90 訪問診察の天使
デヴィッド兄さんが行ってしまったので、ルーチェさんと少々の情報交換をしてから、俺も図書館迷宮を出た。
外に出ると、時刻は夕方に差しかかろうかという時間だった。
俺はもう一件の用事を片付けるべく、旧市街を歩いて行く。
「すいませーん」
俺は声をかけながら、輪廻神殿モノカンヌス旧市街支部の門扉をくぐる。
「いらっしゃい、エドガー君」
そう声をかけてくれたのは、ミリア先輩だ。
俺は【治癒魔法】を習うために輪廻神殿に週1回通っている。
彼女はそこでの先輩で、ダークブラウンの髪を腰の辺りまで伸ばした楚々とした雰囲気の美少女だ。年齢は14歳だと聞いている。
新市街の学校に通う学生だというが、落ち着いた鳶色の瞳を見る限り、きっと優等生なのだろうと思われる。
「司祭さまから訪問診察のリストはもういただきましたよ。エドガー君の準備がよろしければ、すぐに訪問診療に参りましょう」
育ちがいいのか、見た目8、9歳にしか見えない俺にも丁寧語でしゃべってくれる。
訪問診察というのは、重病人やお年寄りなど輪廻神殿まで自力でやってくることが困難な人のもとへと出向いて【治癒魔法】をかけることだ。
【治癒魔法】は怪我や病気を治して始めて経験となるので、ひとりではスキルレベルを上げることが難しい。わざと怪我をしてそれを治すこともできるっちゃできるけど、ジュリア母さんやステフやエレミアが泣いて止めると思うので試したことはない。
ともあれ、【治癒魔法】のスキルレベルを上げるには実地で怪我人・病人を治すしかない。そこで俺は、輪廻神殿で訪問診察のボランティアをやっている。
児童労働じゃないのか、というつっこみはあるかもしれないが、この世界、農村でも都市でも、貴族以外の子どもは働ける範囲で働いている。それに、【治癒魔法】を使える者が少ないという事情もあって、俺がボランティアを申し出ると、司祭さんは飛び上がらんばかりに喜んでぜひにと言ってくれた。
とはいえ、見た目8、9歳でしかない俺ひとりでは司祭さんも不安だし何より患者さんが不安がる。そこで、以前から神殿でボランティアをしていたミリア先輩の下につく形で、一緒に訪問診察をすることになったのだ。
「はい、気持ちを楽にしてくださいね?」
早速最初の患者さんの家に到着し、診察に取りかかる。
といっても、あらかじめ病状や怪我の具合については司祭さんが聞いて回ってくれているから、俺とミリア先輩はリストの指示通りに【治癒魔法】をかけてあげればいいだけだ。
「И」
ミリア先輩が、背中を出した老婆に【治癒魔法】をかける。
ミリア先輩は人体の構造に詳しく、俺より【治癒魔法】の効果が高い。前世知識があるはずの俺よりも、である。
だからミリア先輩は、頼りになる先輩であるとともに良き師匠でもあった。
MPは俺の方が高いから、軽症者は俺が診て、ミリア先輩には重症者に集中してもらう。
この老婆の場合は、長年の力仕事のせいで背骨が歪んでしまっていて、起き上がると鋭い神経痛が走るのだという。変形して固まってしまった背骨には【治癒魔法】といえども無力だが、ミリア先輩は老婆の話をよく聞いて、痛みの走るところを中心に根気よく【治癒魔法】をかけてあげている。魔法はイメージ次第でかなりの融通が利くから、これだけ親身に話を聞いて【治癒魔法】をかければ、一時的に痛みを取るくらいはできるのだろう。
正直、こういう時のミリア先輩を見ていると、とても敵わないと思ってしまう。
俺には【不易不労】があるから、老婆の話を粘り強く聞いてあげるということはなんとかできる。だが、話を聞いて本当に共感できるかというと怪しい部分が残る。心のどこかで、これは【治癒魔法】ではどうしようもないな、と思ってしまい、その思いが【治癒魔法】にも現れてしまうだろう。【不易不労】や女神様の加護のおかげでむりやり覚えることはできるが、性格的な意味では回復魔法にはあまり向いていないのかもしれない。
だけど、だからこそ、ミリア先輩はすごいと思う。
「ありがとうね、楽になったわ」と繰り返し感謝する老婆に別れを告げて、俺と先輩は次の患者のもとへと向かう。
その道すがら、俺は何となく、先輩が心なしかいつもよりぼうっとしているような気がした。
「どうしたんですか、ミリア先輩? 何か心配事でも?」
「心配事……と言えるかどうかはわからないのですが」
先輩は、迷った様子を見せてから口を開いた。
「切り裂き魔の噂についてはご存知でしょうか?」
「そりゃ、もちろん」
2月3日、ちょうど俺の誕生日に、第三の事件が起きていた。
死体は、今度は旧市街で見つかった。
犠牲となったのは貴族の婦人で、死体は前の2件と同じく首を切って殺された上で、腹を割かれ、内臓が損壊されていたという。
――切り裂き魔がついに旧市街に現れた。
絵入り新聞は大々的にこの事件について報じていた。
これまでは対岸の火事だと思っていた貴族たちも、ついに貴族に犠牲者が出たことで色めき立ち、中には冒険者を雇って屋敷の警備を固める者まで出てきているという。
しかし、切り裂き魔とミリア先輩にどんな関係が?
