95 ちぐはぐな怪物
「じゃあ、切り裂き魔事件について最初から振り返っておこう」
イーレンス王子がそう仕切りなおしたところで、研究室の扉がノックされた。
「巡査騎士団長のコルゼーです」
「ああ、来たか。入ってくれ」
王子の言葉で扉が開く。
入ってきたのは、やや猫背の中肉中背の騎士だった。年齢は40代だろう。首から下は騎士らしく革の軽鎧を身につけているが、頭にはくたびれた中折れ帽をかぶっている。ヘーゼルの髪と瞳、鼻の下には髭まで蓄えていて、パイプでもくわえさせたら思わず「警部!」と呼びかけてしまいそうな容貌だった。
「――紹介しよう。彼が、巡査騎士団長のコルゼー。現在切り裂き魔事件の捜査に当たっている。名前くらいは聞いたことがあるだろう?」
王子が、俺とデヴィッド兄さんにそう言って、コルゼー警部……じゃなかった、巡査騎士団長を紹介してくれる。
コルゼーさんは王子の言葉に苦笑しつつ、
「どうせろくでもない噂を聞いてるんでしょう。絵入り新聞というやつは、情報を得る上では便利な半面、渦中の人物にとっては精神的な凶器ですからな」
たしかに、コルゼー巡査騎士団長については、絵入り新聞ではさかんに批判されていた。
活版印刷はキュレベル商会を通して俺が普及させたものだから、罪悪感を覚えるな。報道の自由を確保することは大事だと思ったから、王に新聞社の報道内容については干渉しないようお願いしてしまった。市民もそのうち目が肥えてきて新聞報道の真偽について判断できるようになると思うが、今はまだ、ゴシップに踊らされる市民も多い。切り裂き魔事件で矢面に立たされることになってしまったコルゼーさんには申し訳ないとしか言いようがない。
疲れた顔を見せるコルゼーさんに、王子が慰めるように言う。
「部外者の批判など、気にすることはないよ。実際に捜査に当たってみれば、切り裂き魔を捕らえることがどれほど難しいかわかろうというものだ」
「ありがたいお言葉です。陛下も同じように言ってくださいます。そればかりが心の支えでして……」
「これからは、僕も一緒に捜査に当たる。批判される時は一緒だ。それから、僕の他にも一緒に批判されてくれる心強い仲間が2人もいる」
皮肉げに笑って、イーレンス王子が俺とデヴィッド兄さんをコルゼーさんに紹介した。
「王室探偵とその助手、ですか。これは心強い」
と、口では言ってくれるが、コルゼーさんの瞳にはデヴィッド兄さんを見定めようとする色があった。……ちなみに、俺の方はろくに見てもくれない。ま、見た目が子どもだからね。
「そんなわけだから、コルゼー、切り裂き魔事件についてこの2人に改めて説明してもらえないだろうか」
「それは構いませんが……どこから説明すればいいでしょう?」
コルゼーさんが、デヴィッド兄さんにそう尋ねる。
「済みませんが、本当に最初からお願いします。私が知っている情報は、あくまでも伝聞にすぎませんので」
「ふむ、そうですな。実のところ、切り裂き魔事件については公開していない情報も多いのですよ。その理由は……お分かりになるでしょうか?」
コルゼーさんが、髭を指先で引っ張りながら言う。兄さんを試すつもりだな。
「模倣犯の排除、及び、切り裂き魔らしき人物を捕らえた場合に証言の裏を取るためですね」
「その通りです。もっとも、かような犯罪を模倣する者などそうはいないでしょうから、主に後の方の理由が重要ですな。犯行現場について2、3の質問をして、食い違いがあるようならその人物は切り裂き魔ではないということです。むろん、たくみに嘘を吐く可能性までは排除できませんが……そこは、尋問者の腕の見せ所というわけですな」
コルゼーさんが、自信ありげに含み笑いをする。
父さんも、コルゼーさんは決して無能な人物ではないと言っていた。巡査騎士団長の要職にあって国王からの信任も厚いのだから当然だろう。
