酔い
聖職者の男はひどいしわがれ声で話し始めた。その灰色ががった肌とは対照的に、眼には赤々とした血管の筋が浮き出ている。こんな男と真夜中の路地裏ですれ違いでもしたら吸血鬼かなにかと勘違いしてしまいそうだとラッセルは思った。
「私の息子……ウィルフレッドはとても……よい子でした。とても……優しい子でした……それなのに死んでしまった……誕生日の次の日に、とても苦しかったでしょう……とても辛かったでしょう。私も今……とても苦しい。でも、あの子は……もっと苦しい思いをしながら死んだのだと思うと……ああ、運命とは残酷なものです……ウィル……私のウィル……なぜ……」
聖職者の男の充血した瞳から数滴の涙が静かにこぼれ落ちた。ラッセルはそっとポケットから銀貨を六シリング分取り出し、カウンターの上に置く。
「ジェシカ……こちらの紳士にウィスキーを一杯出してくれ……もちろんさっきみたいな安い密造酒じゃなくて、本物のやつをだ」
ジェシカはカウンターに置かれた銀貨を見て、目をぱちぱちさせた。
「ええ……いいわよ……あなたは?」
「俺はさっきのでいいよ」
彼女はその場でしゃがむと、カウンターの下からボトルを一本取り出して栓を抜いた。その顔はまるで狐にでもつままれたようだ。
「悪く思わないでねラッセル……本当はあなたのグラスにも注いであげたいところだけど、私だって生活がかかってるから……」
ジェシカが聖職者の男のグラスに並々と琥珀色のウィスキーを注ぎながらラッセルの方を向き、うつむき加減に告げた。
「わかってるよ、仕方がないことさ……ジェシカ」
「はあ……やっぱりあなたってお人好しよ」
ジェシカはため息を吐き、少し迷った素振りを見せてからラッセルのグラスを取り上げて、ほんの少量のウィスキーを注いだ。
「ジ、ジェシカ……これは、いいのかい……?」
「いいわよ、大した給料をもらってないくせに……見ず知らずの他人に同情して六シリングも払うバカは私が知ってるなかではあなたぐらいよ。さっさと飲みなさいよ、飲みたかったんでしょう」
「ありがとう……」
ラッセルはおずおずとグラスを手に取った。琥珀色の水面が店内のガスランプの明かりに煌めいて実に美しい。この蒸留酒が「命の水」と呼ばれるのにも納得だ。グラスを傾けて啜るように少しだけ口に含んだ。瞬間に口の中全体にウィスキー独特の暖かな風味が広がる。はじめに飲んだあのアンモニアが混じった泥水とは雲泥の差だ。
「うまい……やっぱり本物はうまいな」
あまりの美味しさに頭がくらくらしてきた。隣を見ると、聖職者の男はもうすでにグラスを空にしている。ラッセルは自分のグラスに視線を移し、この男はちゃんと酒を味わって飲んだのだろうかと不安になった。
「ウィル……お酒が……もう無くなってしまった……お前のことを考えると、飲まずにはいられない……私のウィル……愛しいウィル……哀れな私にお酒を……今のを……もう一杯ください……」
聖職者の男は空になったグラスを握りしめながら、袖で涙を拭った。
「六シリング払ってくれればもう一杯おつぎしますよ」
ジェシカがこちらに顔を向けて肩をすくめながらいった。ラッセルはやれやれとかぶりをふって、グラスの底に残っていたウィスキーを飲み干した。
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外の廊下を掃除婦がせわしなく動き回る音が聞こえてくる。ラッセルは執務室のくたびれたソファーで目を覚ました。起きあがって体をめいいっぱい伸ばし、壁に手をついて立ちくらみを押さえる。壁を伝って窓際まで歩き、滑りの悪い窓を開けると心地よい風が執務室の中に新鮮な空気を吹き込んだ。机の上に積まれた書類が数枚、くるくると宙を舞う。一昨日の空襲が嘘のように気持ちの良い朝だ。
「……もう当分……あの酒は勘弁だな」
しかしラッセル自身はお世辞にも快調とはいえなかった。数時間前に飲んだ粗悪な密造酒のせいで胃のあたりがむかむかしている。まるで腹の中に焼けた石炭でも詰め込まれたような感じだ。今日の朝に点数をつけるなら四十点といったところか……いくら気持ちの良い朝でもこれでは台無しである。
ぐったりとした気分で欠伸をしてから、ぽりぽりとこめかみを掻いて再度伸びをした。窓から下の大通りを見ると、ちょうど向かいにある地下鉄乗り場に蟻の巣のように人が群がっている。ラッセルとしては見慣れた光景だ。もちろんラッセル自身も、普段は自宅からここまで地下鉄で通勤している。毎朝のことだが、階段を降りてあの地下鉄特有の毒々しい悪臭を嗅ぐと憂鬱な気分になるものだ。地下鉄といえばたしか、交通局から漏水に関する報告書が山のように送られてきていたんだったと、今更のように思い出す。
「パークス課長、いらっしゃいますか?」
ラッセルが窓枠に肘をついて物思いにふけっていると、聞き慣れた声とともに執務室のドアがノックされた。
「どうぞ……私ならいますよ」
少し間をおいてドアが開き、郵便物でいっぱいのバスケットを抱えたMrs.クリスティーンが部屋の中に入ってくる。
「おはようございます、パークス課長。課長宛の郵便物を持って参りました」
「ああ、おはようございます……クリスティーンさん。そこの机の上にお願いします」
Mrs.クリスティーンは机の空いているスペースにバスケットを置くと、横目でちらりとラッセルの顔を見た。
「お疲れさまです。昨晩も徹夜でお仕事をなされたようですが……」
「まあ……仕方がありませんよ。空襲の後は土木局は忙しくなりますから」
ラッセルは胸ポケットから取り出した紙巻きタバコをくわえ、机の上に乱雑に散らばっていたマッチを擦って火をつけた。一度大きく息を吸ってからゆっくり嘆息すると、白い煙がふうっと押し出される。
「パークス課長。なんにせよ、お体は大事になさってくださいね。たまには体を休めることも大事ですよ」
「お心遣い感謝します」
ラッセルは眼の下の隈をこすりながら、Mrs.クリスティーンに軽く頭を下げた。
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死亡通知状
名前:ウィルフレッド・グルーバー
生年月日:1896年3月17日
日時:1916年3月18日
享年:20歳
死因:毒ガスによる中毒死
階級:兵卒
所属:第59歩兵連隊
入隊:1914年9月30日
徴兵登録番号:4219
慈悲深い神よ、祖国に尽くした彼に永遠の安らぎを与えたまえ。