「切り裂き魔に最初に殺された方が、私のクラスメイトだったのです」
「えっ……」
「特別親しくしていたわけではないのですが、毎朝挨拶を交わしていた方で……」
「それは……ショックだったでしょうね」
「ええ。でも、私はまだマシな方です。彼女――モリガンさんとおっしゃるのですが、モリガンさんと親しくされていた方はショックを受けて寝込まれてしまったり、切り裂き魔を恐れて学校に来られなくなってしまったりして」
「多感な時期ですからね……それはショックでしょう」
「ふふっ」
「な、何か?」
「いえ、エドガー君が、まるで自分が年上のようにおっしゃるのがおかしくて」
微笑ましいものを見るような目で、ミリア先輩が俺を見る。
……うん、たしかに今のコメントはなかったな。おっさんかよ。前世と合わせて36歳ならもうおっさんの入口くらいには立っているのかもしれないが。
「……あれ? でも、切り裂き魔の被害者は新市街の少女だって聞きましたけど」
「そうですよ?」
「ミリア先輩は旧市街に住んでいるとばかり思ってました」
「いえ、たしかに私の家は旧市街です。学校が新市街なだけです」
旧市街に住んでいるのにわざわざ新市街の学校に?
俺の顔にはまだ疑問が浮かんでいたのだろう、ミリア先輩が苦笑して言う。
「実は、士官学校には落ちてしまいまして。新市街の学校に進学したのですわ」
「それは……ごめんなさい」
「いいええ。今の学校には、お友達がたくさんおりますもの。士官学校は厳しいところですから、お友達というよりはライバルになってしまうそうです。私には今の学校が向いていたということなのでしょう」
「そう、ですか」
そんなふうに割り切れるってのはすごいことだよな。
14歳くらいでなかなかできることじゃないと思う。
でも、これだけの【治癒魔法】の才能を持つミリア先輩が不合格になったというのは意外だ。士官学校には神術科という【治癒魔法】を専門に扱う学科がある。ミリア先輩なら特待生になれてもおかしくないと思うのだが……。
俺の疑問に気づいたのか、ミリア先輩が言う。
「……士官学校を受けた時は、今ほど【治癒魔法】は使えなかったんですよ。その後、輪廻神殿でお手伝いをするようになった頃から、【治癒魔法】の腕が上がってきました。
でも、私が士官学校に入ることを熱望していた母は、私が腕を上げる前に亡くなってしまいました……。私が今くらい【治癒魔法】を使えたらあるいは……と思ってしまいます。
私はいつでも遅いんです。士官学校の入試にも間に合いませんでしたし、母の死にも間に合いませんでした」
そう言って寂しげに微笑むミリア先輩に返す言葉がない。
しばらくの沈黙の後、俺は話題を変えることにした。
「生徒会長だって聞きましたよ。ほら、たまに手伝いに来る後輩の人に」
「ええ。お恥ずかしながら。皆の模範になれるような人間ではないのですが」
「先輩が模範じゃなかったら誰が模範になれるんです? こうして貴重な休日に訪問診察のボランティアをやってて、学校では優等生なんでしょう?」
今のミリア先輩は十分以上に立派だ。士官学校に合格するより、よほど立派な生き方をしていると思う。
そういう気持ちをこめて言ったつもりだったが、ミリア先輩は目を伏せ、何かをこらえているような様子でつぶやいた。
「……それは、外面的なことです」
そう言ってミリア先輩は口をつぐんでしまった。
何か悪いことを言ってしまっただろうか。
「……気になっているのは、それだけではないんです」
しばらくしてから、ミリア先輩がぽつりと言った。
「切り裂き魔の二人目の犠牲者については知っていますか?」
「たしか、新市街の服飾店の女店主だったと思いますけど」
俺は記憶をたぐりながらそう答えた。
ミリア先輩は小さく頷いた。
「キャサリン・フォドレットさん。その方とも、ちょっとした接点があったのです。
私の父のことはご存知でしょうか?」
「お父さん?」
「サーガスティン侯爵です」
サーガスティン? どこかで聞いたような。
そうだ、
「ひょっとして、劇評で有名な?」
王都に到着した時に、父さんが言っていた。
旧市街でいちばん瀟洒と言われる屋敷に住む侯爵で、王立劇場の演目に対する辛口な劇評でも有名だという人物だ。