「では、最初の事件から説明していきましょう。事件の発端は、昨年末――すなわち1299年禿鷹の月(12月)7日に、新市街緑地公園の公会堂裏手で1人の少女の惨殺死体が見つかったことです。少女の名前はモリガン・ウェスタニアといい、近くにあるギャリガン勅許初等学校に通う生徒でした」
勅許初等学校というのは、国王の認可を得て開かれた民間の学校のことだ。「初等」とあるが、入学年齢は12歳から15歳までの間で、3から5年の教育を行うから、前世でいえば私立の中学校か高校という感じか。前世の中高と異なり、職業に直結することを教える学校が多いというから、専門学校に近いかもしれない。
もちろん学費が必要なので、学校に通えるのは富裕な市民か貴族に限られることになる。一応、奨学金制度もないわけではないのだが、そもそも奨学生試験に受かるためにも勉強が必要だから、本当に貧しい人には奨学金制度すら手が届かないのが実情だ。
転生者として、もしこの国の政治について口出しが許されるとしたら、既に始めている活版印刷によるマスメディアの形成とともに、教育の一般への開放を訴えることになるだろう。何なら俺が学校を作っても面白いかもしれない。
……そういえば、輪廻神殿のアルバイトにおける先輩のミリア先輩が、第一の被害者と同じ学校だと言っていたな。じゃあ、先輩が通っているのもそのギャリガン勅許初等学校だということか。ということは、
「ひょっとして、結構いい学校ですか?」
「おお、助手さんの言う通りです。旧市街の士官学校に入れなかった者の……言い方は悪いが、『滑り止め』のような学校ですな。当然、学費もそこそこします。ウェスタニア家は貴族ではないものの、地主階級に属していて、子どもの教育には熱心なようです。……その子どもをこうした事件で失ったのですから、その心痛たるや外からは計り知れないものがありますな」
これは、殺人事件だ。それも、ミステリーやサスペンスではなく、現実の。探偵や探偵助手という言葉に浮かれていた気持ちが、一気に引き締まった。
「現場の状況は?」
イーレンス王子が聞く。
「凄惨、というほかありませんでしたな。少女の死体は喉及び腹部を切り裂かれ、辺り一面に血が飛び散っていました。その血の海の中には……その……」
「必要なことだ、言ってくれ」
言い淀むコルゼーさんに、王子が言う。
「はっ。鋭利な刃物で切断されたと思しい少女の内臓が散らばっていたのです。現場の絵図をご覧になりますか?」
デヴィッド兄さんが頷き、俺たちは殺害現場の絵図を見ることになった。
しかし、これは……。
「凄まじいでしょう? その絵図を描かせた画家は、冷静な観察眼で客観性に優れた絵図を描くことで有名なのですが、さすがにこの時ばかりは何度となく嘔吐していましたよ。それでも描き上げたのだから大したものですが……」
グロが苦手な人は、今からでも遅くないから、絵図から目を逸らした方がいいと思う(絵図の描写はここから8行ほどだ)。
現場は、建物の裏で、木立で人目につかない場所のようだ。
そこに、一面の血の海があった。絵図は絵画ではないので、血であることがわかる程度に着色されているだけだったが、その淡々とした色彩がなおさら現場の凄惨さを際立たせている。
コルゼーさんの言葉通り、少女は喉と腹を裂かれ、手足をだらりと垂らした姿勢で建物の壁に背をもたせかけていた。周囲には少女の内臓が散らばっている。
いくつか、気になることがあった。
デヴィッド兄さんの方を見ると、俺を促すように頷いてくれる。
俺は、少女が見を預けている壁を指さして、コルゼーさんに聞く。
「……この文字は?」
そこには、「X」あるいは「☓」に見える大きな文字が並んでいた。数を数えてみると、合計で10個ある。大小はさまざまで、重なるように描かれていて、不謹慎ではあるが、ジャクソン・ポロックの現代アートを連想してしまった。
「ほう? 助手さんにはこれが文字に見えると?」
コルゼーさんが意外そうに言った。
たしかに、「X」に似た文字は、マルクェクト共通語のアルファベットには存在しない。
「……コルゼーさんは、何だと思いましたか?」
