時空の穴」が開いてしまった。おそらく先に起動したのは未来の方だろう。時間に対する順方向と逆方向、どちらがより大量のエネルギーを必要とするかは言うまでもなく……


「――いや、ちょっと待て」


 そうなると未来の「それ」と過去の、「今」の「それ」……ああもう、面倒だから「それ」は「マイクロブラックホールが封じ込められた不思議隕石」だと仮定しておく。未来の不思議隕石が何らかの理由で起動して……東京遠征の何日か前に関東で震度四の地震があったから、起動の理由はそれかもしれない。この二百何十年かでその程度の地震は何十回も起っているだろうが、今回は地軸の歪みとか重力波とかがたまたま不思議隕石を直撃したのだろう。ブラックホールの外周では時間の流れが遅くなるので重力波の直撃から起動までのタイムラグが何日かあってもそこまで不思議ではない。

 ともかく、起動した不思議隕石は過去の自分とつながって、「時空の穴」が開いた。さらにそのときの余剰エネルギー放射に巻き込まれて達郎が「時空の穴」を通り抜けてこの時代へとやってきてしまった。現状までで他のタイムスリッパーがやってきた様子もないところから、不思議隕石が有するエネルギーはタイムスリップ一回分。未来の不思議隕石はおそらく保有エネルギーを使い果たしてただの石ころになっているだろう。ならば「今」の、現時点の不思議隕石は? まだエネルギーを使っていないと見るべきか、あるいは一つとなった時点でもうエネルギーがなくなったと考えるべきか。

 過去のこの時点でエネルギーがなくなっているならそもそも未来でタイムスリップが起こらない。だが達郎がタイムスリップできた時点でこの世界はパラレルワールドとなっている可能性がある。もうエネルギーがないなら達郎が未来に帰れる可能性はゼロとなるので、希望的観測だろうとご都合主義だろうと不思議隕石にはまだエネルギーが残っているとこの際は考えておく。ただし残っているとしても一回分だが、それでも帰還のチャンスがあるのとないのとでは天地の差があった。

 問題はどうやって「今」の不思議隕石を起動させるかだが、達郎がタイムスリップしてきたこと自体がそれを起動させるには充分すぎる衝撃のはずである。もしかしたら達郎が不在の間にそれは起動してタイムスリップを引き起こし、もうエネルギーを使い果たしているかもしれない。だが地震で歪んだ地殻が元に戻ろうとするように、もし時空に自己修復能力があるのなら、達郎が「今」ここに存在することこそが歪みそのものだ。再度のタイムスリップは達郎を未来へと返す形で発生するはずだった。必要なのはその条件を整えることだけだ。

 ――と、これらの思考は仮定に仮定を重ねて想像で挟んで憶測で焼いてご都合主義でコーティングして希望的観測でデコレーションして妄想をトッピングしたものでしかない。つまるところをまとめれば、


「この場所から動くべきじゃない。タイムスリップしてきた場所が元の時代に帰れる可能性が一番高い場所だ」


 出てきたのは非常にありきたりでつまらない結論でしかなかった。だが他に当てなどないし、勘や本能もまたこの場所に留まるべきだと言っている。何より、未知に対する恐怖が達郎をこの場所に止めていた。

 できれば一日中その場所に貼り付いて見張っていたいところだが、なかなかそうもいかなかった。何人もの農民が何かを探すように行き来しており、そのたびに達郎は移動して身を隠さなければならなかったのだ。彼等が何を探しているのか――まず間違いなく達郎のことである。自衛隊のレンジャーならともかく、素人の達郎がいくら身を隠そうとしたところで気配や痕跡はどうしても残ってしまう。近隣の農民からしてみれば達郎は近所に隠れて居座って干し柿などを盗むホームレスだ。捕まえて役人に突き出そうとするのも当たり前だった。

 だが捕まってしまえばこの場所から離されて元の時代に戻れる可能性はゼロとなる。その一方で隠れての野宿ももう限界だ。達郎は危険を冒してもタイムスリップしてきたその場所――ゼロポイントとでも呼んでおくか。そこに貼り付くをことを選択した。どのみち、今日中に事態が好転せずに今夜も野宿だったなら明日の朝には凍死体になるだけだ。

 その一方で、元の時代に戻れずにこの時代で一生を過ごすことも考えないわけにはいかなかった(その長さは置いておいて)。

 達郎は自分の持ち物を確認する。コートなどの衣服の他は、マスク、眼鏡、財布、スマートフォン、折り畳み式のエコバッグ。以上である。


「そんな装備で大丈夫か? 全然大丈夫じゃねーよ」


 と益体もない愚痴を口にする達郎。せめて風邪薬の一つもあったなら、と思わずにいられない。ホテルに置いてきた旅行カバンには替えの下着や暇潰しのための文庫本などが入っているが……


「てゆーか俺、ホテルに戻らずに失踪扱いになってるんだよな」


 チェックインした宿泊客が荷物を置いて姿を消したのでホテルは帳面の連絡先に連絡。でもそこは下宿先で住んでいるのは俺一人だから、あるいは警察を通じて金沢の父親の下に連絡が入って、何かの事件や事故に巻き込まれた可能性を考えられて……これだけ時間が経てばもう父親に連絡が入っているかもしれない。離婚して片親となった父だがいまいち折り合いが悪く、こんな騒ぎを起こしたなら何を言われるか判らず、それを考えると帰るのは気が重くなった。もういっそこっちに残ろうかと気の迷いも出てくる。

 もしこの時代に残って生きていくなら、先立つものは何よりも金だ。そして所持品の中で売ったら良い金になりそうなものが一つしかない。

 達郎はスマートフォンを取り出して久々に電源を入れてバッテリー残量を確認する――七五パーセント。無駄遣いしたなら残り一日二日、そうせずともせいぜい数日の生命だ。電源を落としたそれをエコバックに入れて何重にも巻き、手提げ部分で厳重に縛る。さらにそれを雑木林の木立の一つ、ひときわ大きく太い木の洞に入れ、そこに落ち葉を詰め込んで隠した。そしてその大木も含めて周囲の状況をよく観察し、記憶する。記憶力には自信があり、隠し場所が判らなくなる心配は不要だった。

 エコバッグは薄っぺらだがポリエステル製だ、防水効果はそれなりにある。もし元の時代に戻ることに失敗したなら、もし信頼できる人を見つけられたなら、そのときはこの切り札が役に立つ……かもしれない。可能性は非常に低く、ただの気休めでしかないけれど。


「なに、ちゃんと元の時代に戻ればいいだけだ」


 スマートフォンの紛失は痛いがよくある話で、致命傷でも何でもない。元の時代に戻れたなら、色々のごたごたを片付けられたなら、きっと全ては笑い話だ。漫画か小説のネタにだってなるだろう。

 よし、と気合を入れた達郎が雑木林の中を移動する。向かう先はゼロポイント、タイムスリップの起点となった場所である。




ということで、新作の投下開始です。

本作は全26回構成。明日以降は1日1回ずつ更新し、最終回は9月14日更新となります。

しばしの間お付き合いいただき、楽しんでもらえれば幸いです。



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