「そうです。演劇関係者にも知り合いが多くて、その縁でキャサリンさんとも親しくしていたのですが……」
先輩はその先を言い淀む。
切り裂き魔の犠牲者がどんな有り様だったかは絵入り新聞がイラスト付きで大々的に報じている。知り合いがそんな風に殺されたとあっては、ショックを受けて当然だ。
それにしても、
「2件とも先輩の知り合いですか……」
「はい……だから、切り裂き魔が身近にいるんじゃないかって心配で……」
「偶然だと思いますけど」
デヴィッド兄さんによれば、切り裂き魔の犯行はゆきずりのものである可能性が高いという。そしてそれこそが、市民たちを震え上がらせている原因なのだ。自分も凶行のターゲットになるかもしれないからこそ、市民たちは怯えているのだから。
とすれば、切り裂き魔がミリア先輩の周囲の人間を故意に狙っているとは思えない。
いや、先輩もそれくらいはわかってるか。わかってても、身近な人が犠牲になれば不安になる。
それに、事件が2つ身近で起きたということは、ミリア先輩の行動圏と切り裂き魔の行動圏が重なっているということだ。切り裂き魔が偶然ミリア先輩を次のターゲットに選ばないとも限らない。
「ミリア先輩、しばらくの間は、訪問診察を早めに切り上げるようにしましょう。あまり遅くなると、それこそ先輩が切り裂き魔に襲われるかもしれません」
先輩は患者のひとりひとりに丁寧な対応をしているから、どうしても診察が長くなりやすい。そうすると、輪廻神殿で訪問診察の報告をしてから家に帰る頃には、とうに日が落ちてしまっていることになる。切り裂き魔が事件を起こしたのは、3件とも夜の間だったはずだ。
「ふふっ。心配してくださるのは有難いですが、こればかりは譲れません。患者さんは苦しんでいるのですから」
「それなら、俺が家まで送りますよ。サーガスティン侯爵の屋敷なら、うちからもそんなに遠くないし」
「父が馬車を手配してくださるので、大丈夫ですわ。大げさだからやめてと言ったのですが」
「容姿の綺麗な女性が狙われているという話ですからね。お父様も心配なんでしょう」
「ふふっ……ほめてくださるのはうれしいけど、そういうのはもう少し大きくなってからにしてくださいね?」
「い、いや、そんなつもりじゃ……」
「今を時めくキュレベル侯のご子息なら、私としても父としても大歓迎なのですけれど。
もっとも、エドガー君が大きくなる頃には、私はもうどこかに嫁入りしていることでしょうね」
そうつぶやいた先輩の顔は無表情で、そのことについてどんな感情を抱いているのかを読み取ることはできなかった。
◇
訪問診察の後、俺は神殿の助祭さんに頼んで、【祈祷】用の小部屋を貸してもらった。
「随分と熱心ねぇ」
最近やってきたという新しい助祭さんは、20代後半くらいの女性だった。
地味な祭服のせいで目立たないが、泣きぼくろがセクシーで、美人だと評判だ。神殿を訪れる冒険者などからよく声をかけられているが、いずれもやんわりと断っているようだった。
そういう意味では、異性に好かれ、同性からも嫌われてはいない人気のある助祭だったが、幼くして訪問診察の手伝いをしている俺に興味を持っているらしく、たまに視線を感じることがある。面と向かって話している時も、目を正面から覗きこんでくるので落ち着かない。
美人だが、個人的には苦手なタイプだった。
「お祈りすると、気持ちが落ち着くから」
俺は助祭との会話を早々に切り上げ、【祈祷】用の小部屋へと閉じこもった。
小型の祭壇に銀貨を投げ入れ、二礼二拍手一礼してから、しっかりと祈る。神道式でやる意味はないのだが、他のやり方を知らないので仕方がない。とにかく、今から神とつながりを持ちたいという意思表示をすることが大事なのだ。
【祈祷】の感覚は、【念話】と少し似ている。祭壇との接続という点では【スキル魔法】にも似ている。祭壇に意識を接続し、女神様の構築したギフト分配システムを遡行して女神様に呼びかける。なんとなく、前世の電話に似ているな。
トゥルルルル……ガチャ。
『女神様は、現在、電話に出ることができません。ご用の方は、ピーという発信音の後に、メッセージを録音してください』
……。
いや、普段はこうじゃないんだぞ?