デヴィッド兄さんがフォローするようにそう聞いてくれる。
「何らかの印だと思いましたね。何らかの裏組織があって、それが裏切り者を粛清し、他の裏切り者への見せしめとして、彼らにしかわからない『印』を残したのではないか、と」
「何らかの……か」
イーレンス王子が不満そうにつぶやく。
「そんなどえらい裏組織があるなんて聞いたことがないな」
「私もです、殿下。巡査騎士団長の任にある者として、王都の暗がりについても一定の知識がありますがね。その中にこんなことをしでかしそうな組織はありません」
「そもそも、モリガン・ウェスタニアはただの学生だろう。そのような組織に見せしめとして殺されるわけが……いや、彼女の両親ならどうだ?」
「先ほども申しました通り、ウェスタニア家は何の変哲もない地主階級の庶民の家です。その線もありえないかと。……ああ、もちろん、調べるだけは調べましたとも。しかし、その限りでは裏組織とのコネクションなどありそうにないですな」
コルゼーさんが自信ありげに断言した。
「もうひとつ、いいですか?」
俺が聞くと、コルゼーさんが頷いた。
「内臓ですが、散らばり方に特徴がありますね。なんというか、無造作に左右に投げ捨てているみたいに見えます」
「本当は、助手さんみたいな歳の子に、こんなものは見せたくなかったんですがね。その通りですよ。腸は細かく切られて左右に無造作に放り捨てられてます。唯一、死体のそばに残っていたのが……」
「子宮、か」
絵図に記されている文字をそのまま読むと、コルゼーさんが渋い顔で言った。
「しかも、子宮だけは抉り出した後で切り開かれているんですな。おぞましいとしか言いようがない……」
「なぜ切り裂き魔は子宮にこだわるのか……いや、これについては考えても無駄か」
イーレンス王子が頭を振って肩をすくめた。
「モリガン・ウェスタニアのプロフィールについて教えていただけますか?」
仕切りなおすように言ったデヴィッド兄さんに、コルゼーさんが答える。
「はい。被害者であるモリガンは14歳。学校では取り立てて目立ったところのない生徒だったとのことでした。成績は中の上といったところでしょう。性格は素直で温厚。人の恨みを買うような子ではなかったという証言を、教師、級友の双方から得ています」
「交際していた異性や、言い寄ってきた男はいませんでしたか?」
「少なくとも判明している限りではいなかったようです。実際、聞いているエピソードは微笑ましいものばかりで、色恋に興味があったようにも思えません。年齢としてはやや奥手かもしれませんな」
「彼女が妊娠していた……ということもありませんね?」
ぎょっとした。
当人以外の3人の視線が、デヴィッド兄さんに集中する。
コルゼーさんが搾り出すように答えた。
「ええ……それだけは確かです。仮に隠れて付き合っている男がいたとしても、妊娠だけはしていませんでした。なにせ、現場には切り開かれた子宮が転がっていたのですから……」
「切り裂き魔が子宮から胎児を取り出し、持ち去った可能性は?」
兄さんの質問に俺を含む3人が揃って息を呑んだ。
「妊娠していた子宮とそうでない子宮は、胎盤の状態によって簡単に区別できるそうです。宮廷の医師に散らばっている内臓について、どれがどこに収まっている臓器なのかを確認してもらったのですが、その際に子宮についても妊娠していた形跡はないと聞いています。その医師は、さすがにその場で吐くことはなかったのですが、翌日から体調を崩して寝込んでしまったそうです。それだけの現場だったということですな」
「そうですか」
兄さんはそれだけ言うと、再び口を閉ざしてしまった。
「……第一の事件について、他に質問はあるかい?」
イーレンス王子が締めくくるように言う。それ以上の質問は出なかった。
「じゃあ、第二の事件に進もうか。コルゼー、ご苦労だが頼む」
「はっ。切り裂き魔による第二の事件が起きたのは翌月――1300年の小夜鳴き鳥の月(1月)7日のことです。今度の犠牲者はキャサリン・フォドレットという名前の服飾商でした」
