港湾
Mrs.クリスティーンがいなくなった後、身なりを整えたラッセルは時間を確認した。午前九時半、朝食は現場へ行く途中で済ませれば問題ないだろう。執務室のドアに鍵をかけ、土木局の建物を出た。マカダム舗装の大通りは辻馬車や広告を載せたオムニバスがせわしなく行き交い、歩道では新聞売りの少年が、脇に厚い紙の束を抱えて声を張り上げている。ラッセルは一ペニー銅貨を少年に渡して新聞を受け取ると、中央地区へ向かうオムニバスに乗り込んだ。
がたがたと揺れるオムニバスの車中は閑散としていて空席が目立つ。寂しいものだが仕方がない。長椅子に座って新聞を広げると、まず目についたのは<連合軍の大勝利>と書かれた大きな見出しだった。どうやら大陸の戦場で我が国の軍が大規模な攻勢を成功させたらしく、敵の塹壕が三十キロほど後退したとのことが写真付きで数ページにわたって述べられている。
「これは後ででいいな……」
ラッセルは空襲関係の記事はないものかとさらにページをいくつかめくり、端のほうにそれらしき小さな記事を見つけると、内容を読んで思わず顔をしかめた。その記事の見出しには<行政の怠慢>とあり、首都防衛委員長アルバート・マギニス氏の「復旧作業が進まない原因は首都土木局など関係機関の職務怠慢である」という辛辣なコメントが載せられていたのだ。
一日が始まってそうそうここまで憂鬱な気分にさせられるのも経験上珍しい。こんな記事は読むんじゃなかったと後悔しつつ、ラッセルは新聞を畳んで腋に挟み、目的地に着くまで外の景色を眺めることにした。しかし山高帽を被った男たちと煉瓦づくりの建物を見るだけしかやることのない単調な道中は、ラッセルの眠気を呼び起こすには十分すぎた。目的地の中央地区第三ドックに着いたとき、うっかり眠りそうになっていたラッセルは慌てて座席から飛び起きて、オムニバスの天井におもいっきり頭を打ったのだ。笑いを堪えている車掌にペニー銅貨で支払いを済ませたラッセルは、内心で今日は本当に最悪な一日だと毒づく。
黒いマカダム道路のざらざらした地面に両足をつけ、乗ってきたオムニバスを見送ったラッセルは、ちょうど道の向かいに見えるドック会社の事務所へと歩を進めた。何人かの水夫や港湾労働者とすれ違いつつも、全体としては人がまばらなドックには空襲の爪痕がはっきりと残っていた。倉庫のいくつかは爆弾の直撃を受けたのか崩れており、まだあちこちにガラス片や木片が散乱している。<臨時事務所>と書かれた札の下がった簡素な事務所の扉を開けたラッセルは、中からの突き刺さるような視線にさらされた。
薄暗い事務所の中にはドック会社の重役と思われる、正装した二人の男と、くたびれたジャケットを着て山高帽を右手に引っかけた小太りの男が立っていた。
「首都土木局のラッセル・パークスですが……中央地区第三ドック会社の皆様でしょうか」
「私と彼がそうさ……」
おそるおそる挨拶をしたラッセルに、正装した男の一人が、もう一人の正装した男を指して答えた。なぜか二人とも、ラッセルに対してぴりぴりとした空気を放っている。
「私は社長のカーディフで、こっちが倉庫主任のフィルポッツだ。事務所が空襲で焼けてしまったもんだから今はこの倉庫を事務所代わりに使ってる。汚いところだし、せっかくきてもらって紅茶の一杯もだせんのはちと心苦しいが、気を悪くせんでほしい。あとそこにいる彼は港務庁のMr.ベケットだ。まあ、お役所同士仲良くやってくれ」
正装した男に紹介された小太りの男はラッセルに軽く会釈する。
「港務庁のヒュー・ベケットです。よろしく」
「よろしくお願いします……」
「さて、挨拶もすんだところで本題に取りかかろう。皆こちらへ集まってくれ……Mr.ラッセル、すでにご存じかと思うがこのドックは一昨日の空襲でひどい損害を被った。ドックは首都経済の心臓部、一刻も早く復旧せねばならん」
カーディフ社長は全員を壁に掛けられた大きな地図の前に集めた。
「フィルポッツ、説明を頼む」
カーディフ社長がそういうと、倉庫主任のフィルポッツ氏が、立派な頬髭を撫でながら地図を使って話しを始めた。
「わかりやしたボス。簡単にいうと土木局さんにやってもらいたいのは瓦礫の撤去だ。爆撃を受けて崩れた倉庫は南ドックに隣接するこの第二倉庫と、南西ドック近くのここ、第七倉庫、第八倉庫、第九倉庫だ。これら崩れた倉庫の瓦礫が周辺の道を塞いでいる。特に大陸の戦場へ送るための弾薬を積んであった第二倉庫は大爆発を起こしちまって周辺はひどい状況だ。まあ、そちらさんも忙しいとは思うんだが、どうにかここの復旧作業にも人員を割いて、一日でも早くドックが正常な業務に戻れるように協力してほしいってもんだ」
フィルポッツ氏の説明が終わると、カーディフ社長は胸ポケットから一通の手紙を取り出してラッセルに見せる。
「というわけだから、今このドックは猫の手も借りたいってほど忙しいわけさ。首都防衛委員長のMr.マギニスからも今朝、復旧のためなら土木局を使っても構わんと連絡がきた。Mr.パークス……あんたら新聞じゃ散々言われてるらしいが、このドックの復旧で職務怠慢なんて真似をしたら許さんぞ……」
カーディフ社長に睨みつけられ、ラッセルは身体をびくっと震わせた。
「それと、あっしらは今忙しいんでね……現場の案内は港務庁のMr.ベケットにお願いしてもいいかい?」
フィルポッツ氏がそういって小太りのMr.ベケットの方を見ると、彼は愛想の良い笑みを浮かべて承諾した。
「いいでしょう……パークスさん。では私が案内しますのでついてきてください」
Mr.ベケットにいわれるまま事務所の外にでたラッセルは、人差し指と中指で眉間を押さえながら盛大なため息をついた。どうやら自分はこの会社からあまり歓迎されていないらしい。まったく、考えてみれば最近の自分は貧乏くじを引いてばかりな気がする。
「そう気を落とさないでください。そちらの事情についてはよくわかっているつもりですから……マギニス委員長に散々いわれなき中傷を受けているのは港務庁だって同じですよ」
前を歩いていたMr.ベケットが歩くのを止め、振り返った。
「パークスさん……そういえば、あなたとはついさっきお会いしましたばかりでしたね」
「はあ、ええと……」
ラッセルは一瞬、なにをいっているんだと怪訝な表情を浮かべたが、すぐに数時間前にパブのカウンター席に座っていた小太りの酔っぱらいのことを思い出した。
「ああッ……もしかしてあのときの」
「思い出してくれましたか。こういった形で出会ったのも何かの縁でしょう。一通りドックを見て回ったら、一緒に食事でもしませんか?」
そう言ってMr.ベケットは開いた右手をラッセルに差し出した。
「ベケットさん、喜んでご一緒しますとも」
少し考えてからラッセルも右手を差しだし、二人は握手を交わした。