そもそもトゥルルルという呼び出し音からしてない。
「おい、女神様、どうしたんだ?」
『――というのは冗談なのだけれど、留守なのは本当です。『留守電かよ!』ってつっこんでくれた?』
ごめん、つっこまなかった。
『ええと、冗談はここまでにして、ここからはマジな話よ。加木君。いえ、いい加減エドガーの方がいいかしら』
「いや、どっちでもいいけど」
思わず返事をしてしまったが、録音メッセージみたいだから意味はなかったな。
『エドガー、わたしは今、竜蛇舌大陸の北方を監視しているわ。
理由は、北限帝国と魔族との間に不穏な動きがあるから。
でも、敵方も簡単には尻尾を見せない感じなので、ちょっと手間取っているのよね。
サンタマナの様子もたまには見ているけれど、あまりきめ細かな対応はできないと思ってちょうだい。
といっても、あなたもあなたの家族もずいぶん力をつけたから、少々のトラブルなんて余裕で切り抜けられるでしょうけれど』
ってことは、最近の俺の動きはあんまり見れてないってことか。
切り裂き魔のことはさておき、こないだの異常な魔物の群れのことや、アスラのことなんかを聞いておきたかったんだけどな。
『あのね、わたしはあなたにはとても感謝しているのよ?
あなたがサンタマナにいてくれるおかげで、わたしは北方の監視に注力できているの。
悪神の使徒はどこにでもいるから、わたしがサンタマナから目を離している隙に動きがある可能性も否定はできないわ。でも、不審な動きがあればあなたの耳に入るはずだものね。
この5年であなたも強くなったし、いつまでも保護者よろしく監視してるのも悪いような気もするのよ。だから、わたしが北方に意識を割いている間、サンタマナのことは頼むわね。たぶん、何事もないとは思うのだけれど。
それじゃあ、バイバーイ♪』
ブツン、と音がして女神様との通信が切れた。
俺を信じて任せてくれるのは嬉しいが、女神様が見てないと考えるとちょっと不安になるな。意外に、女神様が見ててくれてるってのが心の支えになってたみたいだ。
カラスの塒で潜入生活を送っていた時でも、女神様は俺のことを見てくれていた。女神様は直接手を出すことはできないらしいが、誰かが見守ってくれている、自分はひとりじゃないって感覚は結構大事なものだ。
さて、女神様は何事も起こらないだろうと言っていたが……どうだろう?
外では異常な魔物の群れ、街の中では切り裂き魔だ。
はたしてこれらの事件が、悪神モヌゴェヌェスやその使徒である転生者・杵崎亨と無縁なのかどうか……。
追記2015/08/02:
【重要】88話より登場したアルシェラートの偽名をアルシアからシエルへと変更致しました。「ア」で始まる人名が多くなってしまったためです。
既にアルシアで覚えてしまった方には大変申し訳ございませんが、よろしくお願い致します。
また、先日より、書籍版第1巻のキャラデザを活動報告で公開致しております。
ご興味がおありの方はぜひ活動報告を覗いてみてください。
それでは、今後とも『NO FATIGUE 24時間戦える男の転生譚』をよろしくお願い致します。
追記2015/08/05:
【重要】ミリルの名前をミリアへと変更致しました。(シエルとリズムが近いため)