「殺害現場は?」
イーレンス王子が質問する。というより、合いの手を入れたような感じだな。王子はこの辺りについては既に把握済みなのだろう。
「現場は、被害者の店からほど近い路地裏です。帰り道に襲われたか、店からおびき出されたのでしょうな。店には弟子と従業員がいますが、いずれも夕刻までには店を出ています。その後のキャサリン女史の行動については不明ですが、聞き込みをした限りでは店から外出した形跡はありませんでした。ちょうど仕事の期限が近かったそうですから、おそらくは店で仕事をしていたんでしょう。そこから、何かの用事で外に出たのか、切り裂き魔におびき出されたのか、路地裏まで連れ込まれ、人知れず殺害されたというわけです」
「なぜ、切り裂き魔の起こした事件だと判断されたのでしょうか」
デヴィッド兄さんが聞く。
「現場の状況が酷似していたからです。キャサリン女史もまた、喉と腹を裂かれ、周囲は血と内臓の海と化していました。そして壁には、先ほど助手さんが指摘した文字のような印が大量に残されていました。現場の状況、とくに臓器の状態や書き殴られた印については、巡査騎士団の外部には公表していません」
「……模倣犯ではありえないってことか」
「そういうことです」
さっきのデヴィッド兄さんとコルゼーさんのやりとりを思い出してつぶやいた俺に、コルゼーさんが頷いた。
「第一発見者は?」
「早朝に仕事を始めていた新市街の掃除夫です。彼の悲鳴を聞きつけて、すぐに巡回の巡査騎士が現場に駆けつけました。その時点で血は乾きかけていたようですから、第一発見者の掃除夫を疑うことはできんでしょう。それでも一応、当夜の居所を聞きましたが、この掃除夫は債務者監獄の保護下に置かれておるんですな。むろん、夜間に債務者監獄の雑魚寝部屋から彼が出かけたという事実はありませんでした」
債務者監獄は、普通の牢獄とは違って、金が返せなくなった者の更生を目的として運営されている施設だと聞いている。監獄と言っても許可制で外出はできるし、掃除夫のような仕事を受けることもできるが、酒場や賭場に行くことを防ぐために夜間の外出はできないようになっているという。ある意味鉄壁のアリバイだな。
「キャサリン女史は、どのような人物でしたか?」
デヴィッド兄さんが話を進める。
「彼女は旧市街の王立劇場に衣装を卸していることで有名な新進気鋭の服飾商でした。年齢は36歳とのことですが、服装や化粧のせいで20代に見えると評判でした。劇場の支配人に生前の似姿を見せてもらいましたが、見事なもんです。うちのカカアがちょうど36ですが、年々胴回りが太くなるばかりで、とても同い年とは思えませんな」
「まぁ、キャサリン女史は商売柄若々しく見えないと困るんだろう。自分で作った衣装のモデルを務めることもあったようだしな。しかし、若く見えたせいで切り裂き魔に目をつけられたのかもしれない。コルゼーの奥さんは美人じゃなくて命拾いをしたのかもしれないぞ」
軽口を叩くコルゼーさんにイーレンス王子が際どく応じると、
「うちは子だくさんだから、カカアには長生きしてもらわねぇといけませんわ。小汚ねぇツラとしまりのねぇ身体なんて、お互い様ってもんですしね。殿下も探偵殿も、結婚してみればわかりますよ。最初は互いに夢中でも、一緒に歳を取るごとに嫌なとこばかり目につくようになってくるんですわ。容貌も互いに衰えて、鏡を見てるようで辛くなることもあるんです。そこでどう折り合いを付けられるかが、中年の夫婦ってもんですな。互いが互いに上手に幻滅していくことが、夫婦生活の危機を乗り切るコツってもんです」
コルゼーさんが夫婦論をぶちまけてくれた。
それはそれで興味深いけど、今は切り裂き魔の話だよな。
「……2人目の犠牲者であるキャサリン女史と1人目の犠牲者であるモリガン嬢に接点はありましたか?」
デヴィッド兄さんが、何事もなかったかのように質問して、コルゼーさんが我に返った。
「調べた限りでは、ありませんでした。キャサリン女史は新市街の初等学校を卒業していますが、そこはモリガン嬢の通うギャリガンではなくコーネイユです。芸術や服飾を専攻する学科があることで有名な学校で、女史もその服飾科を卒業しています。ちなみにモリガン嬢の専攻は教養科で、専攻の面でも接点はありません」
「キャサリン女史も、妊娠はしていなかったでしょうね?」
兄さんのあけすけな質問に、コルゼーさんがやや鼻白んで答えた。
「ええ。交友関係もひと通り調査はしてみましたが、過去に付き合っていた男が何人か見つかった他に手がかりはありません。その男たちも、女史に恨みを抱いているということはありませんでしたし、事件当夜の居所もはっきりしています。痴情のもつれの線は薄いでしょうな」
「……よく調べてますね」
思わずそう感嘆すると、
「他に手がかりもありませんでしたからね」
コルゼーさんは少し照れたようにそう答え、頭にのっけたままの中折れ帽の位置を直す。
俺から見て、コルゼーさんが絵入り新聞の言うような無能とはとても思えなかった。むしろ、この世界の文明水準からすると近代的な部類に入る客観的で徹底した捜査を行っているように見える。
この人をして未だに尻尾も掴ませない切り裂き魔。そんな相手を、本当に捕まえることができるのだろうかと不安になる。
イーレンス王子が質問する。
「商売敵の線はどうだい? 服飾商として成功していたなら、それを妬んだり邪魔に思ったりする同業者がいてもよさそうだけど」
「たしかに、調べてみるとセボンヌ商会という服飾問屋とライバル関係にあったそうなのですが、必ずしもキャサリン女史がセボンヌ商会の頭を押さえていたというわけでもないようです。時に勝ち、時に負けるという関係だったと。老舗であるセボンヌの会長は高齢で伝統を重んじる主義の持ち主ですが、一方でキャサリン女史の新進性を認めてもいたという評判です。年齢的にも、人柄的にも、とうてい切り裂き魔となって女史を惨殺するようなことはできんでしょう。そもそも、事件当夜は王立劇場の仕入れ担当との打ち合わせで旧市街側の宿に泊まっていたということですので、犯行は不可能です」
コルゼーさんの捜査に漏れはないように思えるな。
「第二の事件について、他に質問はあるかい?」
最後に王子が確認するように言い、デヴィッド兄さんは小さく首を振った。
「切り裂き魔による第三の事件が起きたのは、早鶯の月(2月)3日。舞台はこれまでとは打って変わり、旧市街の貴族の邸宅です。ヴィステシア子爵邸で、子爵の夫人であるジャネット・ヴィステシアが殺されているのが、翌早朝、出勤してきた奉公人によって確認されました」
「……? 子爵夫人は屋敷にひとりでいたのか?」
イーレンス王子が怪訝そうに聞く。
「当日当夜ヴィステシア子爵は王城に詰めており、屋敷を留守にしていたそうです。なんでも、所属する農政部で予算の使い込みが発覚したとかで、会計担当の彼は徹夜仕事だったとか」
「そしてその間に屋敷が切り裂き魔に襲われてしまったわけか……気の毒な」
苦い顔をするイーレンス王子に頷き、コルゼーさんが続ける。
「ちなみにヴィステシア子爵は領地を持たないいわゆる法衣貴族で、裕福な貴族ではありませんし、何より本人が役職にふさわしい倹約家です。屋敷にも余分な奉公人は一切置いてません。夜は戸締まりをしっかりして、奉公人はすべて帰してしまうとか」
不用心のようだが、そもそも旧市街はモノカンヌス湖に囲まれ、通行できるのは金門橋だけだ。不審人物など入り込みようがない。子爵がコルゼーさんの言う通りの小身の貴族なら、他の貴族がわざわざ子爵の邸宅に盗みに入ることも考えられないだろう。
「現場の様子は?」
コルゼーさんは絵図を取り出しながら説明する。
「基本的には、先の2件と同じです。血と内臓の海。喉と腹を裂かれた死体。切り開かれた子宮。壁一面に書きつけられた謎の印。それから、先回りして答えますと、夫人は妊娠してはおりませんでした」
「室内となると、手形や足形は残っていなかったかい?」
「手形、足形ともに、ぬぐうように周囲に血がなすりつけられていて、判別はできませんでした。ただ、ぬぐわれた手形・足形は、それほど大きなものではないようでした」
「具体的には?」
「そうですね……大の男のものとしては、小さめではないでしょうか」
「切り裂き魔は小柄な男ということか……?」
イーレンス王子が眉根を寄せながらつぶやく。
これまで聞いてきて、唯一切り裂き魔を限定できるような情報ではある。
そこで、俺はふと思いついた。
「例の印ですが、いちばん高い位置に書かれているものは、どのくらいの高さだったかわかりますか?」
俺の質問に、イーレンス王子がハッとした様子で顔を上げた。
しかしコルゼーさんは、俺の質問を想定済みだったようだ。
「大人の男の顔くらいの高さ――ちょうど、私の頭の辺りですな」
「うーん……背の低い男が手を伸ばせば届くくらいか」
「しかし逆に、背の高い男が身をかがめて書いた可能性も捨てきれないでしょう。というわけで、切り裂き魔は長身ではない可能性が高いが、断定するには材料が足りないという結論になるのです」
俺はもう一度考えてから聞いてみる。
「……屋敷に押し入ったような形跡はありませんでしたか?」
「ふむ。助手さんは、よいところに気づかれますな。それが、なかったのです。夫である子爵は戸締まりについては神経質なほどうるさかったようでして、夫人も戸締まりを欠かすことはなかったそうです」
「えっ……じゃあ、夫人は男を招じ入れて?」
「それも、夜の間に、ですな」
コルゼーさんが意味ありげに言う。
「屋敷内の金品は?」
「まったく手を付けられていませんでした。それどころか、金品を探そうとした形跡もない。強盗に見せかけようという発想もなかったようですな。薄々わかってはおりましたが、やはり切り裂き魔は金品には興味がないようです。法衣貴族とはいえ貴族の邸宅なのですから、相応に価値のあるものもあったはずなんですがね」
「奉公人が仕事を終えて帰ったのはいつですか?」
「夕刻、日が沈む頃だそうです。メイドや執事にはギルドがありましてな。その定めで、日没後の仕事には割増の報酬を払う必要があるのです。締まり屋の子爵はそれを嫌って、奉公人を夕刻までに帰してしまうのですな。そして、その後王城から使者がやってきて、子爵は農政部での使い込み発覚を知り登城することになります。この使者がやってきたのは、本人の証言によれば、日没後3時刻はすぎていなかったはずだとのことです」
1時刻は前世の1時間にだいたい相当すると思っていい。前世と違って時計なしでの目分量だから前後1時刻くらいの誤差は生じるだろうが、今はそこまでの精度は必要なさそうだ。だいたい午後9時くらいにはヴィステシア子爵邸は夫人ひとりになっていたということか。
「ふむ……いろいろとおかしなことが多いね」
イーレンス王子がそうつぶやく。
「まず、切り裂き魔はどうやって屋敷に侵入できたのか? 夫人が招き入れたとしたら、それはなぜか? また、どうして切り裂き魔はその時間に夫人がひとりでいることを知っていたのか?」
「ええ、総合的に考えて、切り裂き魔は夫人の知己だったと判断したくなるでしょう?」
「いちばんわかりやすいのは、切り裂き魔が夫人の情夫だったという可能性だが……」
「ヴィステシア子爵夫人は33歳。美人ではあるでしょうが、あまり社交的な性格ではなかったと聞いています。とくに、ここ2ヶ月ほどは乗馬中の事故で足の骨を折って自宅静養しておったそうで、なおのこと他人との接点はありそうにないですな。もちろん、噂となっている相手もおりませんでした。もちろん、男女のことに絶対はありえませんが……」
コルゼーさんがそう言うということは、手をつくした上でなお浮かんでこなかったということだろう。
しかし、一応、ひとつだけ整合性のある説明が思いついた。
前世のミステリー小説的な発想ではあるが、可能性がないこともないと思う。
俺はデヴィッド兄さんをちらりと見る。デヴィッド兄さんはYESともNOともつかない感じで小さく首を振った。よく意図がわからないが、言うだけなら構わないだろう。
「ヴィステシア子爵自身が切り裂き魔だった……という可能性は?」
イーレンス王子とコルゼーさんが目を見開いた。
そう。ヴィステシア子爵自身が切り裂き魔なら、登城する前に夫人を殺して行けばいいだけのことで、そこには何のトリックも必要ない。
「いや……絶対にないとは言いませんが、無理筋では……」
「動機は……夫婦のことだから、いくらでもこじつけることはできるだろうね」
コルゼーさんと王子はそう言って考えこむ。
そこに、デヴィッド兄さんが涼やかな声で言った。
「おふたりとも、そんなに考える必要はありませんよ?」
「……どういうことですかな、王室探偵殿」
「切り裂き魔の手口は伏せられているのですから、ヴィステシア子爵が切り裂き魔ならば、1件目2件目の事件もヴィステシア子爵の犯行でなければならなくなりますね。調べていないのでわかりませんが、ヴィステシア子爵の職場は王城なのですから、夜間に新市街側にいた可能性は薄いでしょう。問題なく、前2件の『アリバイ』が成立するはずですよ」
「『アリバイ』……とは?」
コルゼーさんが兄さんに聞き返す。
兄さんは俺に流し目をくれた。説明しろってことね。
「不在証明のことです。犯行時刻に犯行現場にいなかったことが確実に証明できるかということです」
「ふむ、便利な言葉ですね。巡査騎士団でも使わせてもらいたいくらいです。図書館から発掘された概念ですかな?」
「……そ、そんなところです」
前世知識だと言うわけにはいかなかったのでそう合わせておく。
「そうは言っても、可能性がある以上、ヴィステシア子爵の『アリバイ』を確認する作業は必要でしょうな。後でうちの者に調べさせましょう」
コルゼーさんは手帳を取り出して何事かをメモした。
イーレンス王子が、デヴィッド兄さんに挑むように言う。
「それにしても、ずいぶん自信ありげだね、デヴィッド。実際エドガー君の言う通り、ヴィステシア子爵が切り裂き魔なのかもしれないだろう?」
……前から思ってたけど、イーレンス王子はデヴィッド兄さんに対抗心があるみたいだな。対するデヴィッド兄さんは、涼しい顔で答えた。
「可能性だけならば。しかし、3件目のみが子爵の犯行であるならばともかく、前2件までとなると、可能性が低くなりすぎますよ。妻を殺すために切り裂き魔事件を起こすのでは割に合わなすぎる。切り裂き魔事件に見せかけて妻を殺すのならばともかく」
「しかしその場合は手口の問題がある、か……。切り裂き魔の細かい手口は公表されていないから、子爵が切り裂き魔を模倣しようとしたとしても、現場の状況が再現できないということだね。……言われてみればその通りだ」
イーレンス王子はちょっと悔しそうに言った。自分でそのことを思いつけなかったのが悔しかったのだろう。
「で、小さな助手君のアイデアは立ち消えてしまったわけだが、デヴィッド、君自身はどう思ってるんだい?」
それは俺も聞きたい。
……べつに、案を出させておいて一瞬で潰された恨みで言ってるわけじゃないぞ。
「その前に、情報を出しきりましょう」
デヴィッド兄さんが軽くかわす。
「情報? 今コルゼーから説明したことで不足か?」
「目撃情報があるでしょう」
デヴィッド兄さんが言うと、コルゼーさんが渋い顔をした。
「あるにはありますがね……どれもこれも不確かだし、調べてみればデマや思い込み、見間違いも多い。王都の市民はすっかり切り裂き魔に浮足立ってしまってます」
「それで構いません。仮説を立てる前に、できる限り生の情報に触れておきたいのです。それこそが――」
「――行動博物学の方法なのだ、だろう?」
イーレンス王子がそう言ってにやりと笑った。
「その通りです、殿下」
デヴィッド兄さんも笑って一揖する。
次話